kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本語が苦手な日本人

日本人は日本語を苦手とします。そもそも彼らは言葉をうまく扱えないのです。外国人との意思疎通どころか、日本人の間でさえコミュニケーションが成立しません。 

 

単純な「AはB」という文を見てみましょう。これは必ずしも、AとBが論理的に等しいという意味ではありません。

例えば「春は曙」「俺はビール」といった文です。「春はなんと言ったって曙が一番良いと私は思う」「俺は何が飲みたいのかというと、それはビールである」という文章が省略されたものです。Aという話題を持ち出して、それに関連した事がらを加えていくのが日本語です。しかし「どういう関係か」という点が曖昧なのです。

 

考えられる人は、足りない言葉を適切に補えます。そういう人は英語でも日本語でも不自由はしません。しかし日本では、省略された状態で受け取ってしまう人も多くいるのです。曖昧なまま、何となく相手の感情を理解したつもりになっています。

 

喋る場合も、日本語では語順がどうでも良いので、よく頭の中で整理しないまま語りだしてしまいます。思いつくままに事がらを、適当な格助詞でつなげていくのです。

また日本語では、最後に助動詞を重ねる必要がありますが、それを幾つか省略してしまう人がいます。文末が短くなるので威勢は良いですが、意味は不明瞭になります。

 

長い文を「~でありますが」というように、「が」を入れて何処までも続けていく人もいます。動詞が来る頃には、それらがどういう関係だったのかが分からなくなります。

パラグラフ単位では意味が通っているように見えても、文章全体では何を意図しているのかが理解不能というものもあります。文字制限のあるSNSや、短い言葉で応酬する匿名掲示板に慣れ過ぎたのかもしれません。

 

ある社会学者の本にこんな話が載っていました。講演をしていると皆が眠そうにしていました。ところが「海外の有名な誰それによりますと~」と言い出すと、一斉に目覚めて、メモを取り始めるのだそうです。

話を聞く方も、講演者がどういう視点を持ち、全体としてどのように考えているのかは、どうでも良いのです。些末な知識やノウハウだけが関心時です。日本人に受けるためには、冗長で退屈な話のなかに豆知識のようなものを少し混ぜておく必要があります。そうすると彼らは喜びます。

 

日本では、上の立場に居る人は、長く喋らなければなりません。短いと威厳を保てません。けれども内容があってはならないのです。他人と異なる見解があったり、他から異論が出るようなスピーチは最悪です。念仏のように「何を言っているのか分からないが、有りがたい」という文章が無難です。

 

本を読んでも、三分の二くらいが「言い訳」めいた事で占められている事があります。

情報は多ければ多いほどノイズに近くなります。しかし日本では、出来るだけ言葉の量を多くして、相手を煙に巻く必要があるのです。誰も刺激しないように、そして誰にも突っ込まれないように、そうするのです。

 

日本人は訳のわからぬ事を言う一方で、他人の言葉を誤解する名人です。例えば報道でも「〇国と△国が激しい非難の応酬を繰り返しました」と、まるで公式の会議で何やら喧嘩でもしていたかのように書き立てます。冷静に交渉をしているだけなのにです。

及び腰で相手の意見に何でも賛同し、カネを献上するのが日本の外交です。そうかと思えば、威勢よく非難だけ浴びせかけて、背を向けてそそくさと退散する事もあります。へりくだるか、空威張りかのどちらかしか出来ません。

彼らには感情的な先入観があり、それに沿って相手の意図を曲解します。また先入観に沿って言葉を語ります。これでは外交どころか、コミュニケーションも成立しないのが当たり前です。

 

言葉は重要です。言葉とは理性(ロゴス)です。「初めに言葉ありき」というのは、それを象徴的に表しています。ヒトは言葉を発するようになり、やがて文字を発明しました。言葉を石板に刻みこむ事で律法が生まれました。人々は進んで法に従うことで、協力し合い、秩序が保たれるようになったのです。

法は時間や空間を超えます。こうして大きな国家を築くことが可能になるのです。文字は、ヒトに大きな力を与えました。ヒトが思い描く究極の理想を外に投影したのが「神」なのです。

 

自ら文字を作り得なかった日本人には、理性や法、そして神といった概念は極めて異質で馴染めないものなのです。

理想を描き、抽象的な思考が出来たギリシャ人、巨大な組織運営に優れたローマ人、物事の本質を見抜き、それを形にする事ができたケルト人、そういった先人達の力があったからこそ、今の文明があります。

翻って日本人は、社会秩序を保ち人々を協力させるために恫喝や暴力を用います。国を運営するために独裁政権のような組織を必要とします。「神」を与える代わりに「神国」を連呼します。しかし食糧は与えません。人々は精神力だけで動く事を期待されています。

 

言葉を軽視する日本人は、世界で一番契約を守らない人々でもあります。その為に世界中でトラブルを巻き起こしています。企業間の契約書に「瑕疵担保責任は無い」とあっても、無制限に責任を求めてきます。契約書があっても、結局は馴れ合いや力関係で物事が決まると思っています。法も契約もあったものではありません。外国人にとって見れば、日本人との交渉が嫌になるのは当たり前です。

 

日本語をきちんと教育すれば、日本人はマシになるのでしょうか。教育の現場を見ると、現代国語は道徳の授業と化しています。国語の試験問題は、出題者の意図を察すれば解けるというものになっています。論理学は数学の分野で少し扱われる程度です。修辞学はありません。授業では、表現が豊かな詩を味わうのではなく、究極まで省略された俳句が良いとされています。

  

独裁国家や軍隊では言葉が単純になります。言葉は単なる号令です。発破をかける掛け声に過ぎません。サーカスで動物を鞭打つのと同じことです。上官の命令に対して言葉を返す兵士が不要であるように、発言する日本人は不要です。

 

黙々と奴隷のように仕える多くの日本人と、世襲により地位を約束された人々がいます。二流、三流の下で、一流が使われる社会です。日本が二流国家から抜け出せない理由です。

日本は既に Point of no return を過ぎてしまったのかもしれません。しかし、自分の運命は自分で変える事ができるのです。

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蛮族と化す日本人

日本は文明を捨て去り、野蛮人の国へと向かっています。これは世界でも初めての事ではないでしょうか。ある意味、日本は先陣を切っているのです。

 

近代以降、世界の距離は縮まりました。一度文明化すると、そこから逆戻りするというのは考えらない事でした。戦争で国が荒廃しても、それは限られた間だけの話であり、戦争が終われば復興するのが普通だったのです。

 

ところがそれに逆行しているのが日本なのです。バブル崩壊から、日本は衰退するばかりです。人心は荒廃し、企業業績も悪化しています。政治は機能していません。庶民から見れば無政府状態です。治安も悪くなっています。東京には警視庁がありますが、それ以外の場所では地方警察しかありません。

地震とそれに伴う汚染事故が日本にとどめを刺したのです。人々はもはや「復興などできないのだ」と悟りました。その後に続く大きな自然災害やコ〇ナ禍に対しても、日本は手も足も出ないという事が分かりました。戦後より悪い状況です。為政者はどうしたら良いのかがさっぱり分からないのです。

 

日本人のような自浄能力の無い人々には大切なことは任せられません。1億人もの人々を擁する国を統べるなど、彼らには荷が重すぎるのです。日本人というのは誰かに指導をしてもらうか、手本を見なければ、何も出来ない人達なのです。

日本の大きな問題は形だけで中身が無いところです。見様見真似で、表面だけを同じにすれば、それで「同じレベルまで追いついた」と勘違いしてしまうのです。何も考えていないので、習得が速いように見えますが、理解していないので応用が利きません。

具体から抽象し、演繹を行い、そこからまた具体化するという手順を踏まずに、具体から具体へと脊髄反射で反応するだけの人達だったのです。

 

東京だけは、しばらくの間は体裁を保つでしょう。しかし地方は急速に衰退していきます。冗談ではなく、移動手段としての自転車や輪タク、人力車が復活するでしょう。

ガソリン車から電気自動車という変化に対応できないだけではありません。値段が高すぎて、クルマを購入したり維持費を払ったりすることが出来なくなるのです。

田舎では職場に通うのに、自転車で片道1時間や2時間をかけるのが普通になるでしょう。日本人には、文明が崩壊したあと、自分たちで自動車を修理したり、ラジオや無線機を直したりという事ができません。彼らには工学的センスがないのです。

それどころか、「そんな面倒な事をするぐらいなら、人力でいいや」というのが日本人の考え方です。クルマが必要というならば、旧東ドイツトラバントのようなシンプルなものが必要です。木炭自動車もいいでしょう。

 

食料不足は目の前です。今のままでは自給自足など不可能です。食料を輸入するにも、高すぎて庶民には手に入らないものが増えていきます。

これからどうなるのでしょうか? 「てめえの食いぶちは自分で何とかしろ」となるのです。「小作人」が復活します。土地を借りて、汗水を流して穀物や野菜を育てるのです。物々交換で何とか生きていくしかありません。

飢饉や餓死が当たり前のことになるでしょう。もし国連機関や外国の人々が見かねて援助の手を差し伸べようとしても、それらの物資は政府を経由するうちに何処かに消えてしまいます。地方は切り捨てるしかないのです。

 

日本は中世のような素朴な世界へと変わります。形だけを真似て先進国になっただけなので、崩壊の速度も速いのです。人々は生まれた階層から、一歩も這い上がることができません。東京に移動してもスラム街で暮らすだけです。

 

老人は今の若者を見限っています。若者には覇気がなく、仕事もできず、消費意欲もないと見ています。それと比べて「幸い俺たちは年金を貰えるし、ちょっとした仕事で小銭も稼げる。遊んで暮らそう。貯金は全部使い切ってしまおうぜ」と考えているのです。「子供や若者はどうなる?」と訊かれれば、「知ったことか」と答えるだけです。

 

日本は惨憺たる状況になります。文明国家から未開の国へ。社会学者にとっては興味深い対象です。その時には日本が再び注目を浴びることになるのです。別の意味の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として。

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さよなら人類

完璧を求める日本人

日本人は完璧さを求めます。無駄な所にです。立てられた計画は杜撰です。しかし下々の者は完璧でなければなりません。

 

戦時中に作られたプロパガンダ映像が残っています。戦闘機や観測機を少年少女が作っています。ラッパの合図に従って動く流れ作業ですが、たった一人でも遅れると、全ての工程が止まってしまいます。映画では「これが日本的タクトシステムだ」と誇る一方で「一人でも怠け者がいると、全体に影響する」と、これを観るであろう観客を叱咤しています。

末端のミスひとつで計画が頓挫するなんて、何と脆弱で余裕の無い計画でしょうか。個々人の精神力に頼り、失敗すれば末端に全ての責任を押し付けるシステムです。

 

日本の教育もこのような考えに基づいています。教育を受ける者全員を、ネジや部品を正確に作るように躾けていきます。先の国策映像では、不足している戦闘機乗りを養成するシーンがあります。木造の粗末なトレーニング機器に少年を座らせ、後ろに居る教員の声に従って、右に舵をきったり、左に舵をきったりしています。あるいは、紙芝居のようなパネルに一瞬映し出された絵から、敵機が何機いたかを、速く正確に答えるように要請されています。

「考える」訓練ではなく、言われた通りに動く訓練です。戦場や社会に出たら、そこで初めて自分で「考える」ことを学ぶのです。そうでなければ、早晩くたばるのです。

 

徴兵により若い男性が居なくなったので、女性たちが汽車を運行し、線路工事も行い、シンクロも付いていない貨物輸送車を運転しています。「日本女性の力だ」と映画のナレーターは叫んでいますが、映像に映る彼女らはみすぼらしい姿で、掛け声に合わせ、一斉にヤスリ掛けをしたり、ハンマーを打ち下ろしたりしています。一心不乱に言われた動きをしているだけです。

郵便も女性の仕事で、異様な速さで郵便物を仕分けしたり、何かに取りつかれたような動きで切手にスタンプを押しています。まさか、あのペースで1日中作業を続けていたのでしょうか。とんだ「女性が活躍する時代」があったものです。

 

憑かれたように働く労働者を見ると、心を無にして速く正確に仕事をするというのが、日本人の血に刻み込まれた性(さが)のように見えてきます。日本人を見て「気持ちが悪い」と感じる理由のひとつです。

強迫性障害のような完璧主義は、現代の日本人にも多く見られます。彼らは80%のものを100%に近づけるために、無駄な努力を繰り返します。"perfect is the enemy of the good" とは良くいったものです。

 

映画の中で、ガリガリに痩せ細った半裸の少年や、汚いモンペをはいた女性が整列し点呼を受け、そのあと、劣悪な環境で重労働に従事している姿は、奴隷以外の何物でもありません。

彼らはご飯に梅干しのような粗末な食事で頑張っていたのです。ムチ打てば、文句も言わずに死ぬまで働いてくれたのです。同じようなスーツに身を包み、就職戦線へと向かう今の学生たちの姿もこれに重なって見えます。

 

労働をするには幼すぎる子供達は、空襲に備えての避難訓練です。動画では「大人の足手まといにならぬように」と言われています。「てめえの体は自分で守れ」という訳です。しかもその理由がふるっています。「将来、お国の為に役立てる大切な体だから」というのです。自分の体は自分のものでは無いのです。

さらに驚くべき事には子供の価値がゼロに等しいのです。カネを生まず、組織の末端成員なので当然です。どれだけの人間が頭を下げるかによって人間の価値が決まります。老人に近づくにつれてその価値は増えていきます。

この国にとって人間はモノと同じです。機械のように動かねばなりません。100%完璧に動作しない人間はクズです。ゴミです。全てか無かの社会です。

 

それでは「上はまともか」というと、そうではありません。南国の先住民みたいな人間が国を統べています。良くて村長(むらおさ)レベルです。

彼らの意思決定が遅いのには呆れます。下手に付き合うと1年や2年くらい、御用聞きだか要件定義だか分からないような事をする羽目になります。

Aという勢力とBという勢力がせめぎ合っていて、なかなか方針が決まりません。いつのまにかCという新しい勢力も生まれています。会議で一歩前進したと思ったら、次の会議では2歩や3歩後退したりします。これも彼らの完璧さを追求する性(さが)によるものでしょうか。

 

こうした完璧さを求める方向がたまたま時勢に合っていると、大成功を収める事ができます。例えば富国強兵や、日本海海戦真珠湾攻撃戦後の高度経済成長とかです。

「バスに乗り遅れるな」とばかりに、周りに合わせて頑張った結果です。しかしその方法に固執するが為に、結局最後は、成功を上回る大失敗で終わります。彼らの立てた計画は、何回会議を重ねても、所詮猿真似の域を出ないのです。

 

富国強兵がどういう結果で終わったか、戦後の高度経済成長がどのようになったのかを見てください。日露戦争からバブル崩壊までが、日本が世界に栄華を誇った時代でした。壮大な喜劇的実験は終わりました。一国の栄華は100年ほどしか続かないものです。日本人は歴史から学ばねばなりません。

https://www.youtube.com/watch?v=K9m_gRiWxMI

https://www.youtube.com/watch?v=K4C9RSUwjC8

https://www.youtube.com/watch?v=eQb-y4ZIWjU

畏怖か軽蔑しかできない日本人

日本人は互いに対等な関係になれない人々です。「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」という考えの持ち主です。彼らには「平等」「愛」という概念がありません。

 

「人間には上下がある」という考えは日本人の頭に深く染み込んでいます。よそ者は最初の間は「お客さん」として丁寧に扱ってもらえます。しかし時間が経つと、格下の人間として扱われます。ある日、彼らの態度が豹変するのです。「知らない人」である間は、畏怖や尊敬の対象ですが、「仲間」だと見做すや否や、その組織の末端に位置する者となるのです。例えば、それまで「~さん」と呼ばれていたのに、急に「~くん」に変わったりします。

友人と「対等な関係になった」と感じられる時期もありますが、それは一瞬で過ぎ去ります。日本人の対人関係はスイートスポットが狭いのです。年数を重ねるにつれて友情が深まっていくというのは極めて稀であり、大抵は喧嘩別れをしたり、どちらかが奴隷のように服従していたりします。

 

「女房に死なれる」という表現があります。「女房が死んだ」ではなくて、受身形になっています。この文には「女房に死なれて迷惑している」「困っている」という気持ちが込められています。

同じような「両親に死なれた」という表現を考えてみましょう。これを聞いて私達が思い浮かべるのは、「その後、心理的にも経済的にも辛い目にあった」幼い子供のストーリーです。きちんと独立して家族を持っている大人は「両親に死なれた」とは言わないのです。

こういった「迷惑の受け身」と、尊敬の「れる・られる」が共通の助動詞を用いているのは、偶然ではありません。日本人にとって尊敬と恐怖は同じものなのです。自然災害のようなもので、できれば関わり合いたく無い対象なのです。

「ソト」に対しては恐れて敬いながら、「ウチ」に対しては、尊大になり虐待をするのです。これが日本人です。

普段は臆病で、外に対しひれ伏して過ごしていますが、家庭に入ると手のひらを返したように威張り散らします。男性にとって家庭とはそういう場なのです。

 

日本語に縛られた日本人は、どうしても上下関係を意識せずには居られません。

会社によっては年次や職位に関わらず「~さん」と呼んでいる所があります。しかし「~課長」「~次長」と呼んだ方が何も考えずに済むので、はるかに楽です。

もし日本語から敬語を一切排除したとしても、日本人の意識は変わらないでしょう。日本の様々な法律やルールは、いったん上に立った者の権利を、いかに継続させ増大させるかという目的で作られています。それほどまでに日本は、既得権益者にとって都合の良い社会なのです。

看護師が「シフトがきつい」「給料に見合わない」と言うと「お前らは、これから日雇い派遣だ」と言われる始末です。〇系技官はとっても優しい人達です。すべてが予定調和で動き、夢や意外性や反乱を絶対に許さないのが日本流です。

優秀な人間は、官僚養成学校に入って役人になり、カネと地位を得て勲章をもらい、死ねば国葬を執り行ってもらう、これがジャパニーズ・ドリームというものです。

 

日本人は、あわよくば「相手より上に立ってやろう」と常に考えています。こういう人達と付き合うのが不愉快である事は、言うまでもありません。

幼い頃から人格異常者に囲まれて育ち、「お前も俺たちと同じようになれ」と強要されるのが日本の社会です。社会全体が歪んでいるのも当然です。此処に未来などあるのでしょうか?

 

個人の心のうちに入ってみると、彼らは「自責」から「他責」に簡単に移ろう人達でもあります。臆病だから自分を責めるのです。それを謙虚だと思っています。しかし虐める対象を見つけると、今度は「あいつらが悪い」となるのです。

子供の頃に虐待を受けて育ったのに、多くの日本人はそれに気付いていません。「世話になったのだから」「面倒を見てくれたのだから」「親を憎んではいけない」「自分は愛されて育ったのだ」と考えようとし、事実に目をつぶります。しかし無意識の怨念は消えず、どこかで爆発する機会を伺っています。それをも抑えようと試みると、心を病むのです。日本人は深刻な精神的問題を抱えています。継続的なカウンセリングが必要なレベルです。

 

SNSで良い事を言っている人がいます。フォロワーも沢山居ます。その人の言葉によって今しも大きな運動が起こりそうにも見えます。しかしその人が消えてしまうと、その動きも雲散霧消してしまいます。彼らは「タテ」に繋がっているだけで、「ヨコ」のネットワークが無いのです。

畏怖から軽蔑へ、自責から他責へと動くのが日本人です。そこには臆病だが「良い思いをしたい」「楽をしたい」という卑しい性根があります。人を気遣っているように見えて、その実、自分の事しか考えていません。日本人の目は決して横には動かずに、ただ上下にしか動きません。

落ち着いて周りを見渡し「自分がこの世界で何が出来るのか」を考えるのではなく、「いかに上の地位へ這い上がるか」を気にしています。こういった人達が世界に何も貢献できないのは当たり前です。

こうしてみると、江戸時代のように序列が決められた「安定した」社会こそが、日本人の理想とするパラダイスなのかもしれません。

日本語の文法を考える (岩波新書)

恫喝を好む日本人

日本人は恫喝が大好きです。相手が委縮するのを見て喜びます。相手が上であれば、どんな卑屈な事でも厭いませんが、相手が下と見るや否や、高飛車な態度で怒鳴りつけるのです。

 

散歩の途中で、家族連れが道路脇の公園で遊んでいるのを見かけました。ところが彼らとの距離が近づくと、急に母親が大声で子供を叱りだすのです。不快に感じても、まさか自分がその女性に注意をする訳にも行きません。こういった場面は良く目にします。子供ではなく、犬を連れてている飼い主も似たような反応を示す事があります。日本人は常に第三者を意識しながら生きています。不気味な人達です。

 

内輪での楽しみの場に「ソト」の人間が近づくと、彼らは急に不安を覚えます。「私がこの場では一番偉いんだぞ」というのを内外に示さなければなりません。「ウチ」に在っては、子供に「人に迷惑をかけてはいけません」という表面的なメッセージを送ると同時に、「この場では私が上である」と「ウチ」と「ソト」に宣言しているのです。

何も分からない子供はいい迷惑です。初めて接するダブルスタンダードを強いる日本人が、自分の母親なのです。困惑と混乱、そして不安が彼らの無意識に刻み込まれて行きます。長じてもそれは人格に影響を及ぼし、歪んだ性格の持ち主となっていくのです。

 

日本人は模範を垂れることと恫喝は同じだと考えています。そのために信じられないような人権侵害がそこかしこで行われているのです。

父親が子供を恫喝し、母親はそれを黙って見ています。それだけでなく、父親が居ない時には、子供に八つ当たりを繰り返します。彼らには恫喝や虐めと、教育の見分けがつきません。

「多少やりすぎたかな」と思っても、「いや、自分は世間は厳しいんだとコイツに教えているんだ」と心の中で開き直ります。

 

こういう「虐待」を受けて育った子供は、共感力や思考力に欠ける人間になっていきます。前頭葉を発達させるには安定した静かな環境が必要ですが、こういった子供はその機会を奪われています。

彼らは不安を常にかかえています。正常性バイアスが激しいのも、最悪な事態を想定できないのも、冷笑を常とするのも、やたらと「平常心」を強調するのも、こういった精神の不安定さから来ています。不安を抱えているので想像力が限られ、冒険をしたり、新しい事を試みる事ができません。

子供の頃に「自分はダメな人間だ」と思ってしまうと、本当に駄目な人間になってしまうのです。こうして委縮しながら育ったのが、今の日本人です。

 

弱者に対しては誰もが虐める権利を持つと考えるのが日本人です。見つけ次第、皆で徹底的に叩くのです。「世間は甘くねえんだ、それを叩き込んでやる」という訳です。

彼らはあまりにも、その傾向に囚われているが為に、自分の権利さえ手放してしまう愚かな人達でもあります。憲法にある「健康で文化的な最低限の生活」というのはただの宣言に過ぎません。その権利は「生活保護法」によって初めて規定されるのです。しかし日本人は生活保護を嫌い、それを利用する他人を攻撃するのです。

 

日本の教育と受験制度は、個々人の暗記力やキャパシティの余裕を測るには良い手段でしょう。しかし大多数の人にとっては、「負けた」「俺には資格がなかった」という挫折感を与える代物です。少数の選ばれた人と多くの「負け犬」を生み出す制度です。こうして、上に対しては諦めと恭順が常となっていきます。

 

日本社会では、「恫喝と恭順」をそこかしこに見ることができます。外交の場でさえ、恫喝染みた事をやってしまうのが日本人です。しかし「相手の方が上だ」と見做すや否や、卑屈な態度で恭順します。学問の場でも、職場でも「政治」が主な関心事となっています。日本人が政局を語るのを好む理由です。業績は上がらず、肝心なスキルは身にきません。その代わりに調整事や政治手腕には長けるようになります。これが日本人の言うところの「コミュニケーション能力」なのです。

 

「政治」は力学です。(1)この場では誰が偉いのかを見極めるセンス、(2)誰が主役で、実際に操っているのは誰なのかを見抜く洞察力、(3)誰にどういったコネや後ろ盾があるのかを絶えず調べる能力、さらに、(4)こういった場において、自分がどういう位置にあり、自分がどこまで動いて良いのかその上限を見極める判断力、これらが、日本人にとっては必須のスキルなのです。

 

「強ければ偉くなれる」そして「偉ければ好きにその力を行使してよい」というのが日本人の価値観です。恫喝も暴力も虐めも何でも有りです。

逆に下の人間は、何をされても文句を言えず、黙って耐えねばなりません。上から下まで徹頭徹尾、この考えで統一されているのが日本人なのです。

インサイダーズ/内部者たち(字幕版)

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