ヒトは基本的に狩猟採集民です。今でもその頃の性質を多く残しています。しかるに日本では、家畜として相応しい者が選択されて生き残ってきました。人為的に選択された奇形のような人々です。
狩猟採集民と聞くと、未開の地で槍を持って獣を追いかけている、原始的な人々を頭に思い浮かべるかもしれません。けれども狩猟採集こそが、ヒトをヒト足らしめたものなのです。狩猟採集には、高度の知性と仲間同士の協力関係が不可欠でした。
足跡や他の痕跡から、どんな獣が何時ここを通ったのかを推理します。獣を追い詰める際には、相手がどの方向に逃げたのか、どこで休むかを想像し、計画的に持久走を続け、相手が動けなくなった状態でとどめをさします。「持久狩猟」と呼ばれるものです。
植物を採集するにしても、どの季節に、何がどこで育つかを記憶しておき、それに応じて効率的にそれらを得るのです。
狩りにあたっては、横方向の平等な協力関係が必要です。獲物をとったら、家族だけでなく仲間にも分け与えます。自分が獲物をしとめられなかった際には食料を分けてもらうためです。しとめた肉を、全部自分で食ってしまうチンパンジーとは、そこが違います
こうして見ると、人間は「肉食か菜食か」という単純な二項対立では片付かないことが分かります。ヒトは雑食です。栄養を万遍なく摂るには、それしかありません。それが本来の人間の姿だったのです。狩人は人間として最も完成された姿なのです。
ところが日本人は、その対極にあります。家畜として選ばれた人たちです。ヒツジやブタと同じで、上下関係がはっきりとしています。従順で大人しい動物です。指導者に都合が良いように品種改良された人々です。常に誰かの世話や保護、指示を必要としています。彼らだけでは生きていけないのです。
島国で余所者の血を受け付けなかったため、島嶼矮化(とうしょわいか)も進んでいます。他と隔絶された孤島に住む動物に見られる現象で、エネルギーを節約するために、脳や体が小さくなっていくのです。
人間は、社会システムという一種の緩衝材、文化的な衣服を発達させて来ました。これにより、過酷な自然に直接対峙しなくても生きていけるようになったのです。ところが社会システムが崩壊しつつあるのが、今の日本です。
「お前らは何も考えなくていいから」と言われて育ってきたのに、「これからは自己責任だからな」と言われて外に放り出されてしまったのです。生きていける訳がありません。日本社会に適応すればするほど、人間ではなくなってしまいます。
家畜化された日本人は、次のような特徴を持っています。(1)猿真似が上手で、周囲に合わせる。(2)指導者に従順で、盛り立てる事がうまい。(ヨイショの精神) (3)皆と違う事をやっている人間を見つけたら、即座に叩き落す。
こういった性質を持つ人間が選ばれて、子孫を残してきたのです。今では、繁殖する事さえできなくなっています。醜い相手の姿を見て、お互いに「これは無いよな~」と心の中でつぶやき、一人で居ることを選びます。
ITやAIの進歩により、多くの仕事が機械にとって代わりました。「命令された通りに正確に動きます」などという人間に、存在価値は無くなったのです。
日本人は付加価値を生み出すことができません。スイスの時計会社の役員が、日本の時計会社を評してこう言ったことがあります。時計を作るには優れたデザイナーが一人いればいい。しかし彼らは集団でやろうとすると。しかも日本人は、協力しあうどころか、裏で足を引っ張りあいます。
優れた人間は常に「狩人」です。仲間と協力はしますが、基本は一人です。劣った者とは、狩人の特性を何一つ備えていないような人間です。
「優れた」「劣った」という言葉の使い方には注意が必要です。人間は自らを変えることができます。そのような自由意志があり、チャンスを何度も与えられながら変わろうとしなかった人間、それが「劣った」ヒトなのです。何らかの理由により、自由意志を制限されていたり、十分なチャンスを与えられなかったヒトではありません。
「優れた」ヒトとは、自由意志と機会を正しく利用して適応したヒトのことです。
家畜化された日本人に未来はあるのでしょうか。「ソイレント・グリーン」というSF映画がありました。人口が増え、食糧不足が普通となった近未来の地球において、人肉を加工して食料にするという寓話です。
ヒトであることをやめた日本人は、人間農場の家畜として過ごすのが相応しいのかもしれません。
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