kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

専門家が居ない日本

日本には真の専門家がいません。能力の低いジェネラリストが居るだけです。国益は棄損され、衰退への一途を辿っています。

 

あるスポーツ選手が日本のホテルに泊まった際に、ゲーム機器が上手く動かず、ホテルのスタッフを呼びました。数人の日本人が対応にあたりましたが、スムーズに行かなかったようです。その時に述べた不満の言葉が報道され、騒ぎになりました。

 

言い方の問題はともかくとして、彼らの心境はよく分かります。日本人はマニュアル通りの対応しかできず、本当に困った事態になると、まるで役に立たないからです。ゲーム機器の問題なら未だしも、これが疫病や経済問題だったとしたらどうでしょうか?

 

彼らが世界に誇る「おもてなし」とやらも、マニュアルに沿って笑い顔を浮かべているのに過ぎないのです。心の籠っていない「おもてなし」等は勘弁してほしいものです。客をホテルに監禁して監視する事も、日本流の「おもてなし」です。

 

なぜ日本人は、役に立たないのでしょうか? ひとつには彼らが専門家ではないからです。 

その代わりに、無能な「何でも屋」ばかりがいます。上から下までです。この国では、大学の専攻とは全く違う分野の職に就くことが当たり前となっています。法学部出身者が、カネ勘定を専門とする省庁に入ります。

 

またこの社会では、官僚養成学校卒の学士様が、修士や博士の上に君臨しています。専門家よりジェネラリストの方が偉いのです。しかも彼らは、行政の専門家ですらないのです。哲学や歴史、文学、芸術など、文明人として最低限の教養さえ身に付けていません。

 

この社会は、表向きは学歴を重視しているようで、学歴をまったく重視していません。たかだか人生の初めの20年弱の成績で人間としての上下を区別します。それが一生を左右します。逆に言えば、20年ちょっとをなんとか過ごせば、あとは何をしようと構わないという社会でもあります。

 

総合職は数年で部署が異動になります。その間は、やっているフリをしながらも失敗はできるだけ避けねばなりません。やれる事は限られます。彼らは自分達が決めた事がひっくり返されるのを極端に嫌います。前任者の申し送り事項も最大限に尊重します。

 

彼らは誤謬をおかさないという前提があります。そのために専門家と張り合います。専門家は軽んじられます。技術者は現場の人夫と同じような目で見られています。

 

末端の技術者は専門分野に注力できるのかというと、そうでも無いのです。例えばIT技術者は、ITで括られるものなら、何でも対応が可能と思われています。環境構築からロジスティックに近いことまでやらなければなりません。社内に報告する書類や申請も行わないといけません。分からない事があれば、Webや書籍を通して自腹で調査をしなければいけません。

 

優秀と目される技術者ほど、基幹システムの保守や刷新といった、つまらない仕事に就くことになります。無難に過ごせば安定した利益が得られる部署です。そこで80%を100%に近づけるような仕事に携わります。昔ながらのスクラッチ開発です。その部署で失敗を犯さない事が、会社内での出世につながります。もし万が一に利益が減ってしまうような事態になれば、他の事業部からの利益の付け替えをしてでも、業績が好調なように見せかけます。

 

日本で求められているのは専門技術ではありません。そうではなくて、日本の社会に適応し、空気を読み、日本人独特のコミュニケーションが出来ることが求められています。技術者などは、孫請が個人事業主を雇ったり、クラウドソーシングで集めてくるものです。彼らは、社会の底辺でいつの間にか沸いてくるウジ虫と同じ扱いです。都合よく使われて捨てられます。

 

日本では、自分の専門分野を定めてキャリアを積み重ねていくのではありません。それよりも、どの組織に身を置いていたか、そして身を置いて居るかが大切です。 分野に通じているかどうかはどうでも良く、言われた事を何でも卒なくこなす事が大事です。社会人になってから身に付ける「スキル」とやらも、専門技術とは言えないような代物です。

 

日本には「勉強」という言葉があります。強いて努めるとは、また何という言葉でしょうか! しかし実際にその通りなのです。日本人が勉強嫌いなのもよく分かります。日本人は勉強の仕方を知りません。ただの試験対策です。過去問を繰り返し解くことが勉強だと思っています。スキルを身につけるというのは、官によるお仕着せの資格を取る事だと考えています。

勉強とは、知識を得たり、ある決まりきった型に沿う思考を可能にする訓練だと思っているのです。本当は、主体的かつ批判的に、思考できるようになる事が教育の目的なのです。単に言われた通りに動くだけの人間を育てるのとは、大きく違います。

彼らは、自分で考え行動しているように感じています。実は違います。本当は「刷り込み学習」によって反応しているのに過ぎないのです。

 

日本が求めている理想の労働者は、体育会系の人々です。 そこそこの大学を出ていること。しかしあくまで体育会系であり、上から言われた事を何も考えずに実行する事が大切です。根性と努力によって突き進みます。好戦的で他人の迷惑は全く考えません。疑問を抱いてはなりません。アスリートは日本人の鏡です。あれこそが模範的な日本人と言うべき姿です。

 

「感動と勇気」。日本人が好きな言葉です。感動とは、際限のない努力によって生まれる苦しみと涙に自己陶酔することです。勇気とは、反省もせず、周りも省みず、無茶な努力を続けることです。

 

日本では専門家とジェネラリストという区別さえ意味がありません。上か下かだけです。下は思考停止を求められます。上になると、どんなに馬鹿げた無邪気な発想をしても許されます。そんな浅知恵から生まれた命令にも下は従わなくてはなりません。結果が出ないと責任は末端の人間がとります。

 

社会が思考停止を常とする人間を求めているのだから、専門家は居るはずが無いのです。こうして役立たずだけが残ります。社会が矛盾と混乱に満ちているのも不思議ではないのです。

ソロモンの指環 動物行動学入門