kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

Have You Ever Seen The Rain

CCRによる1970年の作品、「Have You Ever Seen The Rain」の Emily Linge さんによるカバーです。晴れた日に突然やって来る、嵐のような雨を歌っています。CCRの内部事情を歌ったものとも言われますが、人生における大きな試練や、当時の世相を想起させるような曲です。

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雨を見たかい

Gentle On My Mind

You've Got a Friend in Me

映画「トイ・ストーリー」で流れていた Randy Newman の" You've Got a Friend in Me" という曲のカバーです。キャロル・キングにも " You've got a friend" という有名な曲があります。どちらも相手の立場で友情を歌った歌詞です。主語を省略してしまう日本語では、このような発想自体がありません。また、似たような事を言おうとしても「友達になってあげるよ」とか「友達になってください」等のように、対等の立場ではなく、どうしても序列関係で考えてしまうのです。真の友情が存在しない所以です。

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You've Got a Friend in Me

君の友だち

Carole King - You've Got a Friend (Official Audio) - YouTube

謝れば済むと思っている日本人

日本人はすぐに謝ります。表面的にです。しかし直ぐに同じ事を繰り返します。日本人は痛い目を見ないと学習できません。歴史や教訓から学ぶことができないのです。

 

この社会では誰もが直ぐに謝るのが普通です。お店では客がどんな理不尽な言いがかりをつけようとも、常に低姿勢でご機嫌をとらなければいけません。会社では、少しでも否定的な反応があれば、即座に「すみません」と言う必要があります。

家庭では、親の機嫌を損ねた子供が「ごめんなさい」と泣いて詫びを入れます。相手が何故怒っているのか訳が分からなくても、とりあえず頭を下げます。確かにそれだけで怒りが収まってしまう事も多いのです。この社会では理由が無くても謝る必要があります。

 

外国人の血が流れている、ある俳優は、学生時代に白ランを着て番を張っていました。集団抗争のさなかに、相手の番長が土下座をして謝ってきたので、これを許して背中を見せた途端にナイフで刺されてしまったそうです。それ以来、相手が謝ってきても「今度会ったら〇されるかもしれない」と思う程度に痛めつけるようにしたそうです。

 

日本人は獣と同じでムチ打ったり、電気ショックを与えたりしないと学習しないのです。痛みを与える事でようやく扁桃体に恐怖が刻み込まれるのです。思考力や想像力が足りず理性が発達していないので、他に方法がありません。

先の戦争でも国内の主要都市が焼け野原となり、自分も機銃掃射を受ける様になって、ようやく人々は「この戦争は失敗だった」と感じました。それでも一度やり始めた事を止めるのは難しかったのです。

 

ある外国製スポーツカーの持ち主が、休憩中に高速隊の人に呼び止められたそうです。派手なスタイルのそのクルマはどちらかというと成金が乗るクルマというイメージを持たれています。「こんなクルマ、悪いことをやっていないと乗れないよな」といった口調で乱暴にクルマを叩いたそうです。あいにく、そのオーナーは公安とも知り合いでした。その事実を知った途端に、隊員は土下座をして非礼を詫びたそうです。

日本人は信念や法に従って動いてはいません。日本人は相手が弱いか強いかで対応を決めているのです。

 

ある〇翼団体関係者が、車検中だったので代車の冴えない国産車に乗っていました。たまたま、乱暴なやり方で外国製スポーツセダンに追い越された事に腹を立てて、そのクルマの行方を塞ぎました。そのドライバーは医療ドラマ等でよく見かける俳優さんでしたが、土下座をして丁寧に謝られたそうです。

 

ことほど左様に日本人はよく謝るし、土下座もします。彼らは簡単に頭を下げますが、本当に「悪かった」と思っている訳ではありません。とりあえず謝れば、その場をやり過ごす事ができると思っているのです。

 

直ぐに謝罪するような人間は信用できません。モラルがある人は、信条や信念と照らし合わせて、自分が悪かったのかどうかを判断し、謝罪するかどうかを決めます。日本人のように道徳が欠如した人間は、単なる方便として表面的な謝罪を繰り返します。今度は見つからずに上手くやってやろうと考えます。不快な目に合わせた相手に復讐する機会も伺っています

日本人は、本当に謝らなければいけない場面では、傲慢にも相手を非難します。気にするのは上下関係だけです。

 

日本人は抽象的な思考が苦手です。道徳体系や法律に則って行動することが出来ません。彼らは原始的な感情に動かされています。国民単位でこういった感情に囚われると、歴史に残るような無法行為を彼らはやってのけます。

 

明治維新以降、あれほど日本人が富国強兵に邁進したのは「外人に恥をかかされた。いつか見返してやる」という恨みにも似た感情でした。

太平洋戦争が終わると今度は、「まったく酷い目にあわされた。もう戦争はこりごりだ。外人さんの言うことは聞こう。でも上の言うことは信じないぞ」となりました。

さらに占領軍によって与えられた平和憲法は、思わぬ効果をもたらしました。「平和が一番。我々は世界に冠たる平和な民族だ」と考えたのです。自由が与えられ、強兵を捨てて富国だけを求めました。それが結果として経済的復興につながりました。

自分たちがしてきた悪事は反省せず、経済活動も相手を顧みない自己中心的なものでした。しかしそういった節操の無さが、日本の強味でもあり、弱みでもあったのです。

 

日本の歴史を振り返ると平和だった期間は束の間に過ぎません。この狭い列島で人々は無法行為や争いに明け暮れ、貧困、飢饉、自然災害に絶え間なく見舞われたのです。戦後50年ちょっとの間は、日本史上でも稀な時期だったのです。人々がちょっとの間だけ、まともな方向に頑張れた時代でした。

 

現在日本は、本来の姿に戻りつつあります。ただし世界の他の国々と比べると、相対的に貧しくなっています。世界と歩調を合わせずに、独自の道を歩んで自滅して行くのが日本流です。

 

日本人は理屈では動きません。幼稚な感情で動きます。上下関係で動きます。それが社会を規定します。

幼いころから繰り返される虐待によって、暴君に従う術を彼らは身に着けていきます。表面的には従順です。謝れば済むと思っています。しかし無意識に残った激しい恨みは常にはけ口を求めています。

日本人は心の奥底で愛を求めています。母性的な無制限の愛をです。しかしそれが得られる事はありません。得る方法も分かりません。そんな愛をついぞ経験しなかったからです。それが日本人を幼稚な行動へと走らせます。憎しみと愛への渇望が、弱者や我が子へのイジメや虐待となって表れます。周りに自分たちより惨めな人間がいる事でようやく彼らは安心するのです。

 

彼らは愛を求めますが、手を伸ばす程に、それは遠のいて行くのです。助ける事はできません。彼らは狂人のようだからです。狂人による狂人にするための教育、その負の連鎖を断ち切ることで、ようやく日本はまともになるのです。

愛するということ 新訳版

The Great Gatsby (English Edition)

日本語が苦手な日本人

日本人は日本語を苦手とします。そもそも彼らは言葉をうまく扱えないのです。外国人との意思疎通どころか、日本人の間でさえコミュニケーションが成立しません。 

 

単純な「AはB」という文を見てみましょう。これは必ずしも、AとBが論理的に等しいという意味ではありません。

例えば「春は曙」「俺はビール」といった文です。「春はなんと言ったって曙が一番良いと私は思う」「俺は何が飲みたいのかというと、それはビールである」という文章が省略されたものです。Aという話題を持ち出して、それに関連した事がらを加えていくのが日本語です。しかし「どういう関係か」という点が曖昧なのです。

 

考えられる人は、足りない言葉を適切に補えます。そういう人は英語でも日本語でも不自由はしません。しかし日本では、省略された状態で受け取ってしまう人も多くいるのです。曖昧なまま、何となく相手の感情を理解したつもりになっています。

 

喋る場合も、日本語では語順がどうでも良いので、よく頭の中で整理しないまま語りだしてしまいます。思いつくままに事がらを、適当な格助詞でつなげていくのです。

また日本語では、最後に助動詞を重ねる必要がありますが、それを幾つか省略してしまう人がいます。文末が短くなるので威勢は良いですが、意味は不明瞭になります。

 

長い文を「~でありますが」というように、「が」を入れて何処までも続けていく人もいます。動詞が来る頃には、それらがどういう関係だったのかが分からなくなります。

パラグラフ単位では意味が通っているように見えても、文章全体では何を意図しているのかが理解不能というものもあります。文字制限のあるSNSや、短い言葉で応酬する匿名掲示板に慣れ過ぎたのかもしれません。

 

ある社会学者の本にこんな話が載っていました。講演をしていると皆が眠そうにしていました。ところが「海外の有名な誰それによりますと~」と言い出すと、一斉に目覚めて、メモを取り始めるのだそうです。

話を聞く方も、講演者がどういう視点を持ち、全体としてどのように考えているのかは、どうでも良いのです。些末な知識やノウハウだけが関心時です。日本人に受けるためには、冗長で退屈な話のなかに豆知識のようなものを少し混ぜておく必要があります。そうすると彼らは喜びます。

 

日本では、上の立場に居る人は、長く喋らなければなりません。短いと威厳を保てません。けれども内容があってはならないのです。他人と異なる見解があったり、他から異論が出るようなスピーチは最悪です。念仏のように「何を言っているのか分からないが、有りがたい」という文章が無難です。

 

本を読んでも、三分の二くらいが「言い訳」めいた事で占められている事があります。

情報は多ければ多いほどノイズに近くなります。しかし日本では、出来るだけ言葉の量を多くして、相手を煙に巻く必要があるのです。誰も刺激しないように、そして誰にも突っ込まれないように、そうするのです。

 

日本人は訳のわからぬ事を言う一方で、他人の言葉を誤解する名人です。例えば報道でも「〇国と△国が激しい非難の応酬を繰り返しました」と、まるで公式の会議で何やら喧嘩でもしていたかのように書き立てます。冷静に交渉をしているだけなのにです。

及び腰で相手の意見に何でも賛同し、カネを献上するのが日本の外交です。そうかと思えば、威勢よく非難だけ浴びせかけて、背を向けてそそくさと退散する事もあります。へりくだるか、空威張りかのどちらかしか出来ません。

彼らには感情的な先入観があり、それに沿って相手の意図を曲解します。また先入観に沿って言葉を語ります。これでは外交どころか、コミュニケーションも成立しないのが当たり前です。

 

言葉は重要です。言葉とは理性(ロゴス)です。「初めに言葉ありき」というのは、それを象徴的に表しています。ヒトは言葉を発するようになり、やがて文字を発明しました。言葉を石板に刻みこむ事で律法が生まれました。人々は進んで法に従うことで、協力し合い、秩序が保たれるようになったのです。

法は時間や空間を超えます。こうして大きな国家を築くことが可能になるのです。文字は、ヒトに大きな力を与えました。ヒトが思い描く究極の理想を外に投影したのが「神」なのです。

 

自ら文字を作り得なかった日本人には、理性や法、そして神といった概念は極めて異質で馴染めないものなのです。

理想を描き、抽象的な思考が出来たギリシャ人、巨大な組織運営に優れたローマ人、物事の本質を見抜き、それを形にする事ができたケルト人、そういった先人達の力があったからこそ、今の文明があります。

翻って日本人は、社会秩序を保ち人々を協力させるために恫喝や暴力を用います。国を運営するために独裁政権のような組織を必要とします。「神」を与える代わりに「神国」を連呼します。しかし食糧は与えません。人々は精神力だけで動く事を期待されています。

 

言葉を軽視する日本人は、世界で一番契約を守らない人々でもあります。その為に世界中でトラブルを巻き起こしています。企業間の契約書に「瑕疵担保責任は無い」とあっても、無制限に責任を求めてきます。契約書があっても、結局は馴れ合いや力関係で物事が決まると思っています。法も契約もあったものではありません。外国人にとって見れば、日本人との交渉が嫌になるのは当たり前です。

 

日本語をきちんと教育すれば、日本人はマシになるのでしょうか。教育の現場を見ると、現代国語は道徳の授業と化しています。国語の試験問題は、出題者の意図を察すれば解けるというものになっています。論理学は数学の分野で少し扱われる程度です。修辞学はありません。授業では、表現が豊かな詩を味わうのではなく、究極まで省略された俳句が良いとされています。

  

独裁国家や軍隊では言葉が単純になります。言葉は単なる号令です。発破をかける掛け声に過ぎません。サーカスで動物を鞭打つのと同じことです。上官の命令に対して言葉を返す兵士が不要であるように、発言する日本人は不要です。

 

黙々と奴隷のように仕える多くの日本人と、世襲により地位を約束された人々がいます。二流、三流の下で、一流が使われる社会です。日本が二流国家から抜け出せない理由です。

日本は既に Point of no return を過ぎてしまったのかもしれません。しかし、自分の運命は自分で変える事ができるのです。

日本語練習帳 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

日本語はどういう言語か (講談社学術文庫)

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

蛮族と化す日本人

日本は文明を捨て去り、野蛮人の国へと向かっています。これは世界でも初めての事ではないでしょうか。ある意味、日本は先陣を切っているのです。

 

近代以降、世界の距離は縮まりました。一度文明化すると、そこから逆戻りするというのは考えらない事でした。戦争で国が荒廃しても、それは限られた間だけの話であり、戦争が終われば復興するのが普通だったのです。

 

ところがそれに逆行しているのが日本なのです。バブル崩壊から、日本は衰退するばかりです。人心は荒廃し、企業業績も悪化しています。政治は機能していません。庶民から見れば無政府状態です。治安も悪くなっています。東京には警視庁がありますが、それ以外の場所では地方警察しかありません。

地震とそれに伴う汚染事故が日本にとどめを刺したのです。人々はもはや「復興などできないのだ」と悟りました。その後に続く大きな自然災害やコ〇ナ禍に対しても、日本は手も足も出ないという事が分かりました。戦後より悪い状況です。為政者はどうしたら良いのかがさっぱり分からないのです。

 

日本人のような自浄能力の無い人々には大切なことは任せられません。1億人もの人々を擁する国を統べるなど、彼らには荷が重すぎるのです。日本人というのは誰かに指導をしてもらうか、手本を見なければ、何も出来ない人達なのです。

日本の大きな問題は形だけで中身が無いところです。見様見真似で、表面だけを同じにすれば、それで「同じレベルまで追いついた」と勘違いしてしまうのです。何も考えていないので、習得が速いように見えますが、理解していないので応用が利きません。

具体から抽象し、演繹を行い、そこからまた具体化するという手順を踏まずに、具体から具体へと脊髄反射で反応するだけの人達だったのです。

 

東京だけは、しばらくの間は体裁を保つでしょう。しかし地方は急速に衰退していきます。冗談ではなく、移動手段としての自転車や輪タク、人力車が復活するでしょう。

ガソリン車から電気自動車という変化に対応できないだけではありません。値段が高すぎて、クルマを購入したり維持費を払ったりすることが出来なくなるのです。

田舎では職場に通うのに、自転車で片道1時間や2時間をかけるのが普通になるでしょう。日本人には、文明が崩壊したあと、自分たちで自動車を修理したり、ラジオや無線機を直したりという事ができません。彼らには工学的センスがないのです。

それどころか、「そんな面倒な事をするぐらいなら、人力でいいや」というのが日本人の考え方です。クルマが必要というならば、旧東ドイツトラバントのようなシンプルなものが必要です。木炭自動車もいいでしょう。

 

食料不足は目の前です。今のままでは自給自足など不可能です。食料を輸入するにも、高すぎて庶民には手に入らないものが増えていきます。

これからどうなるのでしょうか? 「てめえの食いぶちは自分で何とかしろ」となるのです。「小作人」が復活します。土地を借りて、汗水を流して穀物や野菜を育てるのです。物々交換で何とか生きていくしかありません。

飢饉や餓死が当たり前のことになるでしょう。もし国連機関や外国の人々が見かねて援助の手を差し伸べようとしても、それらの物資は政府を経由するうちに何処かに消えてしまいます。地方は切り捨てるしかないのです。

 

日本は中世のような素朴な世界へと変わります。形だけを真似て先進国になっただけなので、崩壊の速度も速いのです。人々は生まれた階層から、一歩も這い上がることができません。東京に移動してもスラム街で暮らすだけです。

 

老人は今の若者を見限っています。若者には覇気がなく、仕事もできず、消費意欲もないと見ています。それと比べて「幸い俺たちは年金を貰えるし、ちょっとした仕事で小銭も稼げる。遊んで暮らそう。貯金は全部使い切ってしまおうぜ」と考えているのです。「子供や若者はどうなる?」と訊かれれば、「知ったことか」と答えるだけです。

 

日本は惨憺たる状況になります。文明国家から未開の国へ。社会学者にとっては興味深い対象です。その時には日本が再び注目を浴びることになるのです。別の意味の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として。

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さよなら人類