kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

畏怖か軽蔑しかできない日本人

日本人は互いに対等な関係になれない人々です。「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」という考えの持ち主です。彼らには「平等」「愛」という概念がありません。

 

「人間には上下がある」という考えは日本人の頭に深く染み込んでいます。よそ者は最初の間は「お客さん」として丁寧に扱ってもらえます。しかし時間が経つと、格下の人間として扱われます。ある日、彼らの態度が豹変するのです。「知らない人」である間は、畏怖や尊敬の対象ですが、「仲間」だと見做すや否や、その組織の末端に位置する者となるのです。例えば、それまで「~さん」と呼ばれていたのに、急に「~くん」に変わったりします。

友人と「対等な関係になった」と感じられる時期もありますが、それは一瞬で過ぎ去ります。日本人の対人関係はスイートスポットが狭いのです。年数を重ねるにつれて友情が深まっていくというのは極めて稀であり、大抵は喧嘩別れをしたり、どちらかが奴隷のように服従していたりします。

 

「女房に死なれる」という表現があります。「女房が死んだ」ではなくて、受身形になっています。この文には「女房に死なれて迷惑している」「困っている」という気持ちが込められています。

同じような「両親に死なれた」という表現を考えてみましょう。これを聞いて私達が思い浮かべるのは、「その後、心理的にも経済的にも辛い目にあった」幼い子供のストーリーです。きちんと独立して家族を持っている大人は「両親に死なれた」とは言わないのです。

こういった「迷惑の受け身」と、尊敬の「れる・られる」が共通の助動詞を用いているのは、偶然ではありません。日本人にとって尊敬と恐怖は同じものなのです。自然災害のようなもので、できれば関わり合いたく無い対象なのです。

「ソト」に対しては恐れて敬いながら、「ウチ」に対しては、尊大になり虐待をするのです。これが日本人です。

普段は臆病で、外に対しひれ伏して過ごしていますが、家庭に入ると手のひらを返したように威張り散らします。男性にとって家庭とはそういう場なのです。

 

日本語に縛られた日本人は、どうしても上下関係を意識せずには居られません。

会社によっては年次や職位に関わらず「~さん」と呼んでいる所があります。しかし「~課長」「~次長」と呼んだ方が何も考えずに済むので、はるかに楽です。

もし日本語から敬語を一切排除したとしても、日本人の意識は変わらないでしょう。日本の様々な法律やルールは、いったん上に立った者の権利を、いかに継続させ増大させるかという目的で作られています。それほどまでに日本は、既得権益者にとって都合の良い社会なのです。

看護師が「シフトがきつい」「給料に見合わない」と言うと「お前らは、これから日雇い派遣だ」と言われる始末です。〇系技官はとっても優しい人達です。すべてが予定調和で動き、夢や意外性や反乱を絶対に許さないのが日本流です。

優秀な人間は、官僚養成学校に入って役人になり、カネと地位を得て勲章をもらい、死ねば国葬を執り行ってもらう、これがジャパニーズ・ドリームというものです。

 

日本人は、あわよくば「相手より上に立ってやろう」と常に考えています。こういう人達と付き合うのが不愉快である事は、言うまでもありません。

幼い頃から人格異常者に囲まれて育ち、「お前も俺たちと同じようになれ」と強要されるのが日本の社会です。社会全体が歪んでいるのも当然です。此処に未来などあるのでしょうか?

 

個人の心のうちに入ってみると、彼らは「自責」から「他責」に簡単に移ろう人達でもあります。臆病だから自分を責めるのです。それを謙虚だと思っています。しかし虐める対象を見つけると、今度は「あいつらが悪い」となるのです。

子供の頃に虐待を受けて育ったのに、多くの日本人はそれに気付いていません。「世話になったのだから」「面倒を見てくれたのだから」「親を憎んではいけない」「自分は愛されて育ったのだ」と考えようとし、事実に目をつぶります。しかし無意識の怨念は消えず、どこかで爆発する機会を伺っています。それをも抑えようと試みると、心を病むのです。日本人は深刻な精神的問題を抱えています。継続的なカウンセリングが必要なレベルです。

 

SNSで良い事を言っている人がいます。フォロワーも沢山居ます。その人の言葉によって今しも大きな運動が起こりそうにも見えます。しかしその人が消えてしまうと、その動きも雲散霧消してしまいます。彼らは「タテ」に繋がっているだけで、「ヨコ」のネットワークが無いのです。

畏怖から軽蔑へ、自責から他責へと動くのが日本人です。そこには臆病だが「良い思いをしたい」「楽をしたい」という卑しい性根があります。人を気遣っているように見えて、その実、自分の事しか考えていません。日本人の目は決して横には動かずに、ただ上下にしか動きません。

落ち着いて周りを見渡し「自分がこの世界で何が出来るのか」を考えるのではなく、「いかに上の地位へ這い上がるか」を気にしています。こういった人達が世界に何も貢献できないのは当たり前です。

こうしてみると、江戸時代のように序列が決められた「安定した」社会こそが、日本人の理想とするパラダイスなのかもしれません。

日本語の文法を考える (岩波新書)