kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

なぜ日本の経済は失速したのか。そこから立ち直る方法はあるのか

日本はなぜ失敗したのでしょうか。まずはお金と日本人について見ていき、次に明治時代から今までの日本を振り返ってみましょう。

 

カネを得るためには2つの方法があります。利ザヤを稼ぐか、付加価値を与えるかです。

ある商品が、市場Aで100円、市場Bでは150円で売られているとしたら、市場Aで買い、市場Bで売ればいいわけです。これによって50円の利ザヤを得ることができます。しかしながらこの方法は、情報化が進むにつれて次第に困難になっていきます。ましてや、素人がプロを出し抜くことは不可能です。

付加価値について言えば、例えば、ただの食パンに砂糖を多めに加え「高級食パンだ」と喧伝することで、消費者は価値を感じてカネを払います。また同時に、安い労働者や素材を探してくることで、コストを下げ、利益率を上げられます。

 

カネが集まると力となります。カネが余っているところから資金を調達し、カネが必要なところに貸し与えます。この場合、帳簿上でのカネの流れは単に損益を示すだけでなく、支配−非支配の関係を示す特別なものでもあります。それは一過性のものではなく、長期に渡る力関係となります。

一方で、カネでは買えないものもあります。地位や勲章といったものです。支配者が臣下の者をコントロールするのに最も有効な手段です。しかも元手がかかりません。これが欲しいがために、臣下は生涯に渡り忠誠を尽くすのです。

いずれも支配者達の特権であり、それは階層の固定化へとつながります。

 

さて、日本について考えるには日本人の特性を考える必要があります。目に見えないものに価値を感じることができないという、彼らの性質についてです。

商品の表面だけを見て魅力を感じることはできます。しかし本質を見ることができません。新しい理論や考え方に接して目を輝かせることもできません。想像力が限られているからです。

 

例えば、IT化やDX、ソフトウエアといったものは、目には見えないために価値を感じることができません。最近では、伴走型コンサルティングというのが多くなってきました。戦略やIT化の方法を提示するだけでなく、システム開発から運用まで、ワンストップで面倒を見てやるというものです。目に見えるところまで落とし込んでやるわけです。

けれども彼らは、その有難みを感じることができません。せっかく作ったシステムも、5年で減価償却される無形固定資産として帳簿に載るだけです。

 

また日本人は、学歴偏重主義のように見えますが、実はそうではありません。企業は新卒をあくまでポテンシャルとして見ています。「青田買い」とはよく言ったものです。しかしそのポテンシャルも、シンボルになっている必要があります。東大、一橋、慶應といったブランドです。

「これこれの勉強をしました」という経歴は、日本では価値がありません。有名大学卒というブランドを獲得しないと意味が無いのです。時間×労働力の結果が、そういった有名ブランドの獲得に至ったのであれば、その人は優秀な社会人となるポテンシャルを持っていると判断するわけです。(より正確に言うと、ババを引く可能性が低いということです)

 

こうして選ばれたエリートは、何かを生み出すのではありません。資源や労働力を使い、どういう道筋をつけてそれらを制御するのかという仕組みを作るのです。

 

科学技術とは、治水技術と同じようなものです。氾濫する川を制御し、人間にとって有用なものに変えるのです。水も、川の流れも、人間が生み出したものではありません。そのままでは人間の脅威に成りかねない存在です。しかし自然の力を上手く制御することで、新しい価値を生み出せるのです。

 

エリートとは別に、その他大勢の人々がいます。太平洋戦争が終わるまで、彼らには2つの役目がありました。兵隊と工場労働者です。

武力を用いて領土を拡大することにより、日本の資源を増やすことができます。工場では労働力を提供します。低賃金、長時間労働で安物を作り、それで外貨を稼ぐのです。「何を作って、どう攻めたらいいのか」という作戦は、軍需省海軍省陸軍省が考えたのです。

 

なぜ日本が大きな成功を収めたのかというと、日本人は、人権を意識した「個人」ではなかったからです。人権が尊重される国では、適切な労働時間、賃金へと収斂(しゅうれん)してきます。ところが日本では、支配者の都合に応じて無制限に働いていたのです。

 

太平洋戦争後は状況が変わりました。もはや侵略戦争はできません。資源を海外から調達してくる仕組みが必要になりました。それを担ったのが総合商社というわけです。その資源をどこに分配するのかを、役所や銀行が決めます。企業は、指示を仰ぎ、資源や補助金をいただいて、安物作りに精を出すわけです。

 

ところが現代は、大きな変革を迎えています。パソコンやコモディティ化した商品を使って、個人が大きな価値を生み出せるようになったのです。

彼らも、時間×労働力という法則に縛られています。しかし能力が抜きん出ているために、少ない時間で、より大きな価値を持つものを作ることができるのです。目に見えないものですが、どこにでも移動でき、あらゆるものに影響を及ぼします。

 

現代の人々は、昔とは比べ物にならないほど高度な教育を受けています。文明の恩恵もあり、ごく少数の人間がより複雑なものを作り上げています。

残念ながら日本では、教育と言いながらも、中身が精神修養となっています。奴隷を作る場所です。タダのように使える奴隷の数を誇っていたのが日本でした。しかし現在は奴隷が減少し、経済が衰退しています。

 

日本の失敗は、将来を考えずに人を使い潰してしまったことです。教育費さえケチりました。モノならもっと大切に扱ったことでしょう。日本では、ヒトはモノよりも価値がなかったのです。

創造的な人間は、日本にとっては脅威でしかありません。予想を超える存在だからです。国民とは、「能なしでもいい。長時間働いてくれれば」「バカであって欲しい。宣伝したものを買ってくれるから」というものに過ぎなかったのです。「言われたとおりに、無意味なことにどれだけの時間を費やせるか」というのが評価される社会です。

 

日本で価値がある存在というのは、地位があり、解決までの筋道を立て、それに沿って関係者の合意を得ることのできる人です。

 

日本では合意を得るのに、膨大な労力を必要とします。法案を作るにあたっても、多くの関係省庁とのすり合わせが必要です。有識者会議の筋書きを作り、徹夜を繰り返してまで国会答弁書作りに勤しみます。

役人が異動や出向を繰り返し、マメな連絡を欠かさないのは人脈を作るためです。有名大学出身であれば、それだけで縦横に伸びるネットワークを得られます。そういったネットワークが、情報収集だけでなく、合意形成や説得に役立つのです。

管理職以上になると、実務は少なくなります。それでも地位や高給を得ているのは、広範で影響力の及ぶネットワークを持ち、説得力があるというのが重宝されているからです。

こういった合意形成のプロセスが重視されているので、革新的なアイデアや意見が、日の目を見ることはないのです。

 

国を挙げてのデジタル化が頓挫しかかっています。そもそも、分散している情報を統合してデジタル化するというのは本質ではありません。

それは「資源」に過ぎないからです。いくらデジタル化だ、AIだと言っても、価値あるものを見極め、それを掘り出すのは人間なのです。

「ダイヤモンドを見つけるぞ!」と言ったところで、ダイヤモンドを見たこともなく、使い道も知らないのでは話になりません。「カネになりそうだから、とりあえず道具や装備を整えました」という、愚かな人に過ぎないのです。DXを推し進めても、AIが勝手にダイヤモンドを見つけてくれるわけではありません。

 

今は、形のないものに付加価値を与えられる人間を育てなければならないのです。その付加価値というのは、世界中の誰が見ても不変の価値が感じられるものです。

日本人は「よく頑張りました」という見せかけを大切にします。千羽鶴とか千人針とかです。ボタンが沢山付いただけの使いにくい電化製品などに価値は感じられません。

本当の価値は、商品の表面にはなく、本質にあります。きれいな包装紙につつまれていても、中身が空っぽでは意味がありません。

日本では、本質ではなく、意味のないものに労働力を投下します。奴隷が作ったものなので安く売ることができます。その結果、日本の製品はカルト的魅力を持つに至ります。例えばアニメのようにです。それだけが唯一の価値と言えるでしょう。

 

「当たるのか当たらないのか」が分からないものでも投資をしなければなりません。多くのカネが必要です。昔はパトロンがその役目を果たしました。それと同時に、才能のある人を見つける「目利き」が必要です。

創造力を発揮できる環境があり、才能を見つける「目利き」がいる場所から、偉大な芸術や学問、文明が生まれるのです。

 

カネは大事です。しかし、カネを得ることを目標にして、そこから逆算して考えるのではないのです。カネを得るには、一旦、カネのことを忘れる必要があるのです。

お金は必要ですが、カネやモノの重要性が薄まっているのが現代です。それよりも人生において「いかに興味深い体験ができるか」ということの方が大切なのです。

 

家を持ったり、クルマを所有したりすることの意味がなくなります。決まった職業や、決まった住所というものさえ無くなります。人間関係も、その時々に応じて、緊密になったり離れたりするものになります。家族という固定的な関係もやがて無くなるでしょう。

真の「個人」が実現する世界です。その時、日本人はそれに順応していけるでしょうか? あるいは日本こそが、時代の最先端を走っているのかもしれませんね(笑)

 

無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体

ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀

MORE from LESS(モア・フロム・レス) 資本主義は脱物質化する (日本経済新聞出版)

資本主義の再構築 公正で持続可能な世界をどう実現するか (日本経済新聞出版)

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

政治学 (西洋古典叢書 G 18)

官僚に学ぶ仕事術 最小のインプットで最良のアウトプットを実現する霞が関流テクニック (マイナビ新書)

自我が未発達な日本人(世界を正しく認知できない日本人)

日本人の認知は歪んでいます。彼らは健康な人のように、ありのままの世界や自分を見つめることができないのです。彼らの自我には問題があります。そのために、目に映るもの全てが歪んでしまうのです。カメラのレンズが悪ければ、センサー上で正しい像を捉えられないのと同じです。

 

普通の人は、過去の自分がどうであったか、自分はこれからどこへ向かうのか、そして自分を取り巻く環境がどうなっているのか、この3つについて正しい認識を持っています。精神に問題がある人は、この3つの認識が歪んでおり、それが様々な異常を生み出す原因となっているのです。

 

正しい認知には、健康な自我が必要です。そして健康な自我が生まれるには、適切な言語操作能力が必要です。ところが日本人は、ここにも問題があるのです。

 

日本人は外国語をなかなか習得できません。それどころか日本語さえ不自由です。言葉を喋るには、まず伝えたい内容があることが必要です。しかしそういったものが何も無いというのが日本人です。家庭を見てみてください。狭い家の中で、彼らは必要最小限のコミュニケーションで済ませています。顔を合わせるだけで十分とでも言いたげです。

 

それでは、伝えたい内容はどうやったら生まれるのでしょうか。「自分を持つこと」と考える方もいるかもしれませんが、「感情を持つこと」がまずは大事になります。

人間の自我は、感情を認識することから始まります。汚いものを見た時の嫌悪感は、意識せずとも顔や体に反映されます。そういった体の反応が脳にフィードバックされます。そうすると無意識のうちに「汚いものを見たから自分は不快を感じている」というストーリーを脳が作り上げます。これによって初めて、「あれを見てムカついた」という感情と認識が生まれるのです。

 

何も無い所から自我は生まれません。自分の感情を感じていなければ、自我が無いも同然です。

ところが、感情を出来るだけ意識しないように、幼い頃から躾けられているのが日本人なのです。それでは健全な自己は育ちません。

 

意識、自己、言葉、良心は密接に関係しあっています。犬や猫でも意識は持っていますが、自己は持っていません。

眼の前にステーキがあったとします。ステーキを見ると唾液が出ます。胃が鳴るかもしれません。そういった体内の情報は無意識のうちに脳に届きます。そうすると、さらに脳はステーキに注目し、細かい部分まで良く見えるようになります。こうして「ステーキを見て空腹を感じている自分」というストーリーが脳内にできるのです。この一連の流れを、頭の中で第三者的に認識するというプロセスそのものが、イコール、自我なのです。静止した自我は存在しません。

猫だって、目の前に魚があれば飛びつくでしょう。しかし猫はその一連の流れを認識していません。衝動に従い機械のように魚を喰らいますが、それを客観的に認識はしていないのです。

 

さらに人間は、この一連の流れを言葉にすることができるのです。言葉によってヒトは、抽象的な思考をすることが可能になりました。宇宙の始まりを考え、人間が滅亡する遠い未来を想像し、計画を立てることができるようになったのです。これが人間と他の動物との大きな違いです。

先程のステーキの例に戻ると、「美味しそうだけど、あとの楽しみのためにとっておこう」とか「あれはAちゃんが食べるはずのものだから我慢しなければ」と正常な人間は考えるわけです。

 

今までの流れを整理すると、情動→感情の認知→自我の発生→言葉への翻訳→抽象的思考→良心の発生となります。

自我の発生を3つめに置いたことに注目してください。脳内出血などによって脳幹の後ろが傷つき、情動を含む体内のシグナルが上位の脳に届かなくなった時点で、意識は崩壊することが分かっています。

 

意識は絶えず、体内からの刺激を必要としています。そして「その刺激を受けて自分が変化した」と認識することで自我が生まれるのです。

多くの日本人を観察してみると、上に示した流れのうち、「感情の認知」レベルで問題があるようにみえます。そのため、適切な自我が生まれず、言葉も生まれず、抽象的思考や良心も生まれないのです。

マイクロソフトの初期のウィンドウズ(Windows3.1)は、MS-DOSをベースとしたOSでした。イベント・ドリブン方式の疑似マルチタスクという酷いものです。わかりやすく言うと、一度にひとつの仕事しか出来ず、絶えず刺激を与え続けないと眠りこけてしまうようなOSだったのです。まるで日本人のようです。

 

意識や自己が生まれたのは、それがあった方が生存に有利だったからです。人間は自己があるから、自分を苦しめる環境を変えたり、そこから逃れたりすることができます。鎖に繋がれた犬やライオンとは違うのです。

ところが、日本人はどうしたことでしょう。進化の賜物である自己を捨て去りたいと思っているかのようです。ひどい境遇に置かれてもじっと我慢しています。いや、我慢しているというよりも、何も感じていないかのようです。

 

彼らは他人に写った自分の姿を見ることで、かろうじて自己を感じ取ることができます。病的な程に他人の目を気にしており、「誰かが自分の悪口を言っていないか」を、四六時中気にしています。日本人は、自分たちが「世界一親切で頭のいい人間である」と信じ込んでいます。けれども「それは事実ではない」と聞くと、凄まじい形相で怒りだします。「感謝が足りない」と逆恨みするような人たちです。

 

感情を無にし、自分を捨て去れば、日本では生きやすいのかもしれません。絶海の孤島では逃げ場がありません。我慢するような個体でなければ、生き残れなかったのでしょう。その代わりに、新しいことを生み出せる人間は存在しません。日本人はまるで精神的に去勢されているかのようです。

ヒ○ラーは「わが○争」で、もし日本が近代文明から隔絶するような状況に置かれたとしたら、鎖国時の文明水準に戻っていくであろうと書きました。今の日本人は、そうした状況を自ら望み、その方向に向かって進んでいるのです。

 

日本人は即物的なものにしか興味がなく、過去を反省することができず、未来の計画も立てられません。自分の利益ばかりで、他人、ましてや社会のことなど考えられないのです。進歩とは無縁の人たちです。

愚かな連中なので、支配するのは容易です。しかしながら問題なのは、その支配者層も相当に頭が弱いということです。

以前、クルマで某放送局を聴いていたら、「わが局では、ろうあ者の為に数秒で字幕がつくようにしています」と自局の宣伝をしていました。「AIが…」と続くのかと思いきや、「専門の担当者が、経験とカンを駆使して字幕を作っています」と来ました。この国は、もはや精神力しか誇るものがないのです。

 

ところが多くの日本人にとっては、この国ほど、理想的で幸せに満ちた社会はないのです。やはり日本人はスゴイとしか言いようがありません。

 

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上憶良

世にしたがへば身くるし又したがはねば狂へるに似たり

鴨長明方丈記

 

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

意識と自己 (講談社学術文庫)

感情は、すぐに脳をジャックする

精神科医が教える 良質読書

「世間」とは何か (講談社現代新書)

万葉集セット(全5冊)

方丈記 (光文社古典新訳文庫)

人生の意味を問い続けたチャイコフスキー −伝えたいものを持つことの大切さ−

チャイコフスキーは、「運命」を強く意識した作曲家でした。運命というとベートーヴェン交響曲が有名ですが、ベートーヴェン自身が、あの曲と運命を結びつけて語った記録は残っていません。

 

チャイコフスキーがもっとも精力を傾けたのは交響曲です。後期の3大交響曲すべてが、「運命」と関わっています。この運命は、彼の言葉に従えば、ダモクレスの剣のように頭上に吊り下げられ、人々に幸福が行き渡らぬように、嫉妬深く監視している存在です。

 

交響曲第4番は、パトロンであるフォン・メック婦人に宛てた詳細な解説が残っています。運命に翻弄され疲れ果て、夢心地になるも、最期は庶民の素朴な祭りに見られるような爆発的な喜びに身を委ねて、再び生きていく力を得るという展開になっています。

 

交響曲第5番についてはメモ程度しか残っていませんが、意図は明らかです。第4交響曲と同じ様に、運命を表すテーマが何度も現れ、作曲者を翻弄します。第3楽章のワルツで束の間の休息を得て、怒涛の第4楽章へと移ります。コーダでは行進曲となり、輝かしい勝利を歌い上げて力強く終わるのです。

 

交響曲第6番「悲愴」は運命のテーマこそないものの、暗い色調で始まります。第3楽章のスケルツォは、表面上は力強く見えますが、運命に抵抗する足掻きや、病的な躁状態を感じさせます。そして第4楽章は絶望で終わるのです。従来の交響曲とは全く異なる、作曲者の強い独自性を感じさせる曲です。

 

様式美があり劇的な構成を持つ第4、甘美なメロディーが豊富でチャイコフスキーらしさを楽しめる第5、作曲者が人生を通じて表現したかったメッセージが込められた第6といった感じでしょうか。

 

ちなみに第5交響曲は、指揮者や演奏によって、曲の感じが大きく変わります。カラヤンだけで、5回もこの曲を録音しており、それぞれが異なります。

1971年の録音は、ヒスノイズが大きめで、音の定位も曖昧なところがありますが、実に音楽的な演奏です。オーケストラが一体となっています。レガートが効果的です。美しいメロディーと力強さを感じることができます。第1楽章のニ長調の主題が現れる部分での盛り上がり、第2楽章の陰鬱でありながらも美しい響き、第4楽章のコーダの力強さなど、聞き所も十分です。第2楽章冒頭にあるホルンのソロは、この曲全体の印象を決めてしまうほど重要なものです。下で紹介した動画は、これとほぼ同じ時期に撮られたビデオです。

 

チャイコフスキーは、裕福な鉱山技師の家庭に生まれました。ピアノのレッスンを受け音楽を愛していましたが、親の言う通りに、法律学校を出て法務省に入省しました。しかしながら音楽への情熱を抑えられず、若くして法務省を辞めたのです。

でも彼は恵まれていました。音楽学校での職を得ることができましたし、裕福なパトロンもいました。晩年は名誉博士号を受け、カーネギーホールにも招かれました。

彼はその当時、もっとも高名な音楽家だったといえるでしょう。引退しても、何不自由することのない老後が待っていたはずです。それでも「悲愴」交響曲のような革新的な曲を生み出したのです。

 

チャイコフスキーというと、魅力的な主旋律とそれに絡む副旋律、オーケストレーションや盛り上げ方の巧みさに囚われがちです。しかしながら彼は、決して表面的な美しさだけを追求した人ではありませんでした。むしろ彼ほど、自身の世界観や感情を曲に込めた作曲者はいなかったでしょう。ヨハン・シュトラウスのような中身のない音楽家とはそこが違います。

しかもそれを、一般人にもわかるような形で音楽に投影しようと試みたのです。そしてそれは成功しました。彼の曲は、現代でも広く聴かれています。

 

単なる小手先の器用さで、彼のようにあらゆるジャンルにおいて傑作を残すことなどは不可能です。誰よりも音楽の本質を掴み、表現力が優れ、情熱にも溢れていたからこそ可能だったことです。ブラームスとは異なり、晩年に至っても彼の創作力は衰えませんでした。彼には、どうしても伝えたい明確なイメージがあったのです。

 

音楽のみならず、他の分野でも同じことです。IQや審美的能力を備え、善悪を知っているのみならず、何らかの「原体験」を持っていることが、創作活動においては必要です。それが自身を引っ張る原動力となるのです。これらが高い次元でバランスを保っていることが必要です。

 

チャイコフスキーは、53歳の時に急死しました。死因はコレラと言われています。もしかすると彼は、自分の闇を見つめ過ぎたのかもしれません。しかし全ての人間に共通する闇があるからこそ、彼の作品は今でも魅力的なのです。

 


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交響曲第5番。1974年のビデオです。6分から7分にかけての盛り上がり、16分辺りからのホルンのソロ、45分からのコーダが聞き所です)


www.youtube.com

(悲愴交響曲の第3楽章。4分後半から勢いを増し、そのまま最期まで突き進みます)

 

チャイコフスキー:交響曲第4番、第5番、第6番《悲愴》 [DVD]

チャイコフスキー:交響曲第4番、ロメオとジュリエット

チャイコフスキー:交響曲第5番

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

改善ができない日本人(より良い世界を築けない日本人)

日本人は改善が苦手です。彼らには過去も未来も見えません。今だけです。視野が狭く、目に見えるものしか信用できません。そういった性質が、彼らの能力の限界となっているのです。

 

日本人ができるのは「カイゼン」だけです。質的な変化ではなく、量的な変化を目指すだけです。無駄な動きを省き、ミスがゼロとなるように皆で頑張ります。サービス残業もいといません。より短い時間でモノを作り、歩留まりをよくするためです。

 

要するに、資本家の利益のために、献身的に自己を改良していく試みです。より効率的な機械となるために、絶えざるカイゼンを行うのです。

効率化は労働者の仕事ではなく、管理する者が知恵を絞ってやるべきことです。しかしながら彼らは、考えることさえ怠けて、責任を末端の労働者に押し付けているのです。

 

細かいところまでを「カイゼン」していきますが、そのうちに、何が重要で、何がそうでないかが分からなくなります。どうでもいい品質に拘る一方で、「足回りを支える部分のスポット溶接を忘れてしまう」といった、人命に関わるようなミスを起こすわけです。

以前に、こんな事がありました。ある自動車メーカーの、輸出向けのクルマと、国内向けのクルマの仕様が違っていたのです。安全面に関わる部分です。輸出用は、事故に備えたクラッシャブル構造のモノコックだったのに、国内用はそうでは無かったのです。それをダンピング価格で海外に売っていたのです。

そのクルマは、普及価格帯のファミリー・セダンでした。彼らの工場で働いている労働者が買うであろうクルマは、手抜き仕様だったのです。彼らは、こういったあざとい仕打ちを平気で行うのです。

 

上に述べたものとは異なり、本当の改善というのは質的な変化を伴います。ところが日本人というのは、質的な変化をとことん嫌うのです。

日本人は「アイデアにカネを払わない」というのは、よく言われることです。ジェフ・ベゾスが、自分のアイデアをナプキンに走り書きして、将来の構想を語ったというエピソードがあります。優れた考えというのは、しばしば紙の上から始まります。しかし日本人は紙切れが重要だとは、夢にも思わない人たちです。

その昔、商用コンピューターが売られ始めたころは、プログラムというのはオマケでした。プログラムを考えて打ち込むのは、客がやる事だったのです。今でも日本人は、ソフトウエアの価値をよく理解していません。

オンプレのサーバーといったインフラは、言い値で彼らは買います。ところがパッケージソフトや、システム構築費用はとことん値切るのです。まるで「人件費なんて幾らでも安くできるだろう?」と言っているかのようです。

 

日本には掟があります。下に位置する者は、上の者に対して無制限に労力を提供しなければならないという掟です。それを考えれば「業者が持ってくる仕事なんて幾らでも叩ける」と彼らが思うのも道理です。

 

日本人はどうして、かくも改善ができないのでしょうか。いくつか理由が考えられます。1)表面的なもの、即物的なものにしか興味がない。2)自分らにとって都合の良い現実しか見ようとしない。3)あるべき姿を思い描くことができない。4)自分より下の人間は奴隷のようなものだと思っている。思いつくだけでもこれだけあります。

 

彼らはただ、浮世を面白おかしく過ごすことしか考えていないのです。昔からです。日本人は、それぞれが皇帝であり、同時に卑しい奴隷でもあります。上か下か? その時の状況に応じて、王様になったり、卑屈な奴隷になったりするのです。「自分」という確たる軸が存在しないからです。

 

幼い頃から、「自分」というものを抑えるように躾けられた結果です。「自我」とは何から生まれてくるのでしょうか。安定性です。子供の頃から今に至るまで、「自分という存在は本質的に変わっていない」という感覚です。「自我」とは、外の刺激を受けながらも、自分が主体となり、変化して生き残っていくためのツールでもあります。

ところが日本人にとって、「自我」などは邪魔な存在でしかないのです。上や周りから言われるがままに、右往左往するのが日本人です。安定した自分など存在しません。

こんな人達が「より良い未来」を思い描き、それに向かって努力するなど、夢のまた夢です。「自分」が無いから、どこに向かって進めばいいのか、何を改善したら良いのかさっぱりわからないのです。

自分には、大した価値など無いと考えています。だから他人の命など、もっと軽いものだと感じています。「より良い世界」など無意味です。自分だけがちょっとラクをするために、下の者をこき使えればいいからです。

 

日本の教育は、従順な兵士と工場労働者を作るのが目的でした。明治維新以降から何も変わっていません。日本を訪れた外国人がいみじくも指摘したように、命令一下、死をも厭わぬ「ぼっけもん」を作る教育だったのです。

彼らは「自我」が未発達な、人間以下の存在です。命令や許可が無ければ何もできないのです。食べる、眠るといった本能に関わることでもです。新聞公告で「これを見て元気になれ」と、性的な部分を強調した女子高生の姿を刷り込まれれば、Chikanやセクハラにいそしむのです。こんなものでも見せれば、子作りに励むとでも思ったのでしょうか。頭の弱い人々の考える事はよく分かりません。

 

改善は自主的に行うものですが、「カイゼン」は言われるがままに動いているだけです。敗戦後は、海軍省陸軍省が解体され、公職追放もありました。日本は、部分的に無法地帯となりました。庶民は束の間の自由を得たのです。それが、日本躍進の卑しい原動力のひとつとなりました。しかし長くは続かず、すぐに、役人による経済統制が始まったのです。

日本はバブルが弾けて駄目になったのではなく、その前から衰退と破滅への道を進んでいたのです。統制経済を進めていった結果が今なのです。

 

言ってみれば、日本人は進化から取り残された人々です。大量生産の時代には、ネズミのように繁殖しました。しかし今は、絶滅へと向かっています。現代は、ヒトのもっとも高度な部分である、創造的な思考が、価値を産む時代だからです。

 

日本社会には「現状を維持し続けよう」というメカニズムがあります。改善などは、もっての他です。生命体に例えると、日本には奇妙なホメオスタシスの仕組みがあるとも言えます。

日本が世界と関わると、必ず摩擦が生まれます。鎖国をして窮乏に耐えることにより、初めて安定するのが日本のシステムです。小さな鉢に閉じ込めらた金魚は、餌が無くても、脳を小さくしながら暫く生き延びます。日本はこれと同じです。

 

「世の中を変えてやろう」などと考えるのは、御上に楯突く大罪です。食事にも事欠く状況でも耐え続け、ひたすら上の者に奉仕し続けること。それこそが、理想の日本人の姿なのです。

 

意識と自己 (講談社学術文庫)

人月の神話―狼人間を撃つ銀の弾はない (Professional computing series (別巻3))

英国貴族の見た明治日本

戦後日本経済史(新潮選書)

仕事のやり方を分かっていない日本人(仕事の区切りが悪い日本人)-そしてこのブログの意味について-

日本人の仕事のやり方は非効率的です。仕事に明確な区切りがなく、ダラダラと仕事を続けてしまうのです。どうしたら、彼らのようになってしまうのを防げるのでしょうか。

 

南極点到達を競った、イギリスのスコット隊と、ノルウエーのアムンセン隊の逸話があります。スコット隊の場合、天気のいい日には、可能な限り前へと進みました。反対に天気の悪い日は休んだのです。ところがアムンセンは、晴れの日も、荒天の日も、一定のペースで進むというやり方をとりました。無理のない計画を立て、それを着実にこなしていく方法を採ったのです。

南極点へ先に到達したのはアムンセンでした。かたやスコット隊はと言えば、遅れただけでなく、帰路はメンバー全員が遭難したのです。生きて戻った者はいませんでした。

 

日本人もこれと似たようなところがあります。「今日のうちにやれるだけやっておこう」と考え、重要でない局面でも、無理して頑張ってしまうのです。それが毎日続くと、残業ばかりの日々となります、プロジェクトのリーダーがそういったタイプだと、やがてデス・マーチが常態化します。

 

彼らの仕事のやり方を観察していると、仕事ひとつひとつの区切りが悪いことに気が付きます。100%完全なんてことは有り得ないのですから、80%あたりで区切らないといけないのです。ところが、日本人はそういった決断が不得手です。

 

人間は不安を抱きやすい存在です。過去のこと、未来のことを考えると、どうしてもあれこれネガティブなイメージを抱いてしまうのです。頭に引っかかるものは、紙の上に書き出し、ひとつひとつの解決の見込みを得ることで、安心できます。ToDoリストにチェックを付けていくようなものです。

リストの項目にチェックを入れると「やり終えた感」が生まれます。脳内ではドーパミンが放出され、満足感を得られます。チェックすること自体が「ご褒美」になるのです。

 

ところが「まだ100%には程遠い」とか「もうちょっと修正する余地があるのではないか」などと考えて仕事を続けると、いつまでたっても仕事を終えた感じを得られません。こうして、「今日の仕事も不十分だった」と考えながら帰途につき、「明日は、あれをやらなくちゃ」といったプレッシャーを感じながら眠りにつくのです。これでは、仕事が面白くありません。日本人は、仕事を「ひたすら耐え抜く修行」であるかのように思っています。

上とはまったく反対の事をしなければいけないのです。「今日は、これをやり終えたぞ」と満足しながら帰り、「明日は、あれもやり遂げてやる」という期待感を抱きながら眠るのです。これが「自ら仕事を追い立てる」ということです。

「仕事をやり終えていない」と考えながら仕事をしていると、努力をしているつもりなのに、周りからせっつかれるようになります。すると、ますます余裕が無くなり残業も増えていくのです。

 

誰でも、朝の忙しい時間帯に家を出てから「鍵を閉めたかな」「エアコンを消したかな」と何度か気になって確かめたという経験があると思います。

脳は繊細です。外から強い刺激を受けたり、あせっている状況だと、正常に頭が動かないのです。冷静に、「鍵をしめた」「エアコンを消した」と心の中でチェックをしていけば、「やりきった感」が出るので、後で心配になることは無いのです。

 

複雑な思考をする時も同じです。未来について考える際に、AまたはBという事態が予想されるとします。Aという状況になると、さらに、A1、A2という分岐が考えられます。Bという状況では、同じように、B1、B2という分岐があります。B2の下にはさらに分岐が考えられるかもしれません。

この場合には、最初に「Aや、B1については、それほど考えなくても大丈夫そうだ」とか「B2に関してはもうちょっと掘り下げよう」といった見通しを立てます。おおまかなアタリを付けていくのです。AやB1については、脳内で「大丈夫そうだ」という感覚があるわけです。

優れた人は、決して全てを考えているわけではないのです。重要と思われる部分のアタリをつけて、そこを重点的に考えているわけです。

ところが普通の人は、いきなりA1、A2、B1、B2と、すべてをひとつづつ綺麗に片付けていこうと考えるのです。しかもそれぞれを、100%に至るまでやり遂げようと思っています。

 

思考においても、「検討し終わったらご褒美を自分に与える」という仕組みを脳内に作っておかないといけません。思考と情動は切り離せないのです。もし思考や行為に「やり終えた感」が無かったらどうなるでしょうか。

フンギリがつかないので、目の前の仕事をいつまでも続けることになります。誰かが「もういい」と止めるまでです。

また、こういった人は、自分で「何が重要で、何がそうでないか」という判断がつかなくなります。目の前に降ってきたタスクを処理するだけの人間です。

やり終えた仕事でも、鍵を閉め忘れたか心配になった場合と同じように、「ミスはなかったか」「やり残したことはなかったか」と何度も確認するようになります。強迫性障害のようなものです。

 

ヒトは進化によって、自律的な思考が可能になりました。それが無ければ犬や猫と変わりません。犬にも意識がありますが、目の前の出来事や空腹に振り回されているだけで、自律的に思考を巡らせることができません。ところが、こういった犬や猫レベルの人間が案外と多いのです。

 

日本人はこういった自律的な思考が苦手です。仕事にとりかかる前に、段取りを考えることができないのです。普通は仕事をする前に、「何をいつ、どうやってやるか、リソースは足りているか」という見積もりをします。ところが日本人は、いきなり与えられた眼の前の仕事に、飛びついてしまうのです。

戦争でも日本人は、表面に囚われ、兵站や補給を軽視していました。そのために飢餓で死ぬ兵士も多かったのです。「バスに乗り遅れるな」と火事場泥棒のように侵略を開始し、「清水の舞台から飛び降りるつもり」で開戦しました。

このような行為に至る前に、「これはまずそうだな」という感覚が自分の中にあったはずです。ところが彼らは、それを無視してしまうのです。

自律的な思考には、自分に報酬を与えたり、逆に歯止めをかけるような感情によるフィードバックの仕組みが必要です。適切な情動によって、初めて、適切な思考が可能となります。しかし、その感情が欠落しているのが日本人なのです。反応するだけで学ぶことが無ければ、もはや人間とは言えません。

要するに感情が無ければ、自分一人で抽象的な思考もできないのです。抽象的思考ができなければ、宗教や道徳、科学も生まれません。

 

さて、仕事にとりかかる前の準備として、段取り以外に、資料を読み込む局面があります。情報をインプットしたら、それを寝かせる時間が必要です。文字通り寝てしまうのが一番です。寝ている間でも脳は動いており、学習によって活性化したシナプス間の伝達を強化してくれます。

眠らないまでも、少し休んだり、あるいは気晴らしに全く別の仕事をしてもいいのです。例えば、タスクAとタスクBを交互にやっている方が、タスクAだけをずっとやっているより、効率的なのです。

 

社会人になった時の上司が、たまたま東大の数学科卒でした。「仕事中に手帳ばかり見ている」とよく陰口を叩かれていました。でも重要なことを紙に書き出し、仕事の段取りを考えるのは大切なのです。

日本では、手を動かすのが仕事だと思われています。じっと紙を見つめていたり、モニターを眺めて手が動いてなかったりすると「仕事をしていない」と思われるわけです。別に、考えながら手を動かしてもいいのですが、頭の中で全てが完結するのなら、その方が効率的なのです。

 

明確なイメージを持ち、そこに至る道筋を考えるのは重要です。まず最初にゴールとなる「あるべき姿」を、目の前で見ているかのように心に描きます。そこから逆算して、どういう手を打てばいいのかを考えていくのです。フォーキャストとバックキャストを組み合わせるわけです。

 

次に緻密な計画を作ります。小さなタスクにまで分解します。それぞれをいつやるのかも明確にします。万が一の場合に備えたバッファも用意します。あとは、作った計画を眺めているだけで、自動的に頭や体が動いてくれます。ゴールがはっきりしているので迷うことがありません。想定外の事が起こっても、柔軟に対応できます。

 

明るい未来を得るためには、明るいセルフイメージが必要です。「日本スゴイ」と唱えたところで、何も良いことは起きません。しかし「自分スゴイ」と唱えると、良いことがあるのです。毎晩寝る前に、活躍している自分の姿を想像していれば、いつのまにか、スゴイ存在となっていくのです。ひとりひとりがスゴくなれば、結果として、日本がスゴくなる可能性もあることでしょう。

このブログを書いているプライベートな目的のひとつは、自分が「なりたくない姿」を明らかにすることにあります。それを繰り返していくことにより、逆に「なりたい自分」が浮き彫りになっていくのです。

 

スコット大佐のように、眼の前だけを見て頑張るのか。あるいは、アムンゼンのように無理のない計画を立てて、着実にこなしていくのか。このどちらかの方法があります。南極点到達は、数年の出来事でしたが、人生はもっと長いのです。

どちらの方法をとっているかで、将来が大きく違ってきます。死ぬか生きるか、そのくらいの違いがあるのです。

 

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