クルマは高価です。贅を尽くしたクルマもありますが、生活必需品としてのクルマもあります。ところが、昔と比べて日本のクルマは全体的に高くなっています。これはどういうことなのでしょうか。それ程の価値があるのでしょうか。
まず、日本の車がどれほど高くなっているのかを見てましょう。日本車がもっとも輝いていたバブルの時代に、最も高かったクルマはホンダのNSXでした。850万円です。スカイラインGT-Rは445万円でした。現在に目を移すと、2022年に生産を終了したNSXは2,040万円で、日産GT-Rが1,080万円からとなります。
ちなみに、ロールスロイスよりも静かだと言われたセルシオは、本体価格が445万円から620万円でした。日本車に足りないのは歴史とブランドだけのように見えた時代だったのです。
外車を見てみましょう。同じ時期に、BMW3シリーズが445万円からで、ポルシェのカレラ4が1,150万円でした。ポルシェの911ターボは1,850万円でした。
現在はどうかというと、BMWが540万円からになります。カレラ4の価格がオプション無しで1,600万円、ターボは2,600万円辺りからです。
こうしてみると、日本車が相対的に高くなっているのが分かります。外車が1.2倍から1.4倍なのに比べて、日本車は2.4倍くらいになっています。
もっと安いものを見ていくと、馬力を抑えたスポーティーカーだったマツダのロードスターは、170万円でした。今は325万円からです。軽自動車では、スズキのアルトが49万円でした。今は94万円からとなっています。1.9倍くらいとなります。
現代の日本車のほうがよりコストがかかっているのでしょうか。いえいえ、むしろコストダウンしているのです。手作業で組み立てていた工程は減り、工場の自動化が進んでいます。電子制御は複雑になっていますが、その割には安価に調達できます。いっぽうでガソリン車の構造は、昔とほとんど変わっていません。シートなどの内装部分を見ると、昔のほうが良い素材を使っていたことさえあります。
以前の日本車の方が、性能に比して割安だったという側面もありますが、それ以上に割高になっているイメージは否めません。しかも日本車は、外面をそれっぽく仕上げてありますが、基本的な部分で手を抜いているのです。例えばブレーキシステムです。
良く効くブレーキがいいブレーキなのではありません。そうではなくて、コントロール性が高いものが良いブレーキなのです。単に車輪の回転を止めるだけなら、ドラムブレーキのほうが強力です。クサビを打ち込んだように止まります。けれども行き場を失った運動エネルギーにより、クルマはスピンしてしまい制御不能となります。
現在一般的に使われているディスクブレーキは、運動エネルギーを熱エネルギーに変換する装置です。短時間でクルマの動きを熱に変えて放出してくれます。ただ、安いディスクブレーキになると、熱エネルギーを上手く放出することができなくなり、直ぐにフェードして効かなくなってしまいます。作りが悪いと、簡単に車輪がロックしてスピンしてしまうこともあります。
こういった安物とは異なり、良いブレーキは、高速域で強く踏み込んでも、坂道でブレーキをかけ続けても、安定した制動力を保てます。しかも、カーブの入り口でちょっと荷重移動をしたいという微妙なブレーキングさえ可能です。それを実現するために、まともなメーカーはローターに放熱用の穴を空けたり、ピストンを倍増したり、電子制御部分を改良したりと、いろいろな工夫をしているのです。
外車、特にドイツ車のブレーキペダルは日本車のそれと比べて重めでした。日本車の感覚で足を停止中に乗せていると、坂道でずるずると下がってしまいます。その代わりに踏み込むほどに強力な制動力を発揮します。高速域で急制動が必要な時は蹴るようにしてブレーキペダルを踏みます。それほどコントロールできる範囲が広いのです。
ところが日本車にはブレーキアシストシステムなるものが組み込まれている場合があります。素人の場合、パニックになってブレーキを踏もうとしても十分な力で踏めないので、それを自動的に補ってやろうというのです。余計なお世話です。
そうでなくても、ちょっと踏んだだけでブレーキが効きすぎてしまう「カックンブレーキ」が日本には多いのです。こういったものに慣れると、手加減してブレーキを踏むようなクセがついてしまうのです。
その反対に、アクセルペダルはやけに軽く作られています。メーカーは、老人や子供向けの車でも作っているのでしょうか? こういう車を乗り続けた人達が、老齢になって電気モーターが備えられた車に乗り換えると、暴走事故を起こしてしまう訳です。
アクセルにしても、ブレーキにしても、自分でコントロールしているという感覚が必要です。ステアリングもそうで、自分が操作した分だけクルマが反応しているという感じが欲しいのです。クルマから正確なフィードバックを返すという部分が、日本車では極めて薄いのです。
こういった基本性能を極める為には地道な研究開発が必要ですが、日本のメーカーはここにカネをかけていません。手を抜いています。ブレーキにカネをかけていないクルマなんて、街中を走ることさえ躊躇われます。ちゃんとした「スポーツカー」は、良い乗り手に恵まれれば、この上なく安全なクルマなのです。
日本は「スポーツカー」を作らなくなりました。「スポーティーカー」のことを言っているのではありません。例えば「後輪が簡単に滑ります」「ドリフトができます」という歌い文句のあるクルマなんて、ふざけていますよね?
そういったものではなくて、より強力なブレーキ、トルクと馬力を持ち、それを制御する技術や安全な車体を兼ね備えた「スポーツカー」は、クルマの基本性能を磨き上げるのに最適な対象なのです。これこそが真の「カイゼン」です。コスト度外視でも作るべきです。
それを作らないという事は、自動車メーカーとしての成長や貢献を止めたということです。コモディティや安価な電化製品と同じような感覚でクルマを作っていると言えるでしょう。現代のクルマは、もはやそういった製品でしかないとも言えます。
けれども、日本車の値段は高くなっています。メーカーは、どこにカネをかけているのでしょうか。系列のピラミッドにぶら下がる業者を食わせるため。業者を生かす一方でコストダウンを図るため。円安を保ち低価格で輸出できるようにするため。より高い利益率を達成するため。このために励んでいるのです。
つまり、外国の顧客に低価格でクルマを提供すること以外は、全部自分たちのことしか考えていないのです。日本の客など、さらさら眼中にありません。日本人を舐めています。
日本人を馬鹿にしていると言えば、日本には軽自動車という摩訶不思議なカテゴリがあります。普通なら欠陥車ですが、日本国内で走る分にはOKという車です。性能も安全性も低い、庶民向けの専用車という訳です。華奢な作りでクラッシャブル・ゾーンは狭く、軽量なので、重量のある車と衝突するとグシャグシャになってしまいます。ヘビー級のボクサーがひしめくリング上で、ミニマム級の選手が挑戦しているようなものです。
そうはいっても、日本人にとってクルマは必需品です。田舎では、通勤のためにも、スーパーへ行くのにも、通院をするのにもクルマが必要です。家が狭いので、休日に家族が楽しむためにも車は必要です。
現在の日本車の多くは限られた寸法で最大の容積を得るために、四角い形をしています。外板は機械でプレスしたものをそのまま取り付けたかのようで、板金にもカネをかけていません。内装を見ると電装品は増えましたが、コストダウンをしたようなシンプルなものになっています。まさに、四角い金属の箱に4つの車輪を取り付けたかのような代物です。
クルマを買えば高額な税金や諸費用がかかり、頻繁な車検の費用も捻出しなければなりません。クルマの維持費も必要です。誰も居ないような道の取り締まりで、定期的なお布施を支払い、「お前らは悪人だ」と講習会で教え込まれます。免許更新の手続きは非常に煩雑です。
それでも日本人はクルマを買い続けなければなりません。けれどもやがて買えなくなる時がやってきます。老人になれば運転もできなくなります。そうなったらどうやって生きていくのでしょうか?
東南アジアで使われているバイクタクシーや自転車タクシーが、日本にも必要です。日本のタクシーはあまりにも高すぎて、個人で利用する意味がありません。それよりも、乗り合いタクシーを普及させたほうがいいでしょう。自転車を中心とした街づくりも良いでしょう。安い原付自転車も必要です。取り締まりでイジメている場合ではありません。
本来ならば、電気自動車や自動運転システムの普及が実現することによって、最終的にコストが下がり、我々の生活も便利になるはずでした。しかし、日本にその未来はやって来ないようです。
日本は、戦後に外車のノックダウン生産をしたり、エンジンをコピーしたり、外国の生産方式を取り入れたり、品質管理を学んだりして、ようやく今の自動車王国を築き上げたのです。クルマで大儲けをしたあの黄金期が忘れられません。
彼らは、今までの技術を手放すのが怖くて仕方がありません。けれども、自動車産業が瓦解するとき、日本も終わりを迎えるでしょう。今となっては、それが早いか遅いかの違いしかないのです。