kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

仕事ができない日本人

日本人はなぜ無能なのでしょうか。日本では、上の人間がどれほど間違いを犯しても無謬の存在とみられます。かたや、下の人間は常に無能であり、完全を目指して働き続けなくてはいけません。現実とは全く異なる認識がまかり通っています。

 

優れたシステムは、有能な人間がトップに居てこそ初めて役に立つものです。無能では全てが無駄になります。それどころか、システムのレバレッジ(梃子)が効いているので、むしろ有害です。

無能な人間は己の間違いを認めるどころか、下に責任を転嫁します。完璧な解決や再発防止策を求めます。多くの日本人は、システムの完成度を80%から100%に近づけるために無駄な努力を積み重ねます。ところが大元の戦略に穴があるために、リスクを減らす事ができません。事故が起こります。そして再び上が、下に責任を転嫁し改善策を求めます。日本人はこの繰り返しから抜け出せません。

 

日本人は段取りが下手です。全体の見通しや段取りを考えるのはそこそこにして、直ぐに仕事に取り掛かるのです。まあまあの頭脳を持ち、頭や手や足を動かしているのですが結果が出ません。いきなり細かい部分まで仕上げていきます。

「これでは到底間に合わないだろう」と思うのですが、バカ丁寧な仕事を続けていけば、いつか結果が出ると勘違いをしています。永遠に時間があれば別です。彼らは体力を消耗し、頭も体も動かなくなって使い捨てられる運命です。仕事の事は考えていますが、自分の人生を考えていない人々です。

 

工学部出身者の中には、いきなり細かい所から仕事を始める人が居ます。解答が見えているので直ぐに作業を開始します。初めから完璧を求めます。確かにシンプルな電子回路を作る場合には、何かひとつミスがあっただけで、動かなくなってしまいます。

しかし巨大なシステム設計においては、完全性よりも冗長性の方が大事です。インフラだけを見ても、ストレージやキャッシュメモリ、CPU、さらには電源の冗長性を考慮に入れた設計が大事です。コストはかかりますが、それが結局リスクを低減させるのです。稼働を続けながら縮退と回復が可能なシステムです。それでもインシデントはゼロにはなりません。それを許容し、予め手を打っておくのです。体制も含めたシステムです。反対にコストを抑えた貧乏臭いシステムでは、冗長性ではなく完全性を求めることになります。

 

ちなみに、数学科出身者は「いかに効率よく仕事をして楽をするか」という考え方をします。良いことです。ところが社内には学閥がなく、人望も無かったりします。時々、他人を見下しているような所があるからです。意外にもカルト教団を信じていたり、オカルトが好きだったりする事もあります。せっかくの才能も宝の持ち腐れで終わってしまいます。有名大学出身であれば課長までの出世は早いのですが、その先がありません。一匹狼としてならば、有能で活躍できる人々です。

 

日本人は全体を見通して優れた判断を下すのが苦手です。IQや知識があれば、良い決断を下す助けとなります。しかしそれだけでは十分では無いのです。

彼らは特に、前頭葉の働きが鈍いように思われます。頭のバランスを保ったまま、考えたり作業をしたりするのが苦手なのです。

集中力が低いのは問題ですが、過集中も良くありません。戦時期に工場や郵便局で、気が狂ったように眼前の仕事に集中する学徒たちの姿をフィルムで見ることが出来ます。彼らは異様な速さでヤスリを動かしたり、郵便物の仕分けをしたりしています。頭にまったく余裕が無い状態です。

「フロー」や「ゾーン」と呼ばれる状態が、理想的な集中の姿です。仕事に集中しながらも、周りの状況を認識しています。適切な時間の感覚もあります。眼前の仕事以外の事もイメージしています。作業をしながらも「ここから学べる事は何か」「これを終えたら何をするか」、はたまた「今日の夕食は何にしようか」という事まで多層的に考えています。

仕事では、いかに早くこの状態に持っていけるかが、カギとなります。マルチタスクを課されているのなら、なおさらです。頭のワークキングメモリにそのタスクに必要な知識や段取りを展開するたびに、その分のオーバーヘッドがどうしてもかかるからです。

ところが日本では、異常な「過集中」が良しとされます。速さだけが重視されます。休まずに必死で手足を動かしている労働者は称賛されます。早口で即座に反論できる者は「カミソリ」と恐れられます。

反対に、ちょっとでも他の事を考えているような素振りを見せると罰せられます。手や足を動かしていないとサボっていると思われます。こうして子供たちは、常に何かしら勉強や仕事の事を考え、忙しく動いている姿が正常なのだと思い込んでしまうのです。

 

前頭葉は、ストレスや劣悪な環境で直ぐに動かなくなります。また、一日に使える判断力は有限です。裁判官の判決を統計的に調査したところ、午後になるにつれて決断力が衰えていくのが分かったそうです。精神力ではどうにもならないのが判断力なのです。多くの人々は、貴重な午前中の時間帯を、会議やメールチェックで費やしています。

軍隊で士官が個室を与えられているのには理由があります。ナポレオンのように、銃弾が飛び交う最前線でも冷静な判断力を保持できる人間は、真の天才です。一方、日本では、想像力の無さから来る頑迷さと、決断力とを取り違えている人が大勢います。

 

日本人は小さい頃から「しつけ」と称して怒られる事に慣れているので、自分で考えるのをやめてしまいます。実際に脳も委縮していそうです。彼らは、教師や上の者が訓示を垂れたら、それを無条件で頭の中に受け入れます。洗脳に慣れています。プランBを考えず、リスクの評価もできません。

人々は「偉い人」の言う事を無条件で信じます。「〇大生が考えた何々」「〇大生が勧める何々」というコピーがWebサイトで散見されます。「光クラブ事件」の時代とあまり変わりません。

彼らは被暗示性が強いのです。詐欺師にすぐに騙されてしまいます。自分でも分かっているので疑り深いところがあります。下の人間からの悪い知らせは無視します。直ぐに不安になってしまうので、「変なことを言うな」「ポジティブシンキングが大事」「言霊に気をつけろ」などと言います。

 

まともな人間は、十分な経験を積み、大量の本を読むことで、そこからエッセンスを掴み取ります。ところが日本では、薄っぺらい教科書を与えられ、書かれた事柄だけから演繹して考えようとします。

日本の教科書は、思い出す切っ掛けとなるメモ書き程度としてなら役立つかもしれません。あれは逆に、初学者にとっては不向きなのです。日本の数学と物理は、ルールに則って問題を解決する訓練をしているだけです。確かにこれでは義務教育の意味も無いでしょう。

どんな分野でも共通する能力や思考方があります。それを学べるのがリベラルアーツです。それらを得られない日本の高等教育も意味がないのです。

日本人は、エッセイやレポートを書く訓練を受けず、断片的な知識を覚えているかを確認するテストで評価されます。過去問で訓練をした成果が問われます。考える訓練を何一つ受けていない、低レベルの労働者ばかりが居る国です。

 

日本では、特殊な仕事を除いて、要点をまとめても誰も感謝しません。無駄な情報がいっぱい詰まった、大量の成果物の方が有難みが在ります。質より量です。量が多いほど情報の価値は下がります。ノイズと同じです。量を少なくして、情報の価値を上げられる人間こそが有能なのです。

エントロピーが増えていく世界のなかで、エントロピーを少なくしようと試みるのが人間です。ところが日本人は混乱へと向かう事を厭いません。放って置くと、いつの間にか退化してしまうのが日本人なのです。

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