日本は凋落しています。コスト削減にいそしんだ結果、さらに貧しくなりました。意味のないところにカネをかける一方で、大事な部分にはカネをかけないのが日本人です。
日本人は無駄だと思うところをどんどん省いていきます。省略が大好きです。しかし表面だけに囚われているので、パッケージだけが残って中身がなくなります。これが日本のやり方です。
シンプルにするのは悪いことではないのです。本質を捉えるのは大事です。ところが日本人にとっては、本質ではなく、表面だけが重要なのです。
例えば、コンビニ名物の上げ底弁当や、窒素ガスで膨らませたウインナーやスナック菓子の袋に、その傾向が見られます。できるだけ今までと同じような体面を保ちながら、消費者が書い続けてくれるように工夫をしています。
「あれ、10年前と比べてずいぶん、少なくなってるんじゃね?」と気づいた時には手遅れです。消費者は茹でガエルのように慣らされていくのです。
そもそも今の日本にとって「無駄を省くのが良いのか」という問題があります。無駄があるからこそ、新しい発想が生まれたりするのです。
オーディオのアンプには、普通のボリュームの他に、ゲイン調整ツマミがあります。プレーヤーからコントロールアンプへの入力を絞るツマミと、コントロールアンプからパワーアンプへの信号を絞るツマミの2つがあります。
なぜこんな物があるのかというと、このツマミを絞ることによってノイズや歪を少なくできるからなのです。ただし理屈上はそうでも、ただ単純に絞れば良いというものでも無いのです。音が痩せて躍動感が無くなったように聞こえる場合もあります。だから音楽ソースや好みに応じて調整するわけです。
ギター用のアンプにもゲイン調整ツマミがあります。ゲインを上げていくと、音がだんだんと歪んでいきます。けれどもハードロックの黎明期に、ギタリストはその歪んだ音を積極的に利用するようになったのです。想定外の使い方です。今では、真空管アンプによる歪は心地よいものと広く認識されています。
このように、無駄だからといっていちいち省いていたら、大事なものを失ったり、新しい発見の機会を失ったりするわけです。
無駄な人間を省いていったら、その先にはディストピアの世界が待っています。適当に生きていても普通に暮らしていける世の中の方がいいのです。
「能力が無かったら、クビにしても構わない」「生活保護なんてやめてしまえ」などと言うのは、目の前しか見えていない馬鹿が言う言葉です。「働かざるもの」だってパンを食っていいのです。上に立つ者はそれなりの人間でなければなりませんが、無能な人だって堂々と生きて良いのです。
しかし無能な経営者や管理職は、今の地位を追われなければなりません。彼らの能力に相応しいレベルというものがあります。
日本は失敗を許さない社会です。「得意なものを伸ばせ」と言われるのではなく、「弱点を克服しろ」と言われます。無駄な努力を強いられます。こうして面白みのない均質な人間が出来上がります。多様性は失われていきます。
地頭が良い優秀な人間でも、職場で過ごすにつれて「冴え」がなくなってきます。目立つ事をするより失敗しないことの方が大切です。何もしなくても我慢すれば、年功序列で昇給・昇格していくのですから、そうなるのが当然なのです。
部下が上司を脅かす存在であってはなりません。全てが予定調和でなければならないのです。一般職が総合職に反抗することもありません。一般職の女性と結婚すれば、立場をわきまえた従順な妻となります。日本は厳格な身分制度があったほうが、上手くいく社会なのです。
日本人は、失敗を極度に恐れるために、リスクを取るような行為は避けます。何度も会議を開き、検討を繰り返し、結局何もやらないことを決定します。何もやらなかったとしても、そこに至るまでに莫大なコストを費やしています。
海外では、人間がより快適に生きられるように、利便性を追求します。しかし日本では、責任をとらされないために、あるいは皆が余計なことをしないように、人々を規制することに全力を傾けます。
じゃあ、新しいことは誰が考えているのでしょうか。官公庁や大企業では、いまだに若手を海外の大学や機関に送り込んでいます。そこでネットワークを築き、何か新しいもの、めぼしいものを、パクって来させるのです。明治時代と変わっていません。
日本では、一度、規制やルールが出来上がってしまうと、それは前任者の意向や、前例として、いつまでも守られ続けます。これが「日本には伝統がある」「古くからの習慣が守られている」と言われる事象の本当の理由です。
いったん何かが決まると、よく考えもせずに、それに固執するのです。先代だか先々代だかが適当に作ったタレを「秘伝のタレ」と称して使い続けます。
遠い昔に帰化人から教えてもらった方法を、未だに守っています。自分たちで読めもしない複雑な漢字や印鑑を未だに使っています。和暦や戸籍制度を未だに使用しています。
「美しい」と称する自分たちの言葉や文化を、まるで理解しておらず、使い切れていない愚かな連中です。なんでこんな事をしているのか自分たちでも分からず、改善ができないのです。自律性とは程遠い、幼児のような人々です。
日本では、社食や学食などに行くと、客に複雑で不自然な動線を強要しています。「丼ものはこの位置から」「定食はこの位置からこう並んでください」とかです。スペースが無いのは分かりますが、全ての負担と責任を個々人に負わせておいて、それを当然と思うのが日本流です。
食堂の入り口に書いてあった「A定食」を頼むと、給仕のおばさんが怪訝な顔をして固まっています。何とそこでは、「牛肉赤ワイン煮定食」と正確に言わないと反応してくれない場所だったのです。「肉の入った方を」と言えば「入り口のメニューを見てください」と返されます。気の利かない連中です。グーグルの方がマシです。言われたルール通りにしか動けず、普段と違う状況に置かれると、思考を停止して固まってしまうのが日本人です。
日本では、焼肉やもんじゃ焼きのように、客に調理をさせて高いカネを取るような商売がまかり通っています。別に素材がいいわけではありません。バーベキューじゃあるまいし、煙を浴びて自分で焼き具合を確かめるなんてバカバカしい話です。しかし日本人はそれを有難がっています。
家庭では、狭いテーブルに沢山の皿を並べます。準備も後片付けも面倒です。ご飯や味噌汁は、お椀をいちいち手に取って食べます。日本では普通とされているので人々は気にしませんが、体に負担をかける食べ方です。学校の給食では、机に肘を付けて食べると怒られます。リラックスするべき時でも、日本人はくだらないルールに従い、かしこまっています。
さらに食卓には、醤油やソース、化学調味料が置かれ、出来上がった料理にかけて食べます。いつも同じ味です。そもそも調理した人に失礼ではありませんか。
食べ方も原始的です。三角食べをしながらの口内調味が普通です。白米を大量に食べるために、おかずを食うので、いつも濃いめの味付けになっています。しょっぱくて甘ったるいという、最低の味付け方法です。
彼らは、こういった無駄だけは省きません。昔のままです。人力と精神力は無限だと考えているのです。人間には無限の可塑性があり、どんな隷属状態でも我慢できるのだと思っています。そうして、誰かが自分の偉さを誇示するために作ったルールを守らせます。こうやって、人を使い捨てにするようなやり方がはびこります。
日本人は、人に負担をかけるようなコストカットが大好きです。日本人の性に合っていると言えます。大義名分のもと、堂々と下の者をいじめることができます。「欲しがりません、勝つまでは」と彼らは言いました。しかし彼らが勝つ可能性など無かったのです。現在、日本の人口は減っています。しかも無能ばかりです。日本は、人も含めてバーゲン・セール中です。けれども最期は売るものがなくなります。
「もっと子供を産め」と政治家はいいます。しかし「子供は無駄である」と社会全体がメッセージを発しています。
泣き叫ぶ赤ん坊に対して、老人は煙たい視線を向けます。電車の中や駅構内をうろうろするベビーカーを動かす若い女性は、憎しみの的となります。「カネを稼げない人間は無駄である」という考えなのですから、他人に迷惑をかけるだけの赤ん坊などは、マイナスの価値しかないのです。言っていることと、やっている事が違います。だから人々は、本質ではなく表面だけを大切にしてそれを守ります。
「お前らは何も考えなくていいから」と国に言われ、決められた通りに勉強をし、仕事をし、研究開発をしています。「自粛しろ」と言われれば自粛し、「規制は終わった」と言われれば、みんなで街に繰り出します。彼らの失策のツケは、増税や値上げでまかないます。
無駄を省いた結果、考える力さえ失ってしまったのが、現代の日本です。コアラは、体を動かす無駄を省いていった結果、頭蓋骨の大きさに対して、脳の量がはるかに小さくなってしまったのだそうです。脳の多くは多価不飽和脂肪酸からできています。カロリーも消費します。無いで済むのなら、その方がいいのです。
日本人はこれと同じです。「失敗を避けよう」「同じやり方を続けよう」「余計なことはやめよう」と心がけた結果、退化したヒトとなりました。彼ら自身が、意味のない無駄な存在となってしまったのです。
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