日本人は大きな目的を見据えて行動するのが苦手です。いつも場当たり的な行動しかできません。物事を正視しません。失敗しても学べません。日本人のこの傾向には、何か根本的な原因があるのではないでしょうか。
生物というのは、だんだんと無秩序へと向かっていく物理世界とは反対に、自分や環境を秩序立てていく存在です。それが無ければ、そこら辺のボロ屋と同じように朽ちて滅びるだけです。
人間は外部から新しい刺激を受けると、それに注目し、正体を見極めようとします。必要であれば自分の考えを改め、新しい仮説を立てます。それを繰り返すことによって、より良く環境に適応できるのです。
例えば、寝室の暗闇のなかで人の顔のようなものが浮かんで見えたとします。ちょっと驚きますが、良く観察してみるとシーツの皺に過ぎないことが分かるかもしれません。あるいは「やはり幽霊は居るのだ」と自分の信念を修正してしまう人もいるかもしれません。どちらにしても、びっくりするような刺激を受けたあとで、次に同じような場面に遭遇したとしても、脳への負荷が最小になるように行動するわけでです。
実はこの方法は、神経科学的なレベルでも行われていることが分かってきました。ピアノの前に座っているとしましょう。ある一連のパッセージを弾きたいとします。「こんな速度で指が動いてこんな音が流れる」というイメージを浮かべると、それが運動ニューロンに送られます。一連の複雑な運動プロセスがひとつのセットになっており、勝手に指が動いてくれます。たまたまそのピアノはいつも弾いているものとは異なり、音が小さかったり、鍵盤が重かったりするかもしれません。指の使い方を微調整する必要がありますが、それは抹消のほうで調整してくれるのです。「こうすれば、こうなるはずだ」という指示が送られたあとで、「ちょっとイメージと違う」「じゃあこうしよう」という細かいフィードバックの調整は末端の神経細胞がやってくれるのです。
神経科学のレベルだけではなく、「あるべき姿」「ありたい姿」を思い浮かべ、それに向かって自分を変えたり、環境を変えたりという行動をとるのは、人間のごく基本的な自然の姿です。ところが、こういった事が苦手なのが日本人なのです。
日本では発達障害の方が突出して多いと言われています。ADHDの人は、よくカギや財布といった大切なものを忘れたり、落としたりしてしまいます。大事な予定を覚えていられず、忘れてしまうこともあります。発達障害の人達は、重要な刺激とそうでない刺激を見分けることが難しいのです。余計な刺激によって頭の中は嵐のようになっています。
通常の人にあっては、必要な刺激はズームアップしてより詳細に観察できるようになっています。反対に余計な刺激は、邪魔をしないように抑えることができます。こういった無意識の繊細なコントロールによって、初めて緻密な思考が可能となるのです。
このような制御においてドーパミンは、重要な役割を持っています。ドーパミンはニューロンの間で、刺激を強化したり、反対に抑制したりといった調整に使われています。大量に環境からの感覚刺激が頭の中に流れてきたら、脳はそれを処理することができません。そのために必要な刺激だけを選んで、脳の負荷を最小限にしようとするのです。そこに難があるのが発達障害という訳です。
日本では視線恐怖症や対人恐怖症の人が多いと言われています。人を意識したり、緊張したりするような場面で突発的に首を振ってしまうチック症もよく見かけます。いずれも外部からの余計な刺激を抑制できず、過剰反応してしまう障害です。「誰かが見ている」「自分の感情が筒抜けになってしまう」「それを抑えようとする自分の行動もバレている」「それをまた他人が見ている」というループが合わせ鏡のように、自分の無意識の中で繰り返され、目をパチパチさせたり、首が動いたりしてしまうのです。これらも、ノイズのように不要な刺激をうまく抑えられないという機能不全のひとつです。
感覚の抑制が大事だという例を挙げていきます。誰かに自分の腕をくすぐられたとしましょう。当然「くすぐったい」と感じるはずです。でも自分で腕をくすぐっても、そうは感じません。これは自分の意思で運動する際には、感覚刺激が抑制されることによって起こる現象です。
今度は混雑した電車の中で座っている場面を想像してみましょう。隣の人に自分の肘が当たってしまったとします。特に痛いとか不快だとは感じないはずです。今度は隣の人から同じ強度で肘が押されたとします。こんどは痛いと感じたり不快に思うはずです。これも感覚刺激が抑制されているか、そうでないかで説明できます。
これらは健康な人間ならば共通に見られる現象です。ところがもし感覚刺激の抑制が無くなってしまったらどうなるのでしょうか。自分の意思で動いているという「自律感」は、感覚刺激の抑制によって初めて得られます。例えばピアノのキーを押しても感覚刺激が強いままだったとしたら、もはや自分の意思で鍵盤を押しているとは感じられず、「キーが自分の指に押し付けられている」「誰かによって自分の体が動かされている」という病的な意識を持つようになるのです。
人間の脳は、このような状態でも何とかバランスを保とうと試みます。「自分が鍵盤を押している」というイメージを強く持とうとするのです。そうすると相対的に感覚刺激を弱くすることができます。最初に挙げた例でいくと、「オバケは存在する」と繰り返しイメージするようなものです。しかしこれが行き過ぎると、環境からのフィードバックを受けて学ぶことができなくなります。それどころか現実との区別がつかず、やがてこの信念は幻聴や幻覚となります。こうして妄想に取り憑かれてしまうのです。(ただし統合失調症は発達障害の延長線上に位置するものではないということは念のために申し添えておきます。日本において統合失調症が特に多いというデータもありません)
ドーパミンが不足しているパーキンソン病では、自分の手足をうまく動かせなくなります。「こうしよう」というイメージを持っていても、その繊細なイメージは、強い感覚刺激によって、書き消されてしまいます。予想外の強い刺激を受けて、手足の動きが止まってしまうのです。健常者がピアノを弾こうとした場合でも、横から「違う違う」などと余計な事を言われたり、スマホの着信音が流れたりすると、演奏が止まってしまいます。これと似たようなことがパーキンソンの患者では頭の中で日々起きているのです。そのために刺激の少ない、ルーチン的な常同行動しかとれなくなります。
このように、ドーパミンによる微妙な制御における不具合は、様々な精神疾患における要因のひとつとなっているのです。(もちろんこれで全てが説明できるわけではありません)
人間はこういった低次の神経科学的な処理を統合させることによって、さらに複雑な思考をすることが可能となっています。「環境が新しくなる」「さらによく観察する」「既知の知識で説明できないかを考える」「説明できなかったら新しい仮説を立てる」「新しい仮説に基づき行動してみる」「結果として環境に適応する、あるいは環境を変える」。こうした一連の流れによって、人間は今に至るまで生き延びることができたのです。
もしここに問題があったとしたらどうなるでしょうか。そうなると人は環境や失敗から学ぶことができません。観察したり考えてみようとせずに無視しようとします。自分の妄想に固執するようになります。環境が変わったのに同じ行動を取り続けます。やがては滅んでいきます。これが今の日本人の姿です。
目的やアウトプットのイメージを持つのは大切です。様々な障害があっても諦めずにそのイメージ持ち続けるのです。もちろん、環境から学び、仮説を修正することはあります。(1)信念を持つこと。けれども、(2)失敗から学ぶ柔軟性も持つこと。この2つのバランスを保てるのが優れた人間なのです。
学力があったり、スキルがあったり、仲間がいたり、カネがあったりといった事は大事です。けれども上に述べたことがなければ、大したことは成し遂げられないのです。
人間は、1)環境から学び頭の中身を書き換えることができます。人が一生において経験できる量は大したことはありません。ですから、口伝や書物によって学び、それをまた次世代に繋げていきます。
人間はそれと同時に、2)自分の都合の良いように環境を作り直してきました。狩猟から農耕へと移り、家畜を飼うようになりました。こうして食事には困らずに大勢の仲間を養えるようになりました。様々な文明の利器を生み出し、抽象的なシステムを作り上げました。現代ほど、その力が強まった時期はないでしょう。
このような、2)環境を変えていく力と比較すると、1)人間が環境から学び自分を変えていく能力はそれほど強くはなっていないのです。むしろ弱まっているかもしれません。このアンバランスが様々な弊害をもたらしています。
インターネットやAIの発達によって、様々な知識や、人間が及びもつかないような知恵を手に入れることができるようになりました。けれども人間はそれを上手に使いこなせていません。そこから学ぶどころか、却って陰謀論や自分の妄想に取り憑かれてしまう人が大勢います。SNSやインターネット漁りに時間を奪われ、ろくに自分で考えないような人も沢山います。
さらに悪いことに、日本人は目に見えるものしか理解できません。学問でも実学を選びます。表面しか理解できないので、ひとつのモノサシで序列をつけます。弱者を無能者として簡単に切り捨ててしまいます。そんな彼らが同じ基準で切り捨てられようとしています。油の中で浮いたり沈んだりしながら結局は多勢につく天カスのような人々がです。
人間は2極化すると言われています。少数の「超人」と、大勢の無能者にです。情報過多とも言えるこの世界から上手に学べる人は「超人」になれます。そうでないものは無能者として切り捨てられてしまうのです。あなたはどちらになりたいでしょうか。
しかし、無能者として生きるのもそれほど悪くはないかもしれません。そのうちに、映画「マトリクス」や「トータル・リコール」のように、仮想現実で楽しく生きてく人生が提供されるでしょう。今だって「日本スゴイ」の人々は、仮想の世界に満足しており実に幸せそうではありませんか。
脳の大統一理論 自由エネルギー原理とはなにか (岩波科学ライブラリー)