人は生きている間、常に問題を解決していくことが求められます。
その為に人々は、複雑な思考を、意識するかどうかは別にして、行っています。考える際には大きく分けて、感覚や感情を主体にして考える場合と、記号を主体にして考える場合があります。
頭の中にありありと立体や抽象化されたモデルを思い浮かべて、それを回転させたり、動かしたりする、あるいは音の並びを組み合わせて音楽を構築する、さらには感情をイメージし、こういった行動をするとどういった反応が返ってくるかなどと想像する場合と、人間だけが持つと思われる言語や数学などの道具を使って考える場合とがあります。これら両方をそれぞれに適した所で用いる事によって人は複雑な事を成し遂げられます。
頭の中で再生したり作られたりする感覚のイメージの精度には個人差があり、おのずと上限は決まってきます。同じように言葉という道具の精度によっても考えられる範囲が決まってきます。論理的な思考を試みようとする際に、我々が日常何気なく使っている不完全な言語だけに頼っていると、それだけ思考のレベルも限られてきます。
さて、問題の解決にあたり、まず人は理性的存在として、論理的に問題を解決する能力が求められます。すなわち、自分にとって矛盾を感じさせる状況に遭遇した場合に、それを筋道だてて解決することです。IQが高ければこの能力は高いはずですが、それに見合った「意志」が存在しなければ、その能力は可能性のまま発芽しないで終わってしまいます。
次に人は社会的存在として、感情的な問題を解決をしなければなりません。対人関係の問題等に巻き込まれたり、喪失感を抱くような場面に遭遇した時に、その葛藤を感情的に解消することです。感情はいくつかの要素から成り、それらが組み合わさって複雑な感情を生み出しています。感情を分析したり、感情の要素を統合する能力があれば、自身の問題を解決することが出来るだけでなく、人々の不可解な行動をも分析することができ、また他人の行動にも影響力を及ぼすことができます。カウンセリングや、カトリックの告解は他人の助けによってこれらの問題を解決するということです。
最後に、人はただ生きているだけでは満足せず、積極的に、この世界において何か事を成し遂げ、自身に価値を付加したいと望みます。例えば、お金を貯めたり、モノを収集したり、友人や仲間を増やしたり、何かのポイントを一生懸命に集めたり、SNS上で、イイネや人の称賛を集めるようなことです。自身の適性や環境に応じ、重要なことを成し遂げること、自分にとって利益になる物質、または、それを象徴するようなものを集めることで、自分の飢えを満たし、安心を得て、その延長線上に希望を築こうとするのです。
人々は解決すべき問題に日々追われ、多くは答えを見出せません。幸せに長寿を全うする人は、ほんの一部です。とはいえ、違和感があれば、問題をよく見極め、解決策を執拗に追い求め、必ずこれを捉え、直ちに処理しなければなりません。
人は自分を、何か価値のある存在であるかのように誤解する傾向がありますが、毎日糞を垂れ欲望に振り回されているような生き物が偉い筈はありません。「立派な人間になろう」などと思わないことです。しかし例え幻に過ぎなくても、理想があると仮定して、それに向かって努力するというのは大切なのです。社会生活を営み、家族があれば、「愛」という崇高なものがこの世に存在するという幻想にも、束の間ですが、浸ることができます。それによって自身も社会も安定するのです。