kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本人は何故まともなソフトウェアを作れないのか

日本人はソフトウェアを作るのが苦手です。ソフトウェアのみならず、抽象的なものは尽く苦手です。高度に抽象化したシステムが支配する世界において、日本人が貢献できる分野はごくごく限られています。

 

日本人が大したソフトウェアを作れないのは何故なのでしょうか。銀行の大規模な基幹システムは巨額の資金を注ぎ込みながらも失敗が続いています。インターネット上で世界に通用するプラットフォームを構築することもできません。個人レベルで画期的なソフトを作る人も稀です。もし居たとしても、逮捕、起訴されてしまいます。

 

まず、日本人はプロジェクト管理というものが苦手です。近代的なプロジェクト管理手法は、NASAアポロ計画から始まったと言われています。大きな目標を達成するために、段階的に細かいレベルの計画にまで落とし込んでいき、どれがボトルネックとなるのかを認識しながら進捗を管理する手法です。

似たようなプロジェクトを遂行する場合は、先例があるのでラクです。問題なのは前例の無いプロジェクトです。日本人は目標設定レベルで躓いてしまうのです。何のために作るのかさえ、はっきりしないプロジェクトさえあります。日本人は目標設定やリスク管理を疎かにしたまま、とりあえず手を動かしてしまいます。この点、建築や建造においては、まだ具体的な完成イメージがあるので未だマシです。しかしソフトウェアはそういったイメージが無いまま進んでしまうことがあるのです。巨大なプロジェクトになる程、そういった傾向があります。

 

敗戦前の巨大プロジェクトとしては、戦艦大和が思い浮かびます。現代の価値に換算して数兆円とも言われる規模のカネが投入されました。それまでに無い巨大戦艦とは言え、大和型戦艦は、既存のものをそれぞれスケールアップしていったものに過ぎませんでした。口径を太くした主砲や、高性能の光学装置といったものです。その一方で、当時の最新機器だったレーダーは、相変わらず劣悪なものを装備していました。別に何か画期的なものを作りあげた訳ではなかったのです。日本人は「世界一の巨砲」とか「世界一のスパコン」だとか、馬鹿でも分かるようなスローガンを喜びます。日本人はたったひとつのモノサシで優劣をつけることしか出来ません。頭が単純だということです。

 

太平洋戦争時に日本海軍は、海上での夜間戦闘を得意としていました。夜間に強力なサーチライトを使うと敵に居場所を知られてしまいます。その代わりに暗闇での観測に長けた戦闘員を特別に訓練して配置していました。「日本人の視力は世界一」などと悦にいっていましたが、米艦隊が信頼性の高いレーダーを備えてからはボロ負けするようになりました。日本人が頼りにする精神力というものは、最新の技術力に常に負けてしまうのです。

 

米国は、シャーマン戦車に見られるように、そこそこの性能であっても、標準的な部品を組み合わせて保守性の良い兵器を大量に作り戦場に投入しました。ドイツの戦闘機、メッサーシュミットは、基本設計は古いのですが、改良を重ねて、最後まで第一線で活躍しました。日本は、ゼロ戦以降、カネをかけてあれこれ新型戦闘機を作って投入しましたが、結局、最後まで大して変わり映えのしないゼロ戦を使い続けました。ダイムラーのエンジン設計書を手に入れても、結局は信頼性のある水冷式エンジンを作れませんでした。空冷エンジンにしても、二千馬力止まりです。

 

ソフトウェアのみならず、システム作りも苦手にしているのが日本人です。現代社会は複雑なシステムによって動いています。法律がその基盤です。けれども日本では例外的なルールがあちこちに存在しています。憲法と個々の法律や法令が矛盾していても一向に平気です。鈍感な連中です。そもそも気持ち悪いと感じないのでしょうか? 日本人は部分を仔細に見ているだけで、抽象的な全体像を見通すことができない人々です。

 

ITシステムを構築する為に業務分析や要件定義を行う際も、似たような状況に直面します。目的がはっきりせず、情報システムの担当者も何を作りたいのか良く分かっていません。ヒアリングをすれば答えては貰えます。けれども、いろいろな部署の都合や、例外ルールを加味したものになるので、要件はすっきりとせず、複雑なものになります。

デジタル化においては、業務効率改善も大きな目的のひとつとなるはずですが、改善提案は脇に押しやられてしまいます。それどころか、システム導入によって却って業務効率が落ちてしまうことさえあるのです。クラウドやオンプレのパッケージ製品を使って業務をシンプルにまとめたいのですが、カスタマイズが必要な場合がほとんどです。運用に入ってからも、しばらくは追加の改修が入ります。というより、そのシステムが破棄されるまで、半永久的に続きます。

 

実は業務を何も変えたくないと思っている人々が、システムを発注しているのです。それでいてセキュリティ・インシデントを何より恐れます。通常のプロジェクト管理では、課題を一覧にして管理をしていると思います。ですが、リスク管理をきちんとやっている所はあまりありません。日本人は、大きなリスクには鈍感ですが、小さなリスクは異常に気にします。変なメールが飛んでしまったと大騒ぎをしますが、その一方で、全国のATMが止まってしまうようなインシデントを、次々に起こしてしまうのです。

 

どうでも良いことに多大な労力をかけている例を挙げてみましょう。メールを送る時に、社員2人で宛先を読み上げながら指先確認をしたり、時間を空けて何度も確認を繰り返したり、メールとは別に電話やFAXでファイル開封のパスワードを連絡をしたりする所があるのです。信じられるでしょうか? 何のために文明の利器を利用しているのか分かりません。この国では容易に精神論の世界に入り込んでしまいます。

 

画期的なプラットフォームを構築するのも日本では難しいものがあります。アリババやアマゾン、フェイスブックといったものです。日本ではこういったものを作ろうにも、大企業でなければ事を始めることさえできません。大企業のサラリーマンが、高名なコンサルに話を伺い、構想を立て、業者に発注するのです。けれども、やはり明確なイメージが定まっていません。どうやってカネを回していくのかという仕組みも頭に描けていません。何をしたいのか分からないまま、業者は発注者の言う通りに手を動かします。

結局のところ、彼らは会社のカネ、会社の看板、決められた職分で仕事をしているだけのサラリーマンですから、限界があります。自分の出世だってかかっています。そもそも世界で通用する立派なものを作ろうと思ってはいません。リスクはとれないのです。そういった人達でも企業の看板がありますので、何とか形にはなってしまいます。ビジネスを立ち上げ、後任に任して去っていきます。けれどもビジネス自体は大して利益を上げられずプラットフォームも消えていきます。実質的に失敗していますが、誰も責任をとりません。

 

日本では産官学の共同プロジェクトというのもよくあります。官が主導して、民間の業者や大学関係者を呼び込み事業をコーディネートします。ショボいアイデアでも、巨額の資金が投入されます。業者といっても大企業ですから、それなりの形のものを作り上げます。作ってはみたものの、効果ははっきりしません。成功なのか失敗なのかが曖昧にされたまま、いつのまにか消えているのです。関係者にカネが行き渡ったというのが唯一のメリットです。今でも日本は、戦艦大和とあまり変わらないことをしています。

 

日本人は失敗しても、それを正視せず、曖昧にしてしまうのです。「太平洋戦争とは何だったのか」「バブル経済とは何だったのか」「日本の製造業は何故凋落したのか」 こういった事を総括できず、失敗から学ぶことができません。だから同じ失敗を、世代が変わる毎に繰り返します。日本社会は組織として学習ができません。

 

最後は偉大な発明ができる個人の存在です。日本人が遺伝的に創造性が欠如してしまっているという事はありません。ただし個を犠牲にして集団を大事にする傾向はあるでしょう。教育によってそれが強化されていきます。

個人が新しいものを世に出すと、社会の調和を見出した者として罰せられます。日本人は人間嫌いで権威が大好きですから、そういった画期的なアイデアを持つ人間を応援することはありません。それどころか、自分が「お上」になったつもりで叩きます。結果として、優れた人間は日本を去り、相変わらず愚鈍な人間が日本に残ることになります。

 

優れた人間を生み出すには、やはり教育を変えていくしかありません。人間の抽象的な思考能力やセンスを高めるための教育です。貧乏人でも学べる仕組みが必要です。そのような基本ができていないどころか、もっと手を抜こうと考えているのが、いまの日本なのです。

 

抽象的な思考力で勝負しないのなら、農業や下請け部品生産に力を入れるしかありません。「デジタル化だ」と、官庁が民間を叱咤激励したり、旗を振ったところで、結果が出るはずがありません。体の弱った老人に「オリンピック選手になれ」と鞭を振るっているようなものです。

教育では、学問だけでなく芸術も必要です。抽象的な思考は「遊び」によって育つからです。強制ではありません。そういった意味では「教育」という言葉自体が相応しくありません。国が「ああせよ」「こうせよ」と口を出すべきではないのです。現代ほど「自由」が大切となった世界はありません。それなのに国は、再び統制経済めいたことをやろうとしているのです。本末転倒です。

 

まとめると次のようになります。1)拙いプロジェクト管理。2)目的が曖昧。3)新しいものを作れず改善するのが精一杯。4)精神力への多大な依存。5)抽象的なシステムを扱えない。6)全体ではなく部分だけを見ている。7)業務改善に興味がなく、却って複雑にしてしまう。8)サラリーマンが新規事業を担っている。9)失敗から学べない組織。10)中抜きが目的の歪な再分配システム、11)創造的な個人がいない。12)時代遅れの教育。などです。

 

日本は未だ終わりではありません。資本があり、インフラもあります。多様な移民を受け入れ、教育システムを改善すれば未来が見えてきます。そのためには、高い視座を持ち、将来を見据えた優れたリーダーの登場が望まれるところです。

 

学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。

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