言うまでもなく日本では個性を殺して集団の一員となることが常に求められます。それを拒むものはアウトサイダーであり、あらゆる道を断たれ、日蔭者として生きていかなければなりません。
150年前に官僚独裁国家として生まれた大日本帝国は、効率的なシステムとして国全体を動かすために、末端の人々に至るまで、生きた機械の部品として組み込む必要がありました。
そのために個性を殺し、国民を均質化する必要があり、当時近代国家でも珍しかった国民皆教育が始まりました。よく訓練された忠実な兵士や労働者を作り上げると同時に、均一化が進むことにより、コミュニケーションが効率的になり、また部品としていくらでも取り換え可能な存在となります。
人において自由な意志力と想像力は限りないものであり、人が成長するための重要な要素です。しかし組織においては邪魔なものです。意志の力と想像力を削ぐには、集団のなかで徹底的に抑圧することが効果的です。人間の精神力の可能性は、過酷な環境や命令でも果てしなく「耐え忍ぶ」という点においてだけ重要視されることになります。
こうして日本は世界強国に名を連ねたり、経済大国として名をはせるまでになりましたが、ほとんどの個人は顔の無い不気味な存在のままです。
日本でも中央集権の力が薄れた戦国時代においては様々な文化が花開き、経済が急速に発展しましたが、軍事独裁政権や官僚独裁のもとで日本人の創造性はすっかり萎えてしまったのです。
日本はこの150年間に世界に誇る近代文明を築き上げてきたようにも思えますが、それらは西洋から節操なく取り入れたものをベースに国家主導での急速な工業化や人員動員によって無理やり発展させたものに過ぎません。その裏には多くの無名の日本人の犠牲と労苦があります。
明治の元勲や大正時代の文化人が仮に現代の日本を見て「素晴らしい、やはり日本人は優れて創造的な民族だった」と思うでしょうか。
あるいは元勲は「我々の作った官僚機構は未だに機能している、素晴らしい」と思うかもしれません。日本の民衆は自主性と創造性を失いましたが、官僚による統治システムは大衆操作のノウハウを膨大に蓄えており、その牙城はゆるぎないのです。