kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

休むことを許されない日本人(意味のない規則に縛られ続ける日本人)

日本人は休むことを許されません。搾取され続け、子供を奴隷として育て上げたあと、虚しく死んでいきます。しかし彼らは、死ぬ寸前までそれに気づきません。なぜ日本はこれほどまでに異常なのでしょうか。彼らを待ち受ける未来は、どのようなものでしょうか。

 

通販で安い買い物をすると、届いた荷物に手書きのサンクスカードが入っていることがあります。まるで千羽鶴や千人針が届いたかのような気味の悪さがあります。従業員が笑顔で写っている写真が入っていることもあります。

日本製品も少なくなってきていますが、「日本でひとつひとつ丁寧に検品をしています」と誇っているものがあります。輸入しているんだから、日本側で検品をするのは当たり前です。「日本人が頑張っています。だから買ってください」なんて通用しません。

 

意味の無いところで精神力を発揮して頑張るのが日本人です。その頑張りに対して、称賛で報いることを強制されるのです。「日本の売り」は、今も昔も精神力です。

 

暑さのなかで、休もうとベンチを探すと、座面に突起が付いています。「横になって寝るな」と言っているのです。最近はホームレスを見かけることが少なくなりました。河川敷で小屋を作って住んでいる人もいません。あの人達はいったいどこに行ったのでしょうか。うかうかしていると汚染地域での重労働が待っています。

 

この国の人々は、都合の悪いものを消し去ってしまうのが好きです。汚いものを始末して、表面だけを綺麗に見せかけています。自分自身を洗脳し「日本スゴイ」と言い続けています。リスクを全く考えようとしません。だからリスク管理も下手です。

帝国海軍における図上演習では、都合の悪いことが起きてしまうと無かったことにしました。想定していた結果が得られるまで、演習をやり直したのです。

昔の陸軍大学、海軍大学は難関でした。学業優秀なだけでなく、心身ともに健康であり、推薦も無いと入れなかったのです。晴れて士官となれば、皆が敬ってくれました。夜の街に繰り出せば、豪勢な食事、酒、オンナを心ゆくまで楽しむことができました。まさに当時の「ベスト・アンド・ブライテスト」が集まっていた所なのです。

どうやら、リスクを考えない、悪いことを考えないというのは、日本人のDNAに刻まれた呪わしいサガのようです。

 

日本人は周囲の目を気にする臆病な連中ですが、悪い結果を予想をして対策を打つことは許されません。口にすることさえはばかられます。ひたすら良い結果を信じて頑張り続けなければならないのです。休むのは大罪です。結果はどうでもいいから、頑張っている姿を見せるのが大切です。

 

日本は急激に貧しくなっていますが、日本人は対策を何も考えていません。けれども胸の奥にある不快感は、どこかで解消する必要があります。それがイジメやSNSでの陰湿な書き込みとなって現れます。

それほど露骨ではなくても、彼らは細かいルールを作って、他人に影響を及ぼそうとします。細かい「ゴミの分別を守れ」とうるさく言い続けます。違反する者がいないか、相互に監視しあっています。

違反したゴミを回収せずに残し、汚い暴言を書いています。それを正義だと勘違いしています。やっている事はSNSの書き込みと変わりません。

彼らはゴミの日がやって来るまで、腐臭を放つ生ゴミを家の中に溜め込みます。不衛生極まりません。一枚数十円もするゴミ袋を買い、遠いゴミ集積所まで歩いていきます。これが健康で文化的な生活なのでしょうか。そもそも、人力に頼って環境保全ができるものでしょうか。

 

子供は小学生になると重いランドセルを背負って、学校へ通います。中学生になると部活が始まります。土日も関係ありません。そして受験勉強です。けれども最も学ばなければいけない大学では、ろくに勉強をしていません。

子供は「不純異性交遊はするな」「髪を染めるな」「色気づくな」と言われますが、成人になった途端に「所得の低い男と結婚して子供を産め」と言われます。

 

矛盾したルールでも従うべしというのが日本の社会です。常にルールを守ることに没頭して忙しそうにしていないといけません。そうすれば教師も親も目を細めて喜びます。日本人の感覚は病的といえます。子供は、親や教師、経営者、役人、政治家など、さまざまな人々の欲望を満たしてあげなければいけないのです。

 

ルールや法律は、もともと自然に備わった理(ことわり)から生まれるものです。理性を備えた人間が納得できるものであるべきです。万人が合意した法が、実定法として形になるのです。

しかるに、法の意味を履き違えているのが日本人です。「皆で決めたルールだから」と言いますが、その実、誰かの都合の良いように作られたムラの掟に過ぎないのです。上位の理念や規則がないがしろにされる一方で、末端の規則は重要視されます。なぜなら、それこそが彼らが本当に望むものだからです。それらが、本質において矛盾しあっていても平気です。

明治に、日本が高度に中央集権化されたことにより、民から搾取し利益を食む利害関係者が増えました。本来なら民は、法に守られるはずでした。しかしそうはならなかったのです。

 

ムラ社会のお偉方で利益を分け合うという目的で、複雑なルールが作られています。あるいは単に、「上の者に従え」という威光を示すためのルールもあります。「俺に従わないと、何時でもムラから追い出せるんだぞ」というわけです。もっともらしい説明がついていますが、邪悪な意図は隠せません。

こうしたルールを素直に守れるかどうかが大切です。日本人は常にこうした「踏み絵」でもって、組織への忠誠心を試されているのです。それを止めた途端に、社会的な死が訪れます。

 

日本人は理想や理念が大嫌いです。「そんなことを言ったって現実は違うようなぁ」というのが日本人の態度です。ただし、似たようなものが効果を発揮する場合があります。威光です。「偉い人がこういっている」と言うのです。いわゆる錦の御旗です。憲法改正もそういった効果を狙っているのです。

 

上に述べたのとは逆に、日本人は具体的なものを好みます。現世での利益を望みます。天国だとか、徳を積んで死後に報われるという話ほど、日本人の考えから遠いものはありません。反対に、地獄の描写は昔から妙にリアリティがあります。そういった拷問や苦しみは、まさに日本では現実のものだからです。

 

日本人は蛮人です。その本質は変わっていません。表面上の仕組みは変わっても、日本は専制政治の社会です。しかも史上稀に見るほどの残虐さを持っています。アメとムチの両方で民を飼いならすのではなく、ムチしか用いません。

彼らは、他人を純粋に褒めるという事を滅多にしません。上の者への追従や、仲間外れにされないために褒めるだけです。

 

しかしいくらムチを振るっても、民は慣れていきます。日本では、感覚の鈍い人間だけが生き残ります。視野が狭く強情です。そういった連中を律するには、さらに残虐な方法をとるしかないのです。

アメとムチであれば、バランス良く、その間にある理想的な状態へと民を導くことができます。民も健康的なレジリエンスを持つようになります。これが本当の国民の力となるのです。大和魂とは異なるものです。

 

ムチばかり与えられる日本では、暴力がエスカレートしていきます。こうして日本の野蛮性が進んでいきます。表面は文明国家のように見えますが、至るところで、精神的に物質的に人々を追い詰めるシステムが出来上がっています。しかも限界がありません。人々は自分を縛ることで耐え続けます。時々、アルコールやイジメで憂さ晴らしをします。やがて、内に秘めた不満が大きな形で暴発します。それが外国に対する敵意や争いとなって現れてくるのです。

日常的に暴力を振るわれている日本人は、それを内在化してしまうのです。

 

このようなメカニズムが日本人の行動を定めています。日本の歴史は自閉と攻撃の繰り返しです。いずれも暴力であり、方向が変わっただけです。

日本人には心が休まる時間がありません。彼らは平和を知らないのです。結局のところ、暴力でしか社会的な関係を築けなかった人々なのです。

 

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