サイコパスには、物心ついた頃からそうであった者もいれば、途中からサイコパスとなる道を選んでしまった人もいます。サイコパスは自己中心的で、自分の為すことを全て正当化してしまうところに特徴があります。
途中からサイコパスとなってしまう場合、発達障害者であった者が、段々と邪悪なサイコパスとなってしまうことがあります。その例として宅間守を挙げてみます。
発達障害者は、悪い意図を持っていなくても、周囲に迷惑をかけてしまいます。普通の人間は無意識のうちに周りの人間を観察し絶えず自分の行動や思考を微調整することができます。人混みのなかでどう歩けばよいかとか、人と適切に話をしてどのように笑えばいいかなどです。どころが、発達障害者は、このような、普通の人にとって当たり前に思われることが上手くできないのです。
パソコンの電源を入れると、デーモンと言われる様々なプログラムが勝手に必要なタスクを起動したり記録領域から必要なものを読み込んだりして、PCを人が使える状態にまで持って行ってくれます。また各種のドライバーが勝手にプリンタやマウスを認識して使えるようにしてくれます。こうして作業者は自分にとって必要な仕事だけに集中できるのです。
言ってみれば発達障害者というのは、デーモンやドライバーが機能不全であるような人達なのです。その為、世の中と上手く渡りあうには、意識して歩いたり、会話したり、笑ったりという行為をしなければならず、大変な緊張と苦労を伴うのです。
解決方法として、常に意識を集中し、そういった普通の日常生活を送れるよう日々努力することがひとつあります。あるいは何か特別な才能に恵まれた人は、変人だと言われながらもそれによって社会に認められ生きていくことができます。あるいは、上手く生きていけないことに嫌気がさして、引きこもりになったり、自殺したりする人がいます。
宅間守の場合、周囲と上手くいかないことに悩み、希死念慮もありました。しかし途中からこう考えたのです。自分がこのような不条理を受けて苦しんでいるのならば、他の恵まれた人達にも不条理を味あわせてやろう。そうしてから死のうと。こうして彼は一線を越えて、自分の頭に浮かんだ悪を正当化してしまったのです。
しかし世の中には、上のような発達障害を持たず、むしろ才能に恵まれながらもサイコパスになってしまう人もいます。相手の感情を読むのが苦手だったり、自己尊大であったりした傾向が多少あって周りの人間とトラブルを起こしても、早いころから理性によってそれを正当化してしまうのです。
こういった人間はさらに邪悪と言えるでしょう。そしてそんな人物が一国のリーダーであったとしたら、自分の政策によって大勢の人間が苦しんだり死ぬことになったとしても何とも思わず、むしろ楽しんでいることでしょう。