日本人はすぐに謝ります。表面的にです。しかし直ぐに同じ事を繰り返します。日本人は痛い目を見ないと学習できません。歴史や教訓から学ぶことができないのです。
この社会では誰もが直ぐに謝るのが普通です。お店では客がどんな理不尽な言いがかりをつけようとも、常に低姿勢でご機嫌をとらなければいけません。会社では、少しでも否定的な反応があれば、即座に「すみません」と言う必要があります。
家庭では、親の機嫌を損ねた子供が「ごめんなさい」と泣いて詫びを入れます。相手が何故怒っているのか訳が分からなくても、とりあえず頭を下げます。確かにそれだけで怒りが収まってしまう事も多いのです。この社会では理由が無くても謝る必要があります。
外国人の血が流れている、ある俳優は、学生時代に白ランを着て番を張っていました。集団抗争のさなかに、相手の番長が土下座をして謝ってきたので、これを許して背中を見せた途端にナイフで刺されてしまったそうです。それ以来、相手が謝ってきても「今度会ったら〇〇されるかもしれない」と思う程度に痛めつけるようにしたそうです。
日本人は獣と同じでムチ打ったり、電気ショックを与えたりしないと学習しないのです。痛みを与える事でようやく扁桃体に恐怖が刻み込まれるのです。思考力や想像力が足りず理性が発達していないので、他に方法がありません。
先の戦争でも国内の主要都市が焼け野原となり、自分も機銃掃射を受ける様になって、ようやく人々は「この戦争は失敗だった」と感じました。それでも一度やり始めた事を止めるのは難しかったのです。
ある外国製スポーツカーの持ち主が、休憩中に高速隊の人に呼び止められたそうです。派手なスタイルのそのクルマはどちらかというと成金が乗るクルマというイメージを持たれています。「こんなクルマ、悪いことをやっていないと乗れないよな」といった口調で乱暴にクルマを叩いたそうです。あいにく、そのオーナーは公安とも知り合いでした。その事実を知った途端に、隊員は土下座をして非礼を詫びたそうです。
日本人は信念や法に従って動いてはいません。日本人は相手が弱いか強いかで対応を決めているのです。
ある〇翼団体関係者が、車検中だったので代車の冴えない国産車に乗っていました。たまたま、乱暴なやり方で外国製スポーツセダンに追い越された事に腹を立てて、そのクルマの行方を塞ぎました。そのドライバーは医療ドラマ等でよく見かける俳優さんでしたが、土下座をして丁寧に謝られたそうです。
ことほど左様に日本人はよく謝るし、土下座もします。彼らは簡単に頭を下げますが、本当に「悪かった」と思っている訳ではありません。とりあえず謝れば、その場をやり過ごす事ができると思っているのです。
直ぐに謝罪するような人間は信用できません。モラルがある人は、信条や信念と照らし合わせて、自分が悪かったのかどうかを判断し、謝罪するかどうかを決めます。日本人のように道徳が欠如した人間は、単なる方便として表面的な謝罪を繰り返します。今度は見つからずに上手くやってやろうと考えます。不快な目に合わせた相手に復讐する機会も伺っています
日本人は、本当に謝らなければいけない場面では、傲慢にも相手を非難します。気にするのは上下関係だけです。
日本人は抽象的な思考が苦手です。道徳体系や法律に則って行動することが出来ません。彼らは原始的な感情に動かされています。国民単位でこういった感情に囚われると、歴史に残るような無法行為を彼らはやってのけます。
明治維新以降、あれほど日本人が富国強兵に邁進したのは「外人に恥をかかされた。いつか見返してやる」という恨みにも似た感情でした。
太平洋戦争が終わると今度は、「まったく酷い目にあわされた。もう戦争はこりごりだ。外人さんの言うことは聞こう。でも上の言うことは信じないぞ」となりました。
さらに占領軍によって与えられた平和憲法は、思わぬ効果をもたらしました。「平和が一番。我々は世界に冠たる平和な民族だ」と考えたのです。自由が与えられ、強兵を捨てて富国だけを求めました。それが結果として経済的復興につながりました。
自分たちがしてきた悪事は反省せず、経済活動も相手を顧みない自己中心的なものでした。しかしそういった節操の無さが、日本の強味でもあり、弱みでもあったのです。
日本の歴史を振り返ると平和だった期間は束の間に過ぎません。この狭い列島で人々は無法行為や争いに明け暮れ、貧困、飢饉、自然災害に絶え間なく見舞われたのです。戦後50年ちょっとの間は、日本史上でも稀な時期だったのです。人々がちょっとの間だけ、まともな方向に頑張れた時代でした。
現在日本は、本来の姿に戻りつつあります。ただし世界の他の国々と比べると、相対的に貧しくなっています。世界と歩調を合わせずに、独自の道を歩んで自滅して行くのが日本流です。
日本人は理屈では動きません。幼稚な感情で動きます。上下関係で動きます。それが社会を規定します。
幼いころから繰り返される虐待によって、暴君に従う術を彼らは身に着けていきます。表面的には従順です。謝れば済むと思っています。しかし無意識に残った激しい恨みは常にはけ口を求めています。
日本人は心の奥底で愛を求めています。母性的な無制限の愛をです。しかしそれが得られる事はありません。得る方法も分かりません。そんな愛をついぞ経験しなかったからです。それが日本人を幼稚な行動へと走らせます。憎しみと愛への渇望が、弱者や我が子へのイジメや虐待となって表れます。周りに自分たちより惨めな人間がいる事でようやく彼らは安心するのです。
彼らは愛を求めますが、手を伸ばす程に、それは遠のいて行くのです。助ける事はできません。彼らは狂人のようだからです。狂人による狂人にするための教育、その負の連鎖を断ち切ることで、ようやく日本はまともになるのです。