人にはそれぞれ持っている器があります。その器以上に努力をするのは無駄なことです。
学校教育を受ける事が、将来の安定に繋がったり、階級を上がる手段の一つと成り得た間は良かったのですが、未だに、己の記憶容量や処理能力の限界を省みることもせず、ひたすら暗記に勤しみ、パターン認識能力を高める努力を続けるというのは愚かな事です。記憶力に優れ、速く正確に事務処理をこなす能力は、雑兵としては使い勝手が良いですが、登り詰められなければ、いずれは使い捨てられる消耗品です。
余裕があるのであれば、勉学や読書に励むのは悪いことではなく、自分で考える余地がどこかにあれば良いのです。もし生きていくのに、考える必要さえ無い立場であるならば、それはある意味特権と言えるかもしれません。
日本の子供は教える側の話を、実によく集中して聞いています。質問すると言葉通り覚えてもいます。一言も漏らさず頭に入れておこうと彼らなりに必死なのです。しかし理解はしていません。「そういうものなんだ」とただ記憶すれば良いと思っているのです。試験が終わると覚えた事を忘れようとさえします。多くの日本人はこういった事を繰り返しながら大人になっていくのです。
そして所謂「社会人」になり30代になると、彼らは「記憶力が悪くなった」と嘆いたりします。理解して覚えるのではなく、読んだこと、言われたことを脈略なく覚えておく記憶力は、確かに急速に衰えていきます。単なる暗記マシンとしてなら、早晩、存在価値は無くなります。
仕事を続けていても、彼らの能力が高まるという事は普通はありません。上からの命令に従い余計な事はせず、要領よく手を抜き、上司や同僚との関係を上手く調整し、客を出し抜いて如何に金を儲けるかという事が何よりも大事だからです。その一方で、日本では専門的な知識やスキルの価値は低く、実際に物を作る仕事は、多くは社会階層の底辺に位置するものであり、下請けの業者に発注するようなものに過ぎません。
日本人は上辺を綺麗に糊塗し、狡猾に物事を進める事にだけは長けています。彼らは幼い頃より要領よく嘘をつくことを覚えます。先生や親の言うことに表面だけは従う振りをして、裏では好き勝手な事をやれば良いのだと直ぐに気付くのです。
日本の社会では、巧みに嘘をつく人は「頭が良くて他人を気遣う人」と言われますが、すぐにバレるような嘘しかつけない人は「嘘つき」と非難されます。そして真っ正直に生きている人は「バカ」と蔑まれます。
もし「利口」というのが上のような理解なのであれば、引き続き、今のように生きていくのが最善でしょう。