kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

芸術家が太鼓持ちとなった国に未来はない

芸術家や表現者たるもの、伝えたいものがあるべきです。権力に媚びるだけの宮廷道化師は矛盾としか言いようがありません。

 

表現者は、必ずしも時の権力者を批判する必要はありません。そうですが、何かしらの毒をもっているのが芸術家です。タブーであっても、世の中に「これはどうだ?」とその意味や価値を問いかけるのが本来の姿なのです。

 

日本人が大好きな「第九」ですが、あれは「人類みな兄弟」などという呑気な事を歌った曲ではありません。反体制的とも言える理想を謳ったものです。ベートーヴェンは王侯貴族から独立し、思想を音楽で表現しようと試みた作曲家です。その過激な考えは交響曲第3番や第5番、オペラ「フィデリオ」でも明らかです。第九に至っては歌詞が付いているのですから、誤解しようがありません。第九の終楽章はもともと別なスケッチがあったのですが、途中で今のものに差し替えられました。第一楽章から第三楽章までの統一感に比べて、第四楽章はいささか唐突であり、音楽的とも言えませんが、それでも伝えたいものがあったのです。

 

どこかの国のように、その場の空気を読み、ひたすら権力者に迎合する芸人は単なる職人でしかありません。大量生産され交換可能な、モノに過ぎません。芸能事務所に所属する多くの有象無象のタレントは固定給を貰っているのですから、実際のところサラリーマンと変わりがありません。

 

現代は芸術的感性がキーとなる時代です。人に抜きんでるためには感性が必要です。iPodが出たとき、日本のメーカーは「あんなものはウチだって作れる」と冷笑しましたが、二番煎じしか出来ない日本にはその後出番がありませんでした。

個々の技術や性能が大したものでは無くても、それらを統合して別の意味を問いかける、新しいモノをプロデュースする能力が必要なのです。

 

今の時代に、ゴッホもどき、ピカソもどきの絵を描いても誰も評価してくれません。巧みなエルメスやボッテガもどきのバッグを作った所で、所詮ニセモノに過ぎません。クルマだって同じです。新しい価値を生み出したブランドが勝つのです。

 

職人的なエンジニアリングで膨大な部品をすり合わせて、品質の良いものを作り上げるという時代は終わりました。クルマは電気製品に近いものになっています。不具合があればアッセンブリー交換です。誰でも手に入れられる部品を組み合わせて新しいものを作り、その意味を世の中に問う姿勢が求められています。「安けりゃいい」という時代ではありません。日常使いの安物だって、遊び心がある方が魅力的です。

 

ではデザインセンスのある人間を裁量権のあるポジションに据えればよいかというと、そう簡単なものでも無いのです。イタリアのあるクルマは実物をよく見ると左右非対称です。現場の職人があえてそう仕上げているのです。これを知らずに左右対象にしてしまうと途端に魅力を失います。

いくら優れたデザイナーにクルマのデザインを任せても、機械でプレスしやすい様にデフォルメされ、それらをただ組み合わせただけのクルマになってしまっては全く魅力が無いのです。一握りの人間だけセンスがあれば良いのではなく、そういった人材が豊富に揃っている事が大事です。それが本当の国力に繋がるのです。

 

時の権力者に阿諛追従する幇間や芸人ほど「新しい価値」から遠いものはありません。自由な遊び心の無いところに文化は生まれません。影響力のある文化が無ければ国力も無きに等しいのです。

国力を、軍事力やプロパガンダ、威勢の良さやGDPと勘違いしている人々に未来はありません。


Arturo Toscanini - Beethoven : Symphony No. 9 in D Minor, Op. 125 ("Choral") 4th Movement

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