日本人は他人を「いじる」のが大好きです。それが人間的な交流のひとつだと思っているのです。
隣人を公衆の面前でからかったり、貶めたりして周囲の笑いをとり、集団の緊張を和らげ場を和ませているのだと考えています。TVでも芸人が他者に侮辱的な言葉を吐き、言われた方も心得たもので、卑屈に笑っているか、子供のような反応をしたりします。それがまた周囲の笑いを呼びます。「ブスキャラ」「デブキャラ」が登場し「彼らだってちゃんと集団の中で居場所を見つけることができるのだ」とTVは有難くも教えてくれます。日本人の行動規範はバラエティ番組のお笑い芸人です。
この国では、集団の中で弱者を見つけ出し、欠点をみんなの前であげつらって、成員を笑わせる、それが目下の者への愛情であり、可愛がりの表現であってボスとしての務めなのです。先生が生徒に、生徒は生徒どうし、社会人は社会人の間で、老人達は老人同士で、こんな事がコミュニティの中で死ぬまで続くのです。
どこでも上下関係を作りたがるのが日本人ですから、新人が集団に受け入れられるには、腹を見せる犬のように、自ら弱点を曝け出し、「いじってもらう」事が必要です。この国では親身になって相談出来る相手は基本的にはおらず、話した内容は全てからかいの種とされてしまいます。相手の反応にしても「そんな事無いよ、大丈夫だよ」と空疎な励ましをしたり、「バカだなあ、そんな事で悩んでいたのか、気のせいだよ」と笑い飛ばすぐらいしかできません。「君はひとりじゃない」「私達は味方だから何でも相談して欲しい」などと言いながら、巧みにカモを集団の中に招き入れます。
社会に出て、30歳前後で課長、そして部長となり、大きなプロジェクトを任されるが躓き、眠っている時以外は四六時中仕事の事が思い浮かぶようになり40代半ばで自殺、死んだ後に残ったものは「失敗した男」という汚名だけです。人々は気配りや同情、常識を持った人を装いながらも死んだ人間の悪口を言い始めます。
さすがに多くの人は「簡単に他人は信用できない」と早々に学び、警戒し、よそよそしい態度をとり、ちょっとでも違和感がある人とは無関係を装ったり、距離を置こうとしますが、見た目の良い詐欺師がニコニコと近づいて来るとコロリと騙されたりしています。TVは「詐欺被害に遭わないで!(お前らのカネは俺逹が頂くのだから)」と親切に教えてくれていますので、これからも気をつけて模範的な国民となるよう日本人は心がけなければいけません。
こんな人達なので、他人が頑張っている時には、応援するのではなく、それを腐したりぶち壊そうとします。いじるのも、虐めるのも、暴力を振るうのも、この国では「目をかけてやったのだから、ありがたく思え」なのです。最終的には村八分や汚染地域での危険な重労働が待っているのだから、それよりはマシだろうというわけです。
日本人は「自分の人生を楽しくしよう」というポジティブな動機ではなく、他人への蔑みや、同調しない者への怒り、「あんな風になってはいけない」という不安をエネルギーとして生きています。自分の人生を良くする事だけに構っていれば良いのに、「他人に迷惑をかけるな」と上辺では言いつつ、どうしても他人と見比べ、自分より幸せにならないよう嫉妬深く監視し、ちょっかいを出さずにはいられません。
日本に居ると、人間というのは物にも劣るムシケラに過ぎず、人権は存在しないというのがよくわかります。「人権」などと声高に叫ぶ者は左巻きのおかしな野郎か、犯罪者の肩を持つ似非ヒューマニズムを標榜する奴と思われてしまいます。彼らにとって見れば、こういった人達は「お上に楯突く悪い奴ら」なのです。
日本人はよそよそしい振る舞いをする一方で、べたべたと妙に絡んできたりします。子供のような感情がベースにあり、人との関係の持ち方が未熟なのです。
しかしそれ以上は、人間として相手に関心は在りません。目障りにならず、自分の話を聞き相槌を打ってくれて、言われた通りに動いてくれれば良いのです。「怒る」「笑う」「泣く」などはあっても、「愛」などというものは日本人の心には全く存在しないのかも知れません。
以下は中島敦の「プウルの傍で」からです。
"激怒が再び彼の父を執(とら)えた。父は、その拳がいたくなる位、はげしく息子の頭を打った。打っている中に次第に病的な兇暴さが加ってくるのが、打(ぶ)たれている三造にまで感じられた。”
"新しい母は、あっけにとられて、止(と)めるのも忘れていた。老いた女中も同様であった。猫は庭に逃出し、妹は涙を浮かべてふるえていた。"
"これでも、父はいつものように、「親が子を叱るのは、子を愛するからだ。」といえる積りであろうか。自分の感情にまけて子を打つのではない、と、いえる積りであろうか。そして、それから、大分経(た)って、やっと彼の心の中に、「親子という関係の前には、如何なる人格も無視される」という事実に対する純粋な憤りが徐々に湧いてくるのであった。"