kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本語からみる日本人の言語能力の限界

日本人の言葉の使い方を見ていくことで、彼らの思考様式を推測することができます。特に英語との比較によってです。日本人の多くは英語を苦手とします。例え英文を読むことはできても、書くのは不得手です。

 

それによって分かるのは、次のことです。主体的で自律的な思考の欠如。構造的かつ抽象的な思考能力の欠如。この2つです。根底にある原因のひとつとして、精緻な思考ができないというのがあります。それでは具体的な例を挙げながら見ていきましょう。

 

1)事実と主義主張の未分化

英文では、事実と自分の主張を明確に分けて表現します。「生魚を食べない」といった文でも、たまたま食べなかったのか、それとも自分は生魚を食べる習慣がないのか、どちらなのかが端的に伝わるようになっています。しかし日本だと「生魚は苦手で…」「お酒が弱くて…」といった表現になります。そもそもそんな事を言うことさえ憚られるのです。

 

2)状態と行動が未分化

英語だと状態動詞と動作動詞がはっきりとわかれています。しかし日本語の「〜ている」は現在進行形を表すと同時に、「私は〜社に属している」という「結果」や「属性」を表すのにも用いられます。自分の意思でもって、現在の行動を続けているのか、それとも、たまたま何かの結果で現在の状態に留まっているのかが不明なのです。

 

3)受け身の多用

日本人は受け身を多く使います。英文でも使いますが、あえてそれを述べる必要性が無い場合、または責任の所在を曖昧にする場合に使います。日本語で使う際には、責任を曖昧にする他に、「迷惑の受け身」のように、誰かに責任を押し付ける際によく使います。「妻に逃げられた(俺は悪くない)」「舐められた(いつか復讐してやる)」といった具合です。

 

4)事実と命令の混同

日本では「右折できません」といった標識が多くあります。これだと物理的に右に進めないのか、ルールとして右折が禁止されているのかが明確ではありません。couldなのか、shouldなのか、oughtなのかということです。

これは案外に重要な問題です。日本人は真善美でさえ、誰かが定めたルールだと思っています。もし「真善美」を口にしてしまうと、「綺麗事」「精神論」と冷笑されます。また「世の中にはいろいろな見方がある」などと言います。ルールに過ぎないのだから、偉い人が「こうだ」と言えば、真善美などは、如何様にでも変わると思いこんでいるのです。

 

5) 個人と集団の境が曖昧

「映画を観て楽しんだ」とは言わずに「楽しめた(楽しむことができた)」と言います。日本人はこういった表現では、個から離れて、いきなり客観的な視点になってしまうのです。「(無邪気に)楽しんだ」と言ってしまっては、「なんだ、そんな事で喜んだのか」と思われかねませんから。

 

6)時間軸の欠如

日本人は時系列で物事を考えるのが不得手です。過去も未来もありません。失敗してもそこから学べません。日本語には時制の一致という考えもありません。視点もくるくると変わり、自分の意見なのか事実なのか、言われた事を鵜呑みにして喋っているのかが分かりません。

英語だと自分が身につけた能力を示すcouldと、たまたま出来たことを示す、be able toを使い分けます。ところが日本人は、見せかけの謙遜のために、常に「たまたま可能でした」という意味合いで「〜することができました」などと言います。

さらに「過去のある時期に~という経験を有していた」というような、階層構造を持つ過去完了形を苦手としています。

 

7)仮説を立てることができない

日本人は事実、不明(事実はわからないが、もし〜だったら、〜だろう)、そして仮定という3つの使い分けができません。特に仮定法を使うという習慣がほとんど無いのです。「もし〜であったとしたら、〜であっただろう」という言い方です。

例えば、映画「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」で、コミカルなシーンがありました。ハリソン・フォードスコットランド人に扮して、城に潜り込もうとします。ところが気取った執事が現れ、「もし君がスコットランド人だったとしたら、私はミ○キーマウスだ」と言うのです。日本人はこういった台詞でクスリと笑うことができません。奇妙な顔をして押し黙るだけです。その時の翻訳も確か「スコットランド貴族とはお笑い草だ」というようなものだったと思います。

日本語で仮定法を使った台詞を思い浮かべようとして、こんなものを思い出しました。小説「翔ぶが如く」で、桐野利秋が「もし俺に学があったら、天下をとっちょる」と語る場面です。恐らく多くの日本人はこれを聞いて、悔し紛れの尊大な言い方だと思ったのではないでしょうか。「たらればの話」というのは悪い意味で使われます。

日本語では「まるで〜のように」という明喩もあまり使われません。どちらかというと他人を蔑む目的で使われます。書き手も抵抗があるのでないでしょうか。「正解」がなく書き手の主観になってしまうからです。及び腰になり、使うのをためらいます。かといって、暗喩を使ってしまうと読者に理解すらされません。

 

8)構造の欠如

日本人の文章には構造的なものが欠けています。散文やエッセイであってもある程度の構造は必要です。

日本人は、どうでも良い分かりきった話から初めます。役所の文章でも「日本において太宗を占める〜」といった、意味が無く仰々しい書き方を見かけます。

さらに、日本語の文章には接続詞が少なく、パラグラフ同士の関係が分かりません。

また最後には、とってつけたように、読み手が期待していただろう無難な「正解」を自分の意見として付け加えます。

日本人が書く文章には中身が無いだけでなく、文としての面白みにも欠けます。飽きてしまいます。述べるべき内容が無いのなら、せめて、面白くなるように工夫すべきでしょう。

さらに辟易するのは、公の場での日本人の質問の仕方です。「どこの組織に所属しているどういう立場の者か」という自己紹介から始まり、尊大な演説のような話に移ります。話が異常に長く、何がポイントなのかさっぱり分かりません。そうして唐突に終わります。

「俺も一角の人物だぞ」という、皆の目を意識したパフォーマンスです。しかし質問という形をとっているので、訳の分からない話の中から、相手の意図を察して答えなければならないのです。頭が弱いのは治らないと思いますが、せめて謙虚さだけは身につけて欲しいものです。

 

以上、書いてきたことを再びまとめると、日本人の頭の混乱ぶりが明確になります。

主体的で自律的な思考ができないため、個人としての意見がありません。自分で物事を判断できないので、事実とルールの混同が見られます。いちいち御用学者や有識者に「正解」を教えてもらわないと「自分の意見」さえ持てません。

以前に視聴した政治討論会で、学生による質問コーナーのようなものがありました。御用学者がもっともらしい出鱈目を語り、学生は神妙な顔で聞き入っています。彼らはこれを「模範解答」だと頭に刻みつけ、「今日はありがたい話を聞いた」と感じ入りながら家に帰って行ったのです。

いちいち「先生」から説明を受けたり、解説を聞かないと、何も頭に思い浮かべられないのが日本人なのです。

 

構造的で抽象的な思考もできません。時系列が混乱しており、因果関係を掴むことができないのです。過去を振り返り、仮説を立て、未来を予測することができません。

頭の中が階層的、構造的になっておらず、客観的な事実から法則を見出し、その上で仮説を立てるというピラミッドのような階層構造が頭の中にないのです。

世界の文明国は、巨大で構造的にしっかりとした石組みの建築物を造ってきましたが、日本人には不可能でした。日本に残っている木造建築や銅像でさえ、帰化人や外国人のおかげです。

抽象的な構造を思い浮かべることができないので、日本人はまともな神話を作り上げることさえできませんでした。

神という存在を仮定することにより、絶対軸を持つ思考が可能になるのです。要素還元主義的な考えもいいですが、二元論のように理想を頭に描くのは、社会をより良いものにするうえで有益なのです。

父性を持った絶対神や、母性を備えたマリアといった存在は、人間崇拝に陥るのを防いでくれたのです。現状を容認せず、改革によって新たな社会を生み出す原動力ともなったのです。

 

最後に、これらの基底にある根本原因として、思考における粒度の粗さが挙げられます。道具として、日本語の精度が極めて悪いために、上述したような思考を遂行することが困難なのです。例えば英語だと「どちらかは不明だが〜かもしれない」「〜という可能性がある」「たぶん〜だろう」「おそらく〜に違いない」という違いを、それぞれ一言で表すことができます。

 

しかしながら日本人は、右か左かという極端な考え方をするのが普通です。感情と論理の区別もつかず「俺の言うことが聞けないのなら出ていけ」という言い方もします。二元論であったとしても、その線上に無数の段階が存在することを理解しなければいけません。方向と量は別なのです。けれども、おおよその方向性しか掴めないのが日本人です。

 

日本人がこれほどまでに思考や言葉の使い方が拙いのは、左脳の発達が悪いからかもしれません。獣は左脳を、右脳と同じように空間認知を行うために使っています。左脳が徐々に音声を介した言語の理解に特化するようになったのが、人間なのです。

 

日本人は言語だけでなく、音楽に対するセンスも無い人達です。音に対して驚くほど鈍感です。駅で同時に流れる様々なメロディー、街で流れるスピーカーの音、遊技場での凄まじい騒音に対して、まったく何も感じていないかのようです。

数学や音楽にセンスが必要なように、言葉を扱うのにもセンスが必要です。日本人には、これが欠けています。他人に対する思いやりも欠けています。だから非常識な失言をいつまでも繰り返し、謝罪をしたり仕事を失ったりしています。

 

「動物」に近い存在だが、かろうじて言葉を喋るというのが日本人です。次のような敗戦時の笑い話があります。占領軍がやってきたときに、英語を使い慣れた大蔵省は解体を免れましたが、そうではなかった内務省は解体されてしまったというのです。

 

いくつかの企業で始まっているように、社内公用語を英語にすることにより、こうしたレベルの低い日本人を排除していくことができるでしょう。

 


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自分の身分に甘んじる日本人

日本の社会には流動性がありません。身の程をわきまえ、与えられた地位に満足して生きるのが日本人なのです。現状を保つためならば、あらゆる犠牲をも厭いません。未来は眼中にありません。こうして衰退へと向かっているのです。

 

メインフレームスパコンを作っていた工場でのことです。東大や京大を含む旧帝大系の数学科出身者が多くいました。しかし彼らは傍流です。課長までは出世し、運が良ければ部長にもなれるでしょう。しかし上まで行けるのは東大工学部だけでした。その頃は、社長はおろか、役員でさえも東大工学部出身者だけで占められていた時代だったのです。

それは彼らも分かっていましたが、それほど責任もなく出世競争もない今の地位に甘んじているような所がありました。部署ごとに学閥があり、そこに入れば身分も約束されるのです。

 

会社内での身分制度は厳格です。末端の技術者として、高卒も大量に採用されていました。しかしながら彼らは、管理職にはなれないのです。唯一の方法として、会社が運営している学校を卒業できると「准大卒」と看做され、定年間際に課長になることができきました。しかし入学するには試験を受ける必要があり、上長の推薦も必要です。簡単ではありません。

入社時に出世の上限が決められており、それを超えて出世することは非常に困難だったのです。

 

そういった実際の身分制度とは、別なところで誇る人もいます。例えば職場で、御三家の末裔という人がいました。それはいいのですが、事あるごとにそれを口に出します。初対面の人だけでなく、いつも一緒に居る人達にまでです。返す言葉も見つからず、ただ「すごいですね」としか言いようがありません。その他にも、中世の合戦で、敵の的を見事に射落とした侍の子孫だという人もいました。

高卒の人達も、謙虚というよりは態度が高慢でした。彼らの楽しみは、大卒の新入社員をいたぶる事です。ある人は後で「実は夜間大学に通っている」と打ち明けました。「もっと大きな企業に転職して皆を見返してやる」「今の彼女よりもっと良いオンナを手に入れる」。これが彼の夢だったのです。しかし酒に酔うと暴れだします。「そんな事は不可能だ」と彼自身がよく分かっていたのです。

 

上意下達がはっきりしている社会は、ある意味、居心地がいいものです。金融関係はそういった雰囲気があります。部長以上は名誉職です。天下りもいらっしゃいます。すべてが予定調和で流れていきます。心地よいと感じるくらいです。安定した身分も含めて、何の心配もする必要がなかったのです。もし失敗をしても個人の責任にはなりません。年功序列で順調に出世していきます。報道されてしまうような大失態や刑事罰でも受けなければ大丈夫です。外の世界は知ったことではありません。組織は不滅で、永遠にこの状態が続くような気がしてくるのです。

 

こういった社会において異を唱えると、「皆で上を盛り立てているのに、なぜ水を差すのか」という雰囲気になります。影に日向にお互いをかばい合えば、困ったときには助けてくれます。麗しき互助精神があります。見えない「貸し借り」の関係があります。そのためには常に空気を読むことが必要です。目立たないように気をつけるのが大事です。悪く目立ってしまうと、和を乱した者として厳しい処罰が待っています。

 

このような常に抑圧されている社会では、息抜きが必須です。そのために弱者が必要です。心のバランスを保つために弱者を攻撃します。最下層の人達の不満は外国人へと向かいます。

だから、誰を攻撃しているかを見るだけで、その人が心理的にどういうポジションにいるのかを判別することができます。

 

日本人が理想とする平和とは、厳しい上下関係の中でそれぞれが自分の分をわきまえる状態を指します。速やかに上下関係を作り、それを保持し続けること、これこそが優秀な日本人というものです。そのためには犠牲が必要です。弱者は、社会の矛盾や歪みから来る様々なツケを払わなければいけないのです。そしてそれが当然のこととされます。

首長(くびちょう)は、弱者を叩けば叩くほど、民衆の人気を得ることができます。日本人は想像力が足りません。過去や未来を考えることができないのです。生まれてから死ぬまでの間に、いつ何時、病気に罹ったり障がい者となって、社会保障を必要とするか分からないのにです。

 

また彼らは、個人と集団との境界も曖昧です。「個」が確立されていないのに、プライドだけは高い人達です。そのために権威と自分を同一視します。弱者がくたばっても「世の中、こんなものだ」と斜に構えて平静を装っています。

独り言を言っているだけなら良いのですが、そうではありません。彼らは他人に迷惑をかけるのです。頼れる真の友人やメンターを持っていません。孤独です。それでいて幼児のように依存心が強いのです。彼らは他人の歓心を買いたくてたまりません。

相手を喜ばせるような方法ならまだしも、攻撃することで注意をひこうと試みることもあります。しつこく他人にまとわりつきます。究極の「かまってちゃん」です。

 

そうしてサラリーマン時代にしていたように、周囲を注意深く観察しています。誰かが出過ぎた真似をしていないかを監視しているのです。何かあれば密告や通報をします。日本は相互監視社会です。「日本は最も精巧に作られたエスピオナージシステムである」と外国の学者が徳川幕府について書いたことがあります。 上からの圧力だけでなく、末端の人々に至るまでが、厳格な身分社会を維持しようと努めているのです。

 

それでいて国や社会が行き詰まってしまうと、一か八かの賭けに出ます。東條英機は「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言って開戦に臨みました。国民すべてが、誇大妄想的な万能感に支えられているので無敵です。自信満々に間違ったことを言うのが日本人です。初めからプランが無ければ「間違った」と後悔することもありません。国全体が滑稽なドン・キホーテを演じています。

 

日本の政治は、必要悪としての政治ではなく、また理想の政治を目指しているのでもありません。ただ単に、上の者の欲望を都合よく具現化したものに過ぎないのです。

日本の社会では、倫理と権力が入り混じっています。両者が分離されていません。善悪と強弱は関係ないのです。これが、教育にも悪い影響を与えています。文明国としての体を保つための教育制度に、暴力が組み込まれています。このシステムから日本人は「強者の論理」と「形式主義」を学ぶのです。

「権威ある者との一体化」、これこそが日本人の動機となっています。こうした動機を強く持つ者しか、上の階層に行くことができません。「法の支配」などは必要ありません。彼らにとって法律とは、権威や序列を維持するための、ただの仕掛けに過ぎません。実態を糊塗する見せかけに過ぎないのです。答弁において、表面的でもっともらしい説明をするのと同じです。

 

日本人と付き合っていると、事あるごとに優越意識や対抗意識を見せつけられます。それも権威や組織を盾にしてです。心底うんざりです。

日本の高級官僚は「あるべき姿」への執着が強いところがあります。理想の日本を築くためには、何でも犠牲にするのです。そのために他国からは、非常に侵略的な性質を持っているように見えます。事実その通りです。

彼らを下で支える軍隊的な階層型組織もあります。下の者は考えることも許されず、言われるがままに長時間労働を行います。彼らの滅私奉公も相まって、日本全体として、途方も無いパワーを発揮するのです。気づいた頃には誰もコントロールができなくなっています。彼らは状況も見ずに猪突猛進し、全てを無慈悲に破壊し尽くす厄介なカルト集団となっているのです。

 

ある政治学者は、日本人の本質を「無法者」と見抜きました。表面をいくら近代化したところで、日本人の本質は変わりません。

昔のように、小さな集団同士でいさかいを起し、略奪したり、強姦したり、首を狩ったりする生活こそが日本人には合っています。裏表がない本音だけの世界です。ある意味、生きやすい世界だと言えるでしょう。

 

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統制経済が行き詰まった日本

日本の経済は行き詰まっています。国家主導による経済が成り立たなくなったからです。これを解決するには、国民主導による経済を育てていくしかありません。

 

日本は明治維新によって、初めて、中央集権の統一国家となりました。その一方で自由主義的な経済も発展していきました。太平洋戦争前は、強力な資本家が存在したのです。彼らは今のように、銀行から融資を受けるのではなく、市場でカネを調達していました。広大な土地と、数千人にのぼる小作人を抱える地方地主も存在しました。終身雇用は一般的ではなく、数年で仕事を変えていく人も多かったのです。

 

それが太平洋戦争によって変わりました。大企業も国の支配を受けるようになったのです。企業は、政府の意向を受けた銀行による融資によって、カネを調達するようになりました。今の大企業のほとんどが、その時の庇護を受けた企業です。純粋な戦後生まれの大企業は、ソニーとホンダしかありません。

 

戦争が終わると財閥のオーナーは追放され、小作人は解放されました。都内で借地住まいだった人は土地を得ることができました。こうして日本は、「世界で最も成功した社会主義国家」への道を歩み始めたのです。

 

戦後日本経済は、なぜ成功したのでしょうか。資源もなく戦争にも負けたのに成功したのです。何かが犠牲になったはずです。

戦争が終わった後にハイパーインフレーションが発生しました。国の債務は帳消しになりました。代わりに金融資産を持っていた財閥オーナー、地方地主、華族の資産の価値が目減りし、国家へ富が移転したのです。国は、再び莫大なカネを使えるようになりました。

さらに、経営者団体や、御用学者・有識者、メデイアが積極的に国に協力するようになったのです。そのうえ、土地を得た小作人や市民は、保守政党の安定した支持基盤となりました。

地方農家の次男坊、三男坊などが都会に出てきて、労働者となりました。こうして莫大なカネと、政府の言いなりで動く、銀行、大企業、有識者、メディア、労働者が手に入ったのです。

 

ヒトとカネは手に入りました。あとはモノです。「傾斜生産方式」により、石炭や鉄鋼などの、政府が重要と考える企業に、重点的にカネを投入したのです。計画経済により日本経済は順調に発展していきました。

主な分野は、輸出型重厚産業と、大量生産による組み立て産業です。石油ショックにより、奇しくも日本の小型車が売れるようになり、自動車産業は、日本経済の中心となりました。彼らは利益より量を重視する人々でした。市場の拡大こそが利益を得る方法でした。「大量に作って大量に売る」という仕組みが上手くいった時代だったのです。

しかしそんな彼らも、1990年代の、インターネット革命の時代に付いていく事ができなかったのです。

 

日本は産業基盤の構築には力を入れましたが、生活基盤については、ずっと手を抜いてきました。庶民が使う、電気、ガス、水道などのインフラは後回しにしても、大企業は発展します。ところが、庶民の生活に密着する部分でのデジタル化が進まなければ、これからの発展は見込めないのです。

インターネット回線は普及しています。田舎でもスマホは使えますし、光回線も利用できます。しかし庶民の生活に密着したデジタル化は進んでいるでしょうか。

 

役所への申請は、膨大な紙の資料が必要で、手書きで項目を埋めたうえ、証明書のコピーを貼り付け、それを郵送しなければいけないのです。手続きが1回で済めばいいほうです。しかもセキュリティはお粗末です。普段の買い物において、クレジットカードや電子マネーは利用できるようになりましたが、未だに現金が必要な場面があります。

 

大企業が単独でデジタル化を進めても、何の意味もありません。それも部署ごとの縦割りです。さらに彼らがやっているのは、デジタル化でさえなく、表面的な「なんちゃってIT化」なのです。デジタル庁が新設され、どんな会社にもデジタル推進部署がありますが、「やっている感」だけを醸し出しています。

 

現代は、国民のITリテラシーを高め、日常生活に密着する部分でのIT化を進めることによって、GAFMAのような企業が莫大な利益を得る世界なのです。5Gを整備して「ハイ、終わり」ではないのです。

国民を置いてけぼりにして、デジタル化、IT化を進めるなんて意味がありません。根本から間違えているのです。

 

役人はどうしても、まずは大企業にカネを回し、そこから、従業員や下請け企業にカネが回っていくという考えしかできません。カネを融資しても、補助金を渡しても、無駄なのです。企業は中抜きをしてカネを溜め込むだけです。まるで底の抜けたバケツです。末端にカネは回らず、富の分配が上手くいっていません。

 

現代は、ごく少数の天才によって経済がドラスティックに動く世界です。消費者は馬鹿でもいいのです。バカでもいいから、きちんと消費する「消費者」を育成しなければいけません。日本人は臆病なだけでなく、生活に余裕がありません。それでいて投機やギャンブルにうつつを抜かしている最低の連中です。

 

国内需要がないのに、その国が発展することなど有りえません。当たり前です。それでは、日本が、外国からの投資や労働者を歓迎しているかと言えば、それと全く逆のことをしているのです。

国民を貧乏にして日本を安売りしてきた結果、日本は大変な状況に陥っています。円の購買力は低下し、食料や半導体の調達でさえ買い負けてしまっています。

 

日本を、本来の自由主義経済国家に戻す必要があります。「株主資本主義からの脱却」など、時代に逆行しています。それは、今まで以上の経済統制、金融統制を敷こうという試みです。

大企業も官を当てにしすぎです。乳幼児のように国にしがみついています。融資を求めて官のご意向を伺います。何かあれば主務省に呼び出されてネチネチと嫌味を言われ、子供のように小さくなって話を聞いています。

個々の役人も、個人として語る場合には、他国や他人をよくバカにしています。しかしながら、国全体の政策においては結果を出せていない人達です。

 

日本の企業は、補助金や銀行からの融資を当てにするのではなく、市場からカネを調達すべきなのです。間接金融から、直接金融へということです。

そうすれば株価は自然に上がっていくことでしょう。土地や虚業に流れていたカネが株式市場に戻ってきます。株を買うのは投機ではなく、投資になります。

 

何より、国民の日々の生活に、未来が感じられることが大切です。そのためには生活基盤への莫大な投資が必要です。大企業にカネをバラまくのではありません。

 

しかし役人にそれが出来るでしょうか。自らの既得権益を削り、経済への介入を抑え、末端の国民のための政策を実行するということです。今までとは真逆です。

そういった気概を持った人間が、この国にいるでしょうか。

とはいえ、誰かが「官の見えざる手」を排除しなければいけないのです。

 

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自動車業界に待ち受ける未来 −移動の革命−

自動車業界で現在起きているのは、移動の革命です。これを単に電気自動車や自動運転、空飛ぶクルマなどのバズワードで捉えてしまうと、未来を見誤ります。

 

通信における革命はインターネットから始まり、我々のライフスタイルを変えてしまいました。移動の革命も我々の生活を一変させることになるでしょう。

クルマはコモディティ化がさらに進み、低価格で利用できるようになります。所有という概念さえ無くなるでしょう。あまりにも当たり前の存在となり、耐久消費財として生活の中に占める割合も小さくなります。

趣味性の高いガソリン車は残ります。しかし僅かです。お金を持っている人が乗馬を楽しむようなものです。粗雑なガソリン車も、インフラの整備されていない貧困国や戦場で、引き続き利用されることでしょう。

 

もう少し経てば、自動運転は当たり前になります。無人のコミューターが幹線道路を流れ、タクシーのように簡単に利用ができるようになります。予約も呼び出しも簡単です。1人乗りや2人乗り、4人乗りなどのいくつかのタイプから選ぶことができるようになるでしょう。当然、物流専用車も走っています。

 

個々のクルマは他のクルマと連動するだけでなく、システムによって全体的に制御されます。交通事故が劇的に減るので、さまざまな安全装置が不要になります。車体も電車のようにペラペラな金属や樹脂で作られるようになるでしょう。車重はより軽くなり、製造や維持コストも低減されます。必要な電力も少なくなります。予測不可能な渋滞も解消されるでしょう。クルマは安価な料金で共有できます。所得の低い人や障がい者も気軽に移動できる世界が到来するのです。

 

豪華な装備を備えた高級車は、少なくなるでしょう。フェラーリランボルギーニといったブランドは生き残ります。その他のメーカーは、製造メーカーではなく交通システムを提供するプラットフォーマーへと姿を変えます。

大衆用のクルマを大量に作っているメーカーには未来がありません。安価なデジタル時計を作っているメーカーと同じようなものです。一方でパガーニが作るようなクルマは、エンジンもメーターも全て熟練職人による手作りです。富裕層向けの芸術品です。こういった特別なクルマは、僅かですが需要があるのです。

 

未来を制するのはメーカーではなく、プラットフォーマーです。すべてのコミューターを制御するシステム基盤を、自分で構築し提供できる企業です。しかしながら、こういったプラットフォームの構築は、日本人がもっとも不得意とするものです。

 

ケータイがスマホに一掃されてしまったように、従来の自動車メーカーも一掃されます。単にクルマだけを作っているメーカーは、末端の製造業者として生き残ることができます。ただし、プラットフォームを利用させてもらう為に、高額なライセンス料を払わないといけません。

安いけれど機能盛り沢山のケータイとか、安価で多機能を誇るデジタル時計には、何の魅力もありません。同じように、「安いけれども品質がいいです」「ちょっと速いです」などというクルマの需要は無くなるのです。

 

たぶん、日本のメーカーはガソリン車に固執することでしょう。世界の国々が着々とプラットフォームを構築し、インフラを整備する一方で、日本だけがガラパゴス化するのです。

二酸化炭素の削減をと言いながら、二酸化炭素を排出し続けます。庶民は相変わらず不便なガソリン車を購入し、高いガソリン代を払って移動しなければならないのです。彼らはそもそも、なぜ人類が二酸化炭素の排出を抑えようとしているのか、その文脈を理解しているのでしょうか。同じ電気自動車を作るにしても、仕方なくではなく、使命感を持ってやらねば良い結果を生み出せません。

世の中の動きが急すぎると感じているかもしれませんが、このくらいの速度で変革を成し遂げなければ、人類の未来が危うくなるのです。「電池を生産するとかえって二酸化炭素が…」などとゴネている場合ではありません。いつまでも石油に頼るわけにはいかないのです。

 

振り返れば確かに、趣味としてのクルマは楽しいものでした。日本が好景気だった頃は、ポルシェも飛ぶように売れました。目黒のお店では、現金の入った紙袋を抱えた人々が列をなしていたのです。新車だけでは需要に追いつかないので、海外からの中古並行も多く入ってきました。

高性能車をさらにチューニングする人もいました。その頃、谷田部にあった周回路で、実測300km/h以上を計測したクルマが何台もあったのです。

その当時でもカタログ上で300kmを唄うクルマはありましたが、実際にはそんなに出るものではありませんでした。例えばメーター上は280kmあたりを示していても、メーターの誤差や10%のスリップロスを考えると、せいぜい240kmくらいしか出ていないのです。

時間は貴重です。早く目的地に着くのなら電気自動車でも全然構いません。ガソリン車の魅力といっても、振動として伝わってくるエンジンのリズムとか、焼けたオイルの匂いとか、排気音ぐらいしかないのです。道具として優れていれば結構です。更に自動運転ならば、ラクな上に安全です。

虚栄心を満たすモノの価値というのは、あとからついてくるのです。

 

日本では、自動車も随分高くなりました。軽自動車でさえ必要なオプションを付けると乗り出し価格で200万円弱です。重量税や保険があり、数年で車検が必要です。もはや日本のメーカーは安くて性能の良いガソリン車を提供することもできないのです。

日本が最も豊かだった頃は、庶民でも、高性能の日本製スポーツカーが買えました。高速域は別ですが、これらのクルマは、その頃のフェラーリやポルシェのカレラよりも速いことがあったのです。

とはいえ、高性能を謳っていても、日本メーカーの高級ブランド化はついに叶いませんでした。速いスポーツカーも「カルトカー」扱いです。ヲタクや労働者階級の人々が乗るクルマです。初期の「ワイルド・スピード」シリーズで描かれているようにです。

さらにその頃であっても、ポルシェターボだけは別格でした。地点Aから地点Bまで、可能な限り速く移動するための道具です。超高速で数時間巡航することが可能で、中間加速が鋭く、安心感のあるブレーキを備えていました。ブーストアップだけでさらに速くなりますが、それに耐えうる余裕がありました。日本車だと、ブレーキシステムを強化したり、大型のインタークーラーに替えたり、車体剛性を補強したりといった事をしないと安心できないのです。フラッグシップでさえ、この有様です。

 

日本製品には余裕が無いので、何か突出した性能を得ようとすると、必ず何処かが犠牲になるのです。かって、日本の戦闘機は、機動力と航続性能に拘るあまり、防御力や機体の強度を犠牲にしました。危なくなったら急降下で逃げるのが常道ですが、日本の戦闘機でそれをやると、十分な速度が出ないだけでなく、空中分解する危険性もあったのです。

 

日本人は個々の性能を突き詰めていく事はできても、全体としてバランスのとれた製品を提供するのは苦手です。運用や交通システム全体を含めて設計するとなると絶望的です。常に全体を見据えながら、個々の部品を最適化するというのが出来ない人々なのです。

 

そもそも日本には、全体の構想を描く人がいません。それに投資してみようと思う人もいません。アイデアにカネを払おうと考える人がいないのです。人類の未来や全体像を見ていないのだから、当たり前です。さらに日本にはイノベーターも、アーリー・アダプターも存在しません。流行っているものを真似るだけです。

 

これからどうしたら良いのでしょうか。人々は今でも、役所には最高の叡智が集まっていると信じており、大企業も、官を仰いでいるような状況です。今は第二の敗戦というだけではなく、戦時中から始まった統制経済が行き詰まっているのです。もっと言うと明治維新からの官僚機構が機能しなくなっているのです。それだけに根が深く、改革は容易ではないのです。

 

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他人に依存しながら支配しようとする日本人 −個が確立されていない日本−

日本人は依存心が強い人々です。世界一冷たい人々と言われる日本人ですが、その一方で他人に寄りかかろうとするのが日本人なのです。

 

日本には厳しい掟が存在しています。世間のルールです。それを破るとネットでは炎上し、社会的生命を絶たれてしまう事もあります。ところがその一方で、何をやっても許される人々がいます。

 

「日本では老人と幼児は何をやっても許される」と指摘した人がいました。今でも当てはまります。例えば、フレックスの使用に厳しい会社でも「子どもが熱を出して」「子供を迎えにいかないと」と言えば、簡単に早退することができます。また老人は、どんな酷い事を言っても許されます。公園で遊んでいる子供たちを怒鳴りつけても許されます。

上に立つものと、下に位置する新参者だけは特別扱いを受けます。「外人」も来日した当初は特別扱いを受けます。「日本語がお上手ですね」と褒めてもらえます。「マレビト」は尊い存在です。一家の長と、一時的なお客様だけは特別なのです。

 

日本では支配という形を取りながらも、実は依存しているという事がよくあります。上位には、全てを周りがやってくれて、何もしなくて良いという人々がいます。逆に言えば、取り巻きがいなければ、何もできません。赤ん坊も同じです。全てにおいて世話になりながらも、泣くことによって周囲を支配しています。

 

日本の女性は、専業主婦を望む人が多いと言われています。風俗嬢でさえも、誰かいい人を見つけて安定した生活を送りたいと夢想しています。恋愛依存症と呼ばれることもありますが、孤独に耐えられずに寄生するのです。

女性にとっての結婚は、男性にとっての就職と同じです。上の階層に這い上がれるか、下の階層に転落するかが決まってしまうのです。変な相手と一緒になるより、親に寄生していた方がマシです。彼らにとっては、見栄としての結婚や幸せそうな家庭、見栄としての家と子供があるだけです。

 

サラリーマンも同じです。大学で身につけた能力を企業に売り込むのではありません。自分という全存在をさらけ出し、体を買ってもらうのです。能力ではなく、学歴から判断される基礎的な能力や、素直さ、従順さを備えているかが大切です。

こうして40年に渡る奴隷生活が始まります。60歳辺りで、ようやく自分自身を買い戻す事ができるのです。けれども奴隷生活が身についているので、自由な生活とは何かが分かりません。

ほとんどの日本人は「誰かに決めて欲しい。自分で考えるのは嫌だ」と感じています。DNAに奴隷根性が刻み込まれているかのようです。

 

相手を侮辱しながらも、その相手にすがろうとするのが日本人です。しかも傲慢な態度でです。コンビニにおける老齢者の横暴を見てください。

自分の子供が家庭を持ち、孫が出来ると、食事の残り物や贈り物を持っていきます。頼まれてもいないのにです。これも依存ですが、支配という形を取ります。思いやりは感じられず、態度は傲慢です。

 

電車の中で老人同士が話をしていました。兄妹のようです。弟の1周忌に行こうとしており、寡夫となった義妹の悪口を言っています。「普通、墓参りに行くっていったら『泊まっていってください』って言うよな! 俺の実家だぞ」「あの女は昔から掃除なんかしやしない。汚いに決まってる。泊まらない方がいいよ」と盛り上がっています。

ベタベタとした関係を求め、それが受け入れられないとなると、途端に憎みだすのが日本人の特徴です。

 

「火事に気をつけて」という簡単な発言でさえも、日本人の歪んだ心を表しています。火事に気をつけるのは当たり前です。そんな当たり前な事をわざわざ言って、相手より上位に立とうとするのが日本人です。

タテ方向の関係はあっても、横方向の繋がりが無いのが日本人です。ですから、このような「上か下か」という歪な形で、人とつながろうとするのです。

 

日本人は、無限の愛を求めます。無条件に愛されるというのは、赤子だけが許されることです。あるいは神だけが、そういった愛を与えてくれるでしょう。しかしながら日本人は、無限の愛を周りから得ようとしています。何をやっても許される存在です。

 

どういったメカニズムが日本人を動かしているのでしょうか。今では「義理と人情」「罪と恥」という言葉は使われなくなりました。しかし、こういった言葉は消えても、その意味するところが消えて無くなったわけではありません。

 

「義理」とは言いませんが、日本人は世間のルールに敏感です。「人情」とは言いませんが、「絆」や「つながり」「一緒に頑張ろう」という言葉を発します。そして無条件の賛同を求めてきます。そうしないと苛烈な攻撃を開始するのです。

「マウンティング」という支配の形をとってくることもあります。彼らは理屈抜きで、自分を誰かに受け入れてもらいたいのです。「甘える」という言葉は使われなくなりましたが、確かに日本人は今でも「甘え」ています。

 

「罪」という言葉も法廷以外では使われません。「恥」という言葉も滅多に使われません。「恥」というのは、右脳における明確に意識されない動揺です。「罪」というのは、その動揺を左脳によって言語化したものです。

現代の日本においては、ネットで罵倒されるのが最大の屈辱です。しかし実際には、それで恥じ入ってはいないのです。反射的に言い返し、開き直ります。権力があればそれで済みます。しかし敵わないとみるや、土下座をして謝罪します。そこに理性的存在としての人間の尊厳は一切ありません。

結局のところ、日本人は退化しています。抽象的な「罪」を認識するどころか、恥じ入る感覚さえ失ってしまったのです。己を省みる事ができません。

 

「罪と恥」が心から消えた日本人は無敵です。もはや自身を縛るものは何もありません。組織にいる間は、そのルールに従って動きますが、それ以外ではやりたい放題です。

 

家長制度や家族そのものが崩壊し、先祖や尊いものに連なるという感覚も消えました。モラルの核を失い、下劣な欲望をむき出しにしています。そこに、近代が育んできた「個人」は全く存在しません。

 

日本人は頼れる多くのものを失いました。しかしそれでも日本人は、誰かに自分を買い取って貰わなければなりません。彼らは骨の髄まで奴隷と言えるでしょう。

「字幕を誤魔化せ」「数字を改ざんしろ」と言われれば進んで応じます。「○ね」と言われれば飛び降ります。上には媚びへつらい、下には威張り散らします。

 

彼らは人間ではありません。何より自身がそう考えていないのです。この国に人権という意識が無い理由です。

個人が無い社会は、究極の無責任社会です。ヒトという単位が無いのですから、責任の所在が明確になるはずがありません。公私混同もまかり通ります。国という分限さえもはっきりしません。放って置くと世界を飲み込もうとします。日本は、映画「AKIRA」のラストシーンように不気味な存在です。

 

抽象的思考を欠いた人間は、かくも酷いものとなり得るのです。彼らは絶対座標の中で自分の立ち位置を考えることができません。日本人が仮説を立てるのが不得手だったり、リスク管理ができなかったり、システム構築が苦手だったりするのは、全てここから来ています。日本人には言語教育が何より大事です。

 

この国では悪魔のような人間と、隷属する人間にはっきりと分かれます。彼らが自虐的に「この国は地獄だ」と語るゆえんです。

 

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