日本が衰退した原因はなんでしょう。あまりにも強い国家権力は人々を窒息させてしまいます。経済も衰退します。ついにはその力を軍事に振り向けるようになります。そして赤色巨星のような最後を迎えるのです。
国がその存在意義を人々に示し、従わせるにはどうしたらよいでしょうか。それには犯罪者を取り締まれる力があると人々に認めさせることです。単なる共同体と、国の違いはここにあります。暴力と国とは切っても切れない関係です。
しかし非道な圧政と暴力によって人々を虐げると、早晩、その政府は倒されることになります。ですから暴力を振るうにしても、大義や道理が必要なのです。「正義」とはまことに甘美な響きを持つ言葉です。この名のもとに発揮される暴力は人々の支持を得ます。その延長として信じられない破壊行為までやってのけることができます。
権力の拠り所である暴力は正当化されなければいけません。そのために法を整備します。法律を作るのにあたって大切なのは、あらゆる者を犯罪者にできる可能性を潜ませることです。「一歩間違えると自分も犯罪者になる」という恐怖を国民の心に植え込むのです。
交通違反取締りにおいて交付される青切符と赤切符というものがあります。昔は青切符というのは存在しませんでした。すべて起訴の対象だったのです。原付バイクでちょっとしたスピード違反をしてしまっても略式裁判です。それに怒った人たちが正式裁判を起こすようになりました。司法にとって大きな負担となります。そのために青切符が生まれたのです。「本当は犯罪なんだが、俺たちにカネを出せば無かったことにしてやる」という制度です。
「誰もが犯罪者になり得る」という考えが常識になると、人々は萎縮しリスクをとらなくなります。他人の成功も喜べなくなります。減点主義の世界では、できるだけ失敗しないように自分を制するのが正しいやり方です。凡庸こそが目指すべき到達点です。成功した人間というのは、そのやり方に従わなかった好ましからざる存在です。
日本ではゼロというのが普通なのです。少しでもルールを破ってしまった者、失敗した者はマイナスの存在です。社会人になっても一握りの人間だけがトップに行くことができ、それ以外は敗残者です。「俺はプラスの存在だ」と誇示する人間がいたとしたら「不正をしているに違いない」と人々は思うのです。一般人から検事に至るまでです。
今でこそ法務省トップの検事総長は大きな権力を持っていますが、昔はそうではありませんでした。帝国大学出身者で司法省に入省する者は少なく、私大出身者が多かったのです。中央大学の出身者が多いのは、そういった歴史的背景があります。
戦前の日本は三権分立ではありませんでした。判事は司法省に属しており、検事よりも格下の扱いでした。その検事も、警視庁には頭が上がらなかったのです。警視庁は内務省に属していました。内務省のエリートは地方自治体の知事を歴任した後、警視総監や警保局長(今の警察庁長官)、内務次官となり、退任後は貴族議員になることもできました。
日本人はどうしても序列に弱い傾向があります。権威や権力を無条件に崇め奉ってしまいます。富を生み出す人々を尊敬するのではなく、暴力を用いて「ゆすり」「たかり」をする人たちをあがめるのです。百姓、職人、商人は彼らに搾取される存在です。
とはいえ、強大な力を持つ行政機関も、力の前には屈します。例えば、1933年に起きたゴーストップ事件において、警察は陸軍に一歩引くような形で和解しました。これを切っ掛けにして、軍は行政機関が制御できない存在となりました。力の均衡が崩れ、新たな序列が生まれたのです。
この国では、一線を超えない、上の者に対して牙をむかないというのが大事です。会社でも、社員が管理職に歯向かった事実があれば、必ず記録に残ります。左遷の有力候補となるのです。もし人事部を、総務の雑用係のようにみなして無礼な問い合わせをして来たとしたら、閻魔帳に記され出世とは無縁となります。そのような力を持っていても、人事部は相手を萎縮させるような物言いはしません。社員を採用し育てるという役割もあるからです。
けれども国はそうではありません。人々が恐れを抱けば抱くほど都合がいいのです。繁栄していた国が傾くのは、政府が力を持ちすぎてしまった時です。人々は支配者を賛美しますが、無意識では恐れています。政府の弱体化はその後に続いて起こるのです。
力を持ちすぎた政府が支配する国では、何かを生み出して貢献した者や、幸せそうにしている人が罰せられます。重税が課せられ、中抜き業者が跋扈します。贈賄や談合などの不正も多くなります。コネや賄賂に依らずして成功した者や、専業主婦、子供は人々から憎まれます。
国の末期においては、富を生み出し、みんなが豊かになることを喜ぶのではなく、富を生み出した者からカネをむしり取り、幸福を憎む社会となるのです。清貧や我慢が尊ばれます。そのいっぽうで支配者に近い一部の者だけが報われます。
力を得た支配層は、国内においてだけ権力を振るうことに飽き足らず、それを外国にも振り向けたくなります。こういった無意識の深層に、戦争の本当の要因が隠れているのです。歴史において原因とされるものは、往々にして切っ掛けに過ぎません。
国民が貧しくて不幸なのに軍事費を増強するのは、危険な兆候です。国が滅びるサインです。無能なものが威張りだしたり、弱者切り捨ての極論が横行したりします。
1972年の田中角栄による街頭演説の動画があります。「日本はもっと豊かになれる」「日本に自由と独立を」「社会保障制度の整備」「社会資本の蓄積を(もっと道路を)」「緑と、綺麗な水と空気を」と呼びかけています。同じ金権政治でも、今の政治家とは言っていることが随分と違います。彼の作り上げたものが日本の宿痾(しゅくあ)となってしまったとはいえ、人々は希望を感じて支持したのです。これをリアルタイムで経験した人たちは今でも党に希望を抱いています。カルトに乗っ取られていた事が明らかになっても忠誠を誓っています。
語られている内容はすべて当たり前のことですが、いま、こういう事を言う人はいません。逆に「弱者は○ね」と言う人がもてはやされます。強い者の提灯持ちが重宝されます。異常な時代です。こうした時代の潮流に、個人はいとも簡単に飲み込まれてしまうのです。
アイザック・アシモフのSF小説で「銀河帝国の興亡(ファウンデーション)」というものがあります。繁栄を誇った巨大帝国が衰亡に向かっていることに気づいた「心理歴史」学者が、崩壊後の復興を担うファウンデーションという壮大な仕掛けを密かに作ったのです。帝国の知識と技術を継承する少人数のエリート集団を、国の辺境に隠し置きました。衰退はもはや止められないが、国が崩壊したあとに訪れる暗黒時代をできるだけ短くし、将来の国の復興を早めるという壮大な目論見と、その顛末を描いています。
もし仮に日本の崩壊を止められなくても、その後の復興を考えた施策を講じることはできるのです。今のままでは、せっかく人材を育てて投入しても、倒壊しつつある体制を支えるマッチ棒のような存在にしかなりません。それならば、もっと先を見据えた人材を少数であっても育てるべきなのです。それをやるなら今しかないでしょう。
銀河帝国の興亡2【新訳版】: 怒濤編 (創元SF文庫 ア 1-2)