ルイ・アームストロングが歌っていた「この素晴らしき世界」という有名な曲があります。ベトナム戦争の頃に書かれた曲です。実際には存在し得ない平和な世界を歌っています。それが素朴な歌詞で綴られています。
理想に反応して、それを歓ぶという心は何処から来るものでしょうか。人間の脳には特定の図形に反応するニューロンが存在します。同じように、現実にはあり得ないシンプルで美しい理想像に人間は反応してしまうのかもしれません。
理想像に喜びを覚えるかどうかが、フィロソフォス(愛知者)とそうでない者を分けています。古代ギリシャの有閑階級が、幾何学や音楽、哲学、体操競技に夢中になったように、学問や芸術は関連しているのです。
衣食住が足りていない状況では、理想を思い描き、創造的な仕事を成し遂げる事は到底不可能です。
また教育には臨界期があります。子供の頃のふさわしい時期に適切な刺激を受けなかったり、虐待を受けてまともな精神状態でなかったりすると、そのあと幾ら教育を施してもどうにもならないのです。失われてしまったニューロンは二度と再生されません。
そのうえに老人となると、知力、体力、気力が衰えてしまいます。しかしプライドだけはあります。彼らが大きな組織を司る事には無理があります。ニューロンが死滅し、理想を思い描くことはもちろん、理想に反応することさえ出来ないのです。
欲しければカネでも名誉でもくれてやります。しかし、永年お務めしたご褒美として権力を伴う地位に就かせることは、やめたほうがいいでしょう。
「点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。(中略)自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。(中略)どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相対に見て、絶対の存在しないことを認めてはいるが、それでも絶対があるかのように考えている。」
森鴎外 『かのように』
脳はいいかげんにできている: その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ (河出文庫)