日本人には文化を継承しようという考えがありません。古いものに固執する保守的な面がある一方で、新しいものをどんどん取り入れます。結果として醜悪なものが出来上がります。物質的なものは時間に沿った変化を見ることは出来ます。しかし精神的な面になると、歴史的発展というものが無きに等しいのです。
人間の脳は事象Aと事象Bを結び付けて、ひとつの物語を作ろうとする傾向があります。どの民族でもです。ところが日本人にはその傾向が少ないのです。Aという思想がBという思想と出会い、Cという思想になって進んで行く事が無いのです。
その代わりに、誰かから聞いた思想Aと、また別の思想Bが頭の中で混在しています。それらが空間上で、互いに脈絡もなく存在しているのです。だから日本人は日和見主義者になります。ある場面では、それに相応しいAという言説を述べ、また別の場面では、Bという言説を弄します。
頭の中でA、B、C…が、時間軸に沿って論理的に繋がるのではなく、人に言われた通りに如何様にでも配線が可能なのです。これが日本人が持つ順応性の正体です。突拍子もない事を思いつける半面、外の人間からは理解不能だったりします。互いに共通の了解に至る事ができません。逆にA、B、Cを論理的に繋げられる人間は「空気を読めない」と排斥される可能性があります。
日本人は、解離性人格障害に近い人々です。記憶や意識を共有しているものの、場面に応じて別な意見を述べ、一貫性がありません。
世界の多くの民族は宗教を作り上げ、その信者となりました。ところが日本では宗教を作り上げる事が出来なかったばかりか、宗教を理解することさえ出来なかったのです。宗教がいい悪いという問題ではありません。
「物語」を作る能力の欠如は、様々な様相で現れてきます。無宗教である。道徳に欠ける。話が支離滅裂である。言語処理が苦手である。話に一貫性がない。ウソばかりつく。機会主義者である。現象から因果関係をつかむ事ができない。長い文章が書けない。音楽は苦手。直列的に思考する事ができない。疑問を持たずに上から与えられた前提から考え始める。論理的ではなく感覚的である。その代わりに空間的芸術には見るべきものはある。こういった傾向が、日本人には見られるのです。
日本人は左脳に何かしらの欠陥があるのかもしれません。それが言語処理が苦手だったり、自我が弱いという結果となって現われるのです。脳の構造的な欠陥は、遺伝的要素もあるのかもしれませんが、幼い頃からの虐待や育った環境によるものかもしれません。彼らは豚や羊と同じように、本能的に上下関係を嗅ぎつけて、強いものに従います。
人々は、理念や思想で動くという事がありません。「自分の信念や信条に従う」という言葉は、もっとも日本人らしくない科白のひとつです。そうではなく「あいつに舐められた」「いつか見返してやる」「俺はこんなもんじゃない」だとか「負けて悔しいから頑張る」とか、低レベルの動機で動くのが典型的な日本人です。
日本の伝統といわれるものを見ると、些末な細かいルールに縛られており、何の考えもなしにそれを受け継いでいます。師匠から弟子へと自動的に受け継がれています。しかしそれらは「偉い人がそう決めた」「そういう習わしになっている」といった理由しか無いのです。日本のあらゆるものが、未開人の奇妙なしきたりのようなもので縛られています。
日本語自体を見てみても、昔ながらの画数の多い漢字が未だに数多く残されています。音読みと訓読みがあるだけでなく、適当な当て字もあり混乱しています。それに加えて、無節操なカタカナ語の氾濫があります。日本語の文法を研究している人は僅かです。実態とかけ離れた文法が国語の授業で教えられています。
日本人がカタカナ語や省略語を好んで使う傾向には困ったものです。例えば会議の場でも、相手側から突然、ローカルな略語が出てきます。それでも会議は何事も無かったかのように進んでいきます。後でそれとなく、こちら側の人間に確かめてみると、やはり彼らも分かっていません。「なんとなくこういう意味だろう」と解釈しているだけなのです。逆にこちら側もうっかりと略語を使ってしまう事がありますが、向こう側から確認の質問が出ることは稀です。
彼らは言葉をきちんと定義せずに話を進めてしまうのです。それでいて、もっともらしい事を喋っています。上から与えらえたスローガンも、感覚的に受け入れているだけです。なんといい加減なコミュニケーションでしょうか。
日本人の思想は付け焼き刃に過ぎません。昔の日本人は広い分野の教養を持っていると外国人に驚かれる事があったそうです。タネを明かせば、その頃は「世界文学全集」のようなものや、名作の文庫版が盛んに出版され、日本人はそれらを読んでいただけだったのです。
文化の担い手は若者でした。彼らは付け焼き刃の知識を堂々と披露します。しかし理解はしていないし、納得もしていません。あたかもファッションのように身にまとっているだけなのです。年を取ると途端に、無教養な元の姿に戻ってしまいます。
日本人は節操なく新しいものを取り入れますが、身になるものはほとんどありません。歴史を振り返ってみても、雑多な文化が入り混じっていますが、それらを貫くものがありません。その場限りの文化が、あちこちで脈絡なく花開いているだけです。
明治時代の官費留学生は目的意識が明確でした。「西洋は進んでおり、日本は遅れている」という認識のもと、長期に渡って外国に滞在し、謙虚な態度で学びました。身に着けた知恵や知識を国に還元するという自覚もありました。今のような箔付けのための海外留学とは違ったのです。
日本人は、古いものを捨てて顧みないので、変わり身が早いというだけの人達です。それが日本の強みでした。
日本が上手く行っていたのは、常に目指すべき外国があった時のみです。「坂の上の雲」を目指して「彼らに学ぼう」という意識がある時にだけ、日本は繁栄します。
しかし逆に「外国に学ぶことはもうない」となった途端に、滅亡へと向かって突き進みます。この繰り返しです。日本は常に指導者や道しるべを示してくれる誰かを必要としているのです。