日本人の言葉の使い方を見ていくことで、彼らの思考様式を推測することができます。特に英語との比較によってです。日本人の多くは英語を苦手とします。例え英文を読むことはできても、書くのは不得手です。
それによって分かるのは、次のことです。主体的で自律的な思考の欠如。構造的かつ抽象的な思考能力の欠如。この2つです。根底にある原因のひとつとして、精緻な思考ができないというのがあります。それでは具体的な例を挙げながら見ていきましょう。
1)事実と主義主張の未分化
英文では、事実と自分の主張を明確に分けて表現します。「生魚を食べない」といった文でも、たまたま食べなかったのか、それとも自分は生魚を食べる習慣がないのか、どちらなのかが端的に伝わるようになっています。しかし日本だと「生魚は苦手で…」「お酒が弱くて…」といった表現になります。そもそもそんな事を言うことさえ憚られるのです。
2)状態と行動が未分化
英語だと状態動詞と動作動詞がはっきりとわかれています。しかし日本語の「〜ている」は現在進行形を表すと同時に、「私は〜社に属している」という「結果」や「属性」を表すのにも用いられます。自分の意思でもって、現在の行動を続けているのか、それとも、たまたま何かの結果で現在の状態に留まっているのかが不明なのです。
3)受け身の多用
日本人は受け身を多く使います。英文でも使いますが、あえてそれを述べる必要性が無い場合、または責任の所在を曖昧にする場合に使います。日本語で使う際には、責任を曖昧にする他に、「迷惑の受け身」のように、誰かに責任を押し付ける際によく使います。「妻に逃げられた(俺は悪くない)」「舐められた(いつか復讐してやる)」といった具合です。
4)事実と命令の混同
日本では「右折できません」といった標識が多くあります。これだと物理的に右に進めないのか、ルールとして右折が禁止されているのかが明確ではありません。couldなのか、shouldなのか、oughtなのかということです。
これは案外に重要な問題です。日本人は真善美でさえ、誰かが定めたルールだと思っています。もし「真善美」を口にしてしまうと、「綺麗事」「精神論」と冷笑されます。また「世の中にはいろいろな見方がある」などと言います。ルールに過ぎないのだから、偉い人が「こうだ」と言えば、真善美などは、如何様にでも変わると思いこんでいるのです。
5) 個人と集団の境が曖昧
「映画を観て楽しんだ」とは言わずに「楽しめた(楽しむことができた)」と言います。日本人はこういった表現では、個から離れて、いきなり客観的な視点になってしまうのです。「(無邪気に)楽しんだ」と言ってしまっては、「なんだ、そんな事で喜んだのか」と思われかねませんから。
6)時間軸の欠如
日本人は時系列で物事を考えるのが不得手です。過去も未来もありません。失敗してもそこから学べません。日本語には時制の一致という考えもありません。視点もくるくると変わり、自分の意見なのか事実なのか、言われた事を鵜呑みにして喋っているのかが分かりません。
英語だと自分が身につけた能力を示すcouldと、たまたま出来たことを示す、be able toを使い分けます。ところが日本人は、見せかけの謙遜のために、常に「たまたま可能でした」という意味合いで「〜することができました」などと言います。
さらに「過去のある時期に~という経験を有していた」というような、階層構造を持つ過去完了形を苦手としています。
7)仮説を立てることができない
日本人は事実、不明(事実はわからないが、もし〜だったら、〜だろう)、そして仮定という3つの使い分けができません。特に仮定法を使うという習慣がほとんど無いのです。「もし〜であったとしたら、〜であっただろう」という言い方です。
例えば、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」で、コミカルなシーンがありました。ハリソン・フォードがスコットランド人に扮して、城に潜り込もうとします。ところが気取った執事が現れ、「もし君がスコットランド人だったとしたら、私はミ○キーマウスだ」と言うのです。日本人はこういった台詞でクスリと笑うことができません。奇妙な顔をして押し黙るだけです。その時の翻訳も確か「スコットランド貴族とはお笑い草だ」というようなものだったと思います。
日本語で仮定法を使った台詞を思い浮かべようとして、こんなものを思い出しました。小説「翔ぶが如く」で、桐野利秋が「もし俺に学があったら、天下をとっちょる」と語る場面です。恐らく多くの日本人はこれを聞いて、悔し紛れの尊大な言い方だと思ったのではないでしょうか。「たらればの話」というのは悪い意味で使われます。
日本語では「まるで〜のように」という明喩もあまり使われません。どちらかというと他人を蔑む目的で使われます。書き手も抵抗があるのでないでしょうか。「正解」がなく書き手の主観になってしまうからです。及び腰になり、使うのをためらいます。かといって、暗喩を使ってしまうと読者に理解すらされません。
8)構造の欠如
日本人の文章には構造的なものが欠けています。散文やエッセイであってもある程度の構造は必要です。
日本人は、どうでも良い分かりきった話から初めます。役所の文章でも「日本において太宗を占める〜」といった、意味が無く仰々しい書き方を見かけます。
さらに、日本語の文章には接続詞が少なく、パラグラフ同士の関係が分かりません。
また最後には、とってつけたように、読み手が期待していただろう無難な「正解」を自分の意見として付け加えます。
日本人が書く文章には中身が無いだけでなく、文としての面白みにも欠けます。飽きてしまいます。述べるべき内容が無いのなら、せめて、面白くなるように工夫すべきでしょう。
さらに辟易するのは、公の場での日本人の質問の仕方です。「どこの組織に所属しているどういう立場の者か」という自己紹介から始まり、尊大な演説のような話に移ります。話が異常に長く、何がポイントなのかさっぱり分かりません。そうして唐突に終わります。
「俺も一角の人物だぞ」という、皆の目を意識したパフォーマンスです。しかし質問という形をとっているので、訳の分からない話の中から、相手の意図を察して答えなければならないのです。頭が弱いのは治らないと思いますが、せめて謙虚さだけは身につけて欲しいものです。
以上、書いてきたことを再びまとめると、日本人の頭の混乱ぶりが明確になります。
主体的で自律的な思考ができないため、個人としての意見がありません。自分で物事を判断できないので、事実とルールの混同が見られます。いちいち御用学者や有識者に「正解」を教えてもらわないと「自分の意見」さえ持てません。
以前に視聴した政治討論会で、学生による質問コーナーのようなものがありました。御用学者がもっともらしい出鱈目を語り、学生は神妙な顔で聞き入っています。彼らはこれを「模範解答」だと頭に刻みつけ、「今日はありがたい話を聞いた」と感じ入りながら家に帰って行ったのです。
いちいち「先生」から説明を受けたり、解説を聞かないと、何も頭に思い浮かべられないのが日本人なのです。
構造的で抽象的な思考もできません。時系列が混乱しており、因果関係を掴むことができないのです。過去を振り返り、仮説を立て、未来を予測することができません。
頭の中が階層的、構造的になっておらず、客観的な事実から法則を見出し、その上で仮説を立てるというピラミッドのような階層構造が頭の中にないのです。
世界の文明国は、巨大で構造的にしっかりとした石組みの建築物を造ってきましたが、日本人には不可能でした。日本に残っている木造建築や銅像でさえ、帰化人や外国人のおかげです。
抽象的な構造を思い浮かべることができないので、日本人はまともな神話を作り上げることさえできませんでした。
神という存在を仮定することにより、絶対軸を持つ思考が可能になるのです。要素還元主義的な考えもいいですが、二元論のように理想を頭に描くのは、社会をより良いものにするうえで有益なのです。
父性を持った絶対神や、母性を備えたマリアといった存在は、人間崇拝に陥るのを防いでくれたのです。現状を容認せず、改革によって新たな社会を生み出す原動力ともなったのです。
最後に、これらの基底にある根本原因として、思考における粒度の粗さが挙げられます。道具として、日本語の精度が極めて悪いために、上述したような思考を遂行することが困難なのです。例えば英語だと「どちらかは不明だが〜かもしれない」「〜という可能性がある」「たぶん〜だろう」「おそらく〜に違いない」という違いを、それぞれ一言で表すことができます。
しかしながら日本人は、右か左かという極端な考え方をするのが普通です。感情と論理の区別もつかず「俺の言うことが聞けないのなら出ていけ」という言い方もします。二元論であったとしても、その線上に無数の段階が存在することを理解しなければいけません。方向と量は別なのです。けれども、おおよその方向性しか掴めないのが日本人です。
日本人がこれほどまでに思考や言葉の使い方が拙いのは、左脳の発達が悪いからかもしれません。獣は左脳を、右脳と同じように空間認知を行うために使っています。左脳が徐々に音声を介した言語の理解に特化するようになったのが、人間なのです。
日本人は言語だけでなく、音楽に対するセンスも無い人達です。音に対して驚くほど鈍感です。駅で同時に流れる様々なメロディー、街で流れるスピーカーの音、遊技場での凄まじい騒音に対して、まったく何も感じていないかのようです。
数学や音楽にセンスが必要なように、言葉を扱うのにもセンスが必要です。日本人には、これが欠けています。他人に対する思いやりも欠けています。だから非常識な失言をいつまでも繰り返し、謝罪をしたり仕事を失ったりしています。
「動物」に近い存在だが、かろうじて言葉を喋るというのが日本人です。次のような敗戦時の笑い話があります。占領軍がやってきたときに、英語を使い慣れた大蔵省は解体を免れましたが、そうではなかった内務省は解体されてしまったというのです。
いくつかの企業で始まっているように、社内公用語を英語にすることにより、こうしたレベルの低い日本人を排除していくことができるでしょう。
メゾソプラノ歌手、エリーナ・ガランチャによるアヴェ・マリア(ウイリアム・ゴメス作)