kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

無駄を省いて衰退した日本

日本は凋落しています。コスト削減にいそしんだ結果、さらに貧しくなりました。意味のないところにカネをかける一方で、大事な部分にはカネをかけないのが日本人です。

 

日本人は無駄だと思うところをどんどん省いていきます。省略が大好きです。しかし表面だけに囚われているので、パッケージだけが残って中身がなくなります。これが日本のやり方です。

シンプルにするのは悪いことではないのです。本質を捉えるのは大事です。ところが日本人にとっては、本質ではなく、表面だけが重要なのです。

例えば、コンビニ名物の上げ底弁当や、窒素ガスで膨らませたウインナーやスナック菓子の袋に、その傾向が見られます。できるだけ今までと同じような体面を保ちながら、消費者が書い続けてくれるように工夫をしています。

「あれ、10年前と比べてずいぶん、少なくなってるんじゃね?」と気づいた時には手遅れです。消費者は茹でガエルのように慣らされていくのです。

 

そもそも今の日本にとって「無駄を省くのが良いのか」という問題があります。無駄があるからこそ、新しい発想が生まれたりするのです。

 

オーディオのアンプには、普通のボリュームの他に、ゲイン調整ツマミがあります。プレーヤーからコントロールアンプへの入力を絞るツマミと、コントロールアンプからパワーアンプへの信号を絞るツマミの2つがあります。

なぜこんな物があるのかというと、このツマミを絞ることによってノイズや歪を少なくできるからなのです。ただし理屈上はそうでも、ただ単純に絞れば良いというものでも無いのです。音が痩せて躍動感が無くなったように聞こえる場合もあります。だから音楽ソースや好みに応じて調整するわけです。

ギター用のアンプにもゲイン調整ツマミがあります。ゲインを上げていくと、音がだんだんと歪んでいきます。けれどもハードロックの黎明期に、ギタリストはその歪んだ音を積極的に利用するようになったのです。想定外の使い方です。今では、真空管アンプによる歪は心地よいものと広く認識されています。

このように、無駄だからといっていちいち省いていたら、大事なものを失ったり、新しい発見の機会を失ったりするわけです。

 

無駄な人間を省いていったら、その先にはディストピアの世界が待っています。適当に生きていても普通に暮らしていける世の中の方がいいのです。

「能力が無かったら、クビにしても構わない」「生活保護なんてやめてしまえ」などと言うのは、目の前しか見えていない馬鹿が言う言葉です。「働かざるもの」だってパンを食っていいのです。上に立つ者はそれなりの人間でなければなりませんが、無能な人だって堂々と生きて良いのです。

しかし無能な経営者や管理職は、今の地位を追われなければなりません。彼らの能力に相応しいレベルというものがあります。

 

日本は失敗を許さない社会です。「得意なものを伸ばせ」と言われるのではなく、「弱点を克服しろ」と言われます。無駄な努力を強いられます。こうして面白みのない均質な人間が出来上がります。多様性は失われていきます。

 

地頭が良い優秀な人間でも、職場で過ごすにつれて「冴え」がなくなってきます。目立つ事をするより失敗しないことの方が大切です。何もしなくても我慢すれば、年功序列昇給・昇格していくのですから、そうなるのが当然なのです。

部下が上司を脅かす存在であってはなりません。全てが予定調和でなければならないのです。一般職が総合職に反抗することもありません。一般職の女性と結婚すれば、立場をわきまえた従順な妻となります。日本は厳格な身分制度があったほうが、上手くいく社会なのです。

 

日本人は、失敗を極度に恐れるために、リスクを取るような行為は避けます。何度も会議を開き、検討を繰り返し、結局何もやらないことを決定します。何もやらなかったとしても、そこに至るまでに莫大なコストを費やしています。

海外では、人間がより快適に生きられるように、利便性を追求します。しかし日本では、責任をとらされないために、あるいは皆が余計なことをしないように、人々を規制することに全力を傾けます。

じゃあ、新しいことは誰が考えているのでしょうか。官公庁や大企業では、いまだに若手を海外の大学や機関に送り込んでいます。そこでネットワークを築き、何か新しいもの、めぼしいものを、パクって来させるのです。明治時代と変わっていません。

 

日本では、一度、規制やルールが出来上がってしまうと、それは前任者の意向や、前例として、いつまでも守られ続けます。これが「日本には伝統がある」「古くからの習慣が守られている」と言われる事象の本当の理由です。

いったん何かが決まると、よく考えもせずに、それに固執するのです。先代だか先々代だかが適当に作ったタレを「秘伝のタレ」と称して使い続けます。

遠い昔に帰化人から教えてもらった方法を、未だに守っています。自分たちで読めもしない複雑な漢字や印鑑を未だに使っています。和暦や戸籍制度を未だに使用しています。

「美しい」と称する自分たちの言葉や文化を、まるで理解しておらず、使い切れていない愚かな連中です。なんでこんな事をしているのか自分たちでも分からず、改善ができないのです。自律性とは程遠い、幼児のような人々です。

 

日本では、社食や学食などに行くと、客に複雑で不自然な動線を強要しています。「丼ものはこの位置から」「定食はこの位置からこう並んでください」とかです。スペースが無いのは分かりますが、全ての負担と責任を個々人に負わせておいて、それを当然と思うのが日本流です。

 

食堂の入り口に書いてあった「A定食」を頼むと、給仕のおばさんが怪訝な顔をして固まっています。何とそこでは、「牛肉赤ワイン煮定食」と正確に言わないと反応してくれない場所だったのです。「肉の入った方を」と言えば「入り口のメニューを見てください」と返されます。気の利かない連中です。グーグルの方がマシです。言われたルール通りにしか動けず、普段と違う状況に置かれると、思考を停止して固まってしまうのが日本人です。

 

日本では、焼肉やもんじゃ焼きのように、客に調理をさせて高いカネを取るような商売がまかり通っています。別に素材がいいわけではありません。バーベキューじゃあるまいし、煙を浴びて自分で焼き具合を確かめるなんてバカバカしい話です。しかし日本人はそれを有難がっています。

家庭では、狭いテーブルに沢山の皿を並べます。準備も後片付けも面倒です。ご飯や味噌汁は、お椀をいちいち手に取って食べます。日本では普通とされているので人々は気にしませんが、体に負担をかける食べ方です。学校の給食では、机に肘を付けて食べると怒られます。リラックスするべき時でも、日本人はくだらないルールに従い、かしこまっています。

さらに食卓には、醤油やソース、化学調味料が置かれ、出来上がった料理にかけて食べます。いつも同じ味です。そもそも調理した人に失礼ではありませんか。

食べ方も原始的です。三角食べをしながらの口内調味が普通です。白米を大量に食べるために、おかずを食うので、いつも濃いめの味付けになっています。しょっぱくて甘ったるいという、最低の味付け方法です。

 

彼らは、こういった無駄だけは省きません。昔のままです。人力と精神力は無限だと考えているのです。人間には無限の可塑性があり、どんな隷属状態でも我慢できるのだと思っています。そうして、誰かが自分の偉さを誇示するために作ったルールを守らせます。こうやって、人を使い捨てにするようなやり方がはびこります。

 

日本人は、人に負担をかけるようなコストカットが大好きです。日本人の性に合っていると言えます。大義名分のもと、堂々と下の者をいじめることができます。「欲しがりません、勝つまでは」と彼らは言いました。しかし彼らが勝つ可能性など無かったのです。現在、日本の人口は減っています。しかも無能ばかりです。日本は、人も含めてバーゲン・セール中です。けれども最期は売るものがなくなります。

 

「もっと子供を産め」と政治家はいいます。しかし「子供は無駄である」と社会全体がメッセージを発しています。

泣き叫ぶ赤ん坊に対して、老人は煙たい視線を向けます。電車の中や駅構内をうろうろするベビーカーを動かす若い女性は、憎しみの的となります。「カネを稼げない人間は無駄である」という考えなのですから、他人に迷惑をかけるだけの赤ん坊などは、マイナスの価値しかないのです。言っていることと、やっている事が違います。だから人々は、本質ではなく表面だけを大切にしてそれを守ります。

 

「お前らは何も考えなくていいから」と国に言われ、決められた通りに勉強をし、仕事をし、研究開発をしています。「自粛しろ」と言われれば自粛し、「規制は終わった」と言われれば、みんなで街に繰り出します。彼らの失策のツケは、増税や値上げでまかないます。

無駄を省いた結果、考える力さえ失ってしまったのが、現代の日本です。コアラは、体を動かす無駄を省いていった結果、頭蓋骨の大きさに対して、脳の量がはるかに小さくなってしまったのだそうです。脳の多くは多価不飽和脂肪酸からできています。カロリーも消費します。無いで済むのなら、その方がいいのです。

 

日本人はこれと同じです。「失敗を避けよう」「同じやり方を続けよう」「余計なことはやめよう」と心がけた結果、退化したヒトとなりました。彼ら自身が、意味のない無駄な存在となってしまったのです。

 


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考える範囲を限定してしまう日本人(前提を疑わない日本人)

日本人は前提を疑いません。与えられたものとして、そのまま受け入れてしまうのです。そこから考え始めます。もし前提が間違っていたら、すべてが無駄になってしまうのです。

 

彼らはトップダウンで物事を考えられません。与えられた条件で、すぐに作業へと移ります。まず、些末な部分を綺麗に仕上げることから初めます。方向性が間違っていても、全力で頑張ります。部分を最適化しても、必ずしも全体の最適化にはなりません。

 

ある前提のもとに、緻密な計画を立て実行することが、日本人は得意です。その前提が合っていれば、大成功となることもあります。日本海海戦真珠湾攻撃のようにです。しかし所詮はギャンブルに過ぎず、ミッドウェー海戦のように、大失敗となることの方が多いのです。

 

日本には「文系・理系」という不思議な分け方があります。自ら「わたしは文系です」と言う人さえいます。わざわざ、「自分は学問の半分しか知りません」と告白しているのです。学問はそれぞれの分野に分断されており、横方向の繋がりがありません。

 

例えば日本では、心理学は文系の学問とされています。文学部の中に置かれていることもあります。「心理学概論」を見ると、理系の分野に重なるような部分は、綺麗に取り除かれています。例え在ったとしても、ざっとした説明しかありません。ここが、外国のテキストとは大きく異なっている点です。

文学部に在籍して、精神医学や、生理学、統計学の専門的な講義を受けるのは困難です。医学から心理学へと進む人はいます。しかし、初めから心理学を専攻してしまうと、大したことは学べません。

 

自然現象を細かく細分化して理解するというのは、良いのです。しかしその後に、それらを統合する方向へと進まなければなりません。Ph.D.というのは、そういった人に与えられるわけです。

 

学問の分野だけでなく、普段から、思考の範囲を狭めているのが日本人です。

「アセット」という言葉があります。会社の資産といった意味で使われます。例えば不動産のように、将来、会社に利益をもたらすような資産のことです。日本では、会計や金融の用語だと思われています。しかしながら本来は、子供への教育でも使われる、幅広い意味をもった言葉なのです。教育に投資し、子供に対して、生涯に渡り役に立つ能力を身に着けさせるといった文脈で使われます。

 

言葉ひとつを取ってみても、彼らの頭の中では、横方向のつながりが無いことがわかります。

日本人は、流行り言葉が大好きで、やたらとカタカナの横文字を使いたがります。既存の言葉を組み合わせて使えばいいのにです。彼らは、自分たちで新しいものを生み出すということができません。外国のパクリばかりです。

 

また日本人は動詞ではなく、名詞で考えてしまう傾向があります。日本は、漢字やカタカナなどの外来語を名詞として多く取り入れています。その一方で、動詞は本来の大和言葉のままです。外来語が動詞化したものもありますが、「サボる」のように、ごく一部です。仕方がないので、外来語+「する」という言い方をします。

 

多くの日本人は、新しい言葉が入って来たら、ろくに考えもせずに受け入れます。アクションを自分で考えることはありません。「DX」と言われたら「IT化」と何が違うのかを考えることもなく、部署が作られ、何となく仕事を始めてしまうのです。

 

さらに日本人は、事実と命令を分けて考えません。ファクトなのか意見なのか、その区別が曖昧なのです。特に上から降りてきたお題目には、無条件で従います。彼らにとって、事実なのか命令なのかなどは、どうでもいいのです。「権威ある人がこういった」と言えば充分です。

「空飛ぶクルマ」と言われれば、その方向に突き進みます。日本のように規制の厳しい社会で、そんなものが実現できるわけがありません。かって、280馬力の(自主)規制で、自動車業界の競争力を自ら損なった人々です。ドクターヘリの高速道路への離着陸が、長い間、実現できなかったような社会です。

 

企業や官公庁が、業者に何かを発注する場合でさえ、ろくに頭を使っていません。比較検討や入札のために大変な労力を使っているのは確かです。しかし結局は、名の知られた高い業者に仕事を頼みます。割高だと知っていてもです。格下の業者に頼んで失敗したら、担当者の責任になってしまうからです。反対に、公平に検討したという紙が残っていて、誰もが知っている大企業に頼んだという事であれば、誰もそれを咎めることはできないのです。

日本では、業者がどういうアクションをしてくれるかという事は大切ではありません。それよりもブランドが大事です。

このように、使うべきところに頭を使っていないのが日本人です。しかし本人は、至って真面目に仕事をしているつもりなのです。救いようがありません。

 

日本では、赤ん坊の価値はゼロです。役に立たないからです。将来などどうでも良いのです。いま、働いてカネを生み出すか、儲け話を持ってきたりする存在でなければ、意味がないのです。

 

学問でも、経済学部や法学部、工学部といった実学が、日本では中心です。そこを卒業して、大企業や役所に入ります。学者は傍流です。安定した生活や地位が欲しければ、御用学者となって、プロパガンダの一役を担うしかありません。大企業や役所勤めから学者に身を転じることは可能ですが、その逆はありません。

 

日本はいまだに、「由らしむべし知らしむべからず」という考えが徹底している社会です。ごく僅かな人間以外は、何も知る必要はなく、考える必要もないのです。

東京の一角に全てが集中しています。経済の中心です。方針を決定する機関やシンクタンクがあり、それをメディアが喧伝します。中心からの地理的な距離が、そのままメディアの格付けとなっています。経団連もその方針を受けて動きます。

ちなみに大学はといえば、単なる文科省の下部組織でしかありません。学者は、有識者会議やメディアで宣伝工作のお手伝いをしています。研究者の多くは非正規雇用です。

 

一党独裁は世界に数えるほどしかありません。しかしながらこの社会では、前例や慣習に縛られている分、単なる独裁政権よりたちが悪いのです。

それでいて自分たちは一生懸命にやっているように思っています。国民もそう思っています。深夜残業も厭わず、効率の悪い仕事を繰り返しています。末端の労働者も同じです。その一方で、投機にうつつを抜かす人々がいます。この国が衰退するわけです。

 

想定外の出来事が起こると、国全体が一気に傾きます。魚雷一本で沈没してしまった巨大な浮沈空母のようです。

現在は先の見えない時代ですから、いつだってそのような事態が起こりえます。多様な人材が、創造的に働けるシステムが必要なのです。それなのに、無駄を省いて効率化を進めていった末に、行き着いた先が現在の日本なのです。

 

先の敗戦によって、軍部は解体されました。けれども現在のシステムは、効率的な集金マシーンとして機能している限り、これからも安泰なのです。「いかに経済を回してカネを生み出すか」というのが現システムの至上命題です。それを意識して社会を眺めれば、いろいろと読み解けることがあるでしょう。

 

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キャリア官僚の仕事力 秀才たちの知られざる実態と思考法 (SB新書)

第二次世界大戦〈上〉

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みすぼらしい食事から見る不健康な日本人

日本人の食事は貧弱です。彼らはなぜ、あんなものを食べているのでしょうか。そしてそれらは、彼らにどんな影響を及ぼしているのでしょうか。

 

伝え聞く、地方での食事は悲惨なものでした。単純に貧しかったからです。白い米が食べられるのは家長だけです。あとの家族は、炊いた米に、サツマイモを混ぜ合わせたものを食べていたのです。タンパク質はといえば、お祝い時に、魚が出ればマシなほうです。

果物などはほとんど食べたことがありません。野菜といえば、芋や人参、牛蒡のことだと思っていたのです。

この間、通販サイトで「野菜カレー」と銘打ったレトルトカレーを売っていました。見てみると、トウモロコシとジャガ芋、人参と肉の切れっ端が入っていて、それを野菜カレーと称していたのです。現代の日本人の認識も、あまり変わっていないようです。

 

子供の頃に「戦艦大和の最期」という漫画を読んだことがあります。その中で学校教練を担当する陸軍士官が、主人公に向かってこう言います。「貴様はアカだな! 日本人なら白米と梅干し一個で頑張れるはずだ」というのです。

滅茶苦茶な論理は別として、そんな食事で人間が耐えられると思っている点に目眩がしました。

昔は、白米を何度もおかわりするような子供が、健康的だと看做されていました。しかしながら現在では、コンビニ弁当でも充分な量の白米をとることができません。揚げも4個しか入っていません。

 

海外で外食をすると、日本の3倍くらいの量がありました。日本人は1/3くらいしか食べていないのに、クソの量は倍です。太平洋戦争のころ、米軍が、日本軍が遺棄した基地のトイレに残された大便の量から、兵員の数を見積もろうとしました。しかし糞の量が多いために、数を見誤ったという笑い話があります。日本人というのは、つくづく効率の悪い人々です。

 

日本人の多くは栄養素が足りていません。痩せているように見えて内臓脂肪は多めです。隠れ肥満です。やがて2型糖尿病になります。

日本人には「主食」という考え方があります。あいにくですが、人間は「雑食」なのです。ひとつの物だけを食べていたら、栄養が偏ります。彼らの味覚も幼稚です。甘いものや柔らかいものを好みます。食べ物を形容するときも、「あっま〜い」「やわらか〜っ」「とろっとろ〜」というような言葉を使います。

 

農業によって文明は発達しました。それは否定できません。しかしその代わりに、炭水化物に偏った不健康な人間を生み出したのです。特に日本人は、タンパク質や野菜、果物が不足しています。

 

周りを眺めてみての印象ですが、所得が低い人ほど、ガンにかかっているように見えます。40から80代まで様々です。老人になればガンになりやすいのは当たり前です。それでも、年金が少なくて仕事を続けていたり、食事内容が悪かったり、ストレスの多い生活をしていたりする人たちが、比較的多い感じがします。

 

糖質依存症のような人もいます。職場でも、残業をしながら、スナック菓子をずっと食べ続けています。野菜や肉を食べた場合は、血糖値がゆるやかに上がっていきます。ところが小麦や白米、コーンスターチといったものを摂ると、血糖値が急激に上がります。

炭水化物というのは糖の分子が連なったものです。それをお腹いっぱいに食べる習慣がつくと、血糖値が下がった状態に耐えられなくなります。こうして依存症となるのです。甘いジュースやお菓子を食べる習慣があれば、もっと深刻な砂糖依存症となります。

 

頭脳労働をする大人が、3食とる必要があるというのは、思い込みに過ぎません。もし体を同じ状態に保ちたいのなら、ずっと点滴をしているのが良いはずです。でもそれでは楽しくありません。美味しく食事を摂るには、空腹感が必要です。適度な空腹感があるからこそ、明晰な思考を得られます。さらに食事を「ご褒美」と捉えることで、頑張ることができます。

 

自分は基本的に、一日一食です。朝は少し食べるか、あるいは食べないかです。朝一杯目のコーヒーを飲んだあとに、もっとも創造的な時間が訪れます。昼は栄養価の高いものを多めに食べます。胃腸の調子が最も良いからです。夕方6時以降は基本的に食べません。良質な睡眠を得るためです。食べたとしても、軽いタンパク質か野菜です。

間食をすることもありますが、ナッツ類です。それほど甘くない果物なら、好きな時に食べます。スナック菓子や、砂糖を使ったものは食べません。

もちろん、何が良いかは人によって違います。周りにも一日一食の人がいますが、夜1回だけという方が多いです。また逆に、幅広い栄養素を摂るために、食事の回数を多くするという理屈も頷けます。野生のチンパンジーも、1日あたり11時間をかけて食事をしています。

 

コーヒーを飲むと、ドーパミンコルチゾールが分泌されます。朝の一杯が重要です。適度なドーパミンは思考を助けてくれます。そして、適度なコルチゾールで高揚感を得られます。

ところが強いストレスを受けてコルチゾールが過剰に分泌されるようになると、体に悪影響を及ぼします。血糖値は上がり、内蔵脂肪がつきやすくなります。レプチンへの反応が悪くなり、食べても満腹感が得られず必要以上に食べてしまいます。脳や体が不活発になり、睡眠も妨げられます。するとますます何かを食べたくなります。

 

日本人の心身が不健康なのは、強いストレスにさらされ続けているからです。日本では、万人が健康であることを前提にして社会が作られています。弱者は不要という考え方です。

 

「子供が熱を出して…」「親の介護が…」と言って会社を休むことはできます。しかし本人が「体調不良で…」と言って何度も休んでいたら、査定が下がります。けれども、免疫力が低くて、毎年風邪にかかる人だっているのです。障害者採用枠が定められているので、企業や役所は障害者を雇います。しかし結局は辞めざるを得なくなるのが日本です。

 

心身ともに病んでいるのに、無理を押して働いているのが日本人です。自分の心や体をいたわれないような人間が、他人を思いやれるわけがありません。

この国では、自分にも他人にも鈍感な人だけが生き残れます。それでも行き詰まってしまうと、「他人を殺めて死刑にしてもらおう」などと考えるのです。「美味しいものを食べてから死のう」ではないのです。彼らの感覚の鈍さ、社会に対する怨念の深さが垣間見えます。

こうして今日も、世界でもっとも人に厳しい、冷酷な社会が続いていくのです。

 

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GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス

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階層的な思考が苦手な日本人

言葉は階層的な構造を持っています。ところが日本人は、こういった階層構造を捉えるのが苦手です。それが彼らの思考力の限界となっているのです。

 

日本人が、英語の学習でつまづくのが完了形です。「〜という経験を有している」「過去に〜という経験を有していた」といった文章です。文字通り、have(持つ)という単語が使われているのだから、素直にそう理解すれば良いのです。ところが内容が階層化され、抽象の度合いが高まるにつれて、日本人の理解は困難になります。

 

プログラミング言語のひとつに、C言語というのがあります。この言語では、アドレスを直接指定して、記憶領域の内容を書き換えることのできる便利な関数があります。さらに、そういったアドレスを指し示すポインタを格納するエリアを示すポインタ…といったように、変数をどんどん入れ子にすることができます。

また、ある関数を定める際に、その中でまた自分自身を呼び出すという、再帰呼出しも簡単にできます。例えば、自然言語構文解析を何層にもわたって実行するといった複雑なことを、シンプルな記述で実現できます。

ところが、やはりこの部分で躓いてしまう初心者が少なからず居るのです。マトリョーシカのように階層的な入れ子になってしまうと、彼らの理解を超えてしまうのです。

 

階層構造について語る前に、言葉がどのように発達してきたかを少し考えてみましょう。

1)まずはひとつひとつの単語を並べていくやり方です。

「日本人、鯨、食べる」「日本人、食べる、」「食べる、日本人」といったように、順番は関係なく、ただ単語を並べただけの状態です。

 

2)次は、規則に従い単語を並べるやり方です。

日本人、食べる」といったように、主語+目的語+動詞といった順番に並べるというものです。言葉は、ここで初めて直線的な構造をもちます。

 

3)その次には、時系列的な考えが言葉に取り入れられます。

「日本人、鯨、食べた」「日本人、鯨、食べていた」といった文です。これにより、過去の過ぎ去った出来事を思い浮かべて、それらを時系列で捉えることができるようになります。

 

4)最後に言葉は、階層や再帰的な構造を含むようになります。

「日本人は鯨を食べていたと外人が言ったと彼は述べた」といった文章です。対話をしている相手だけでなく、第三者も含めて入れ子になった構造を、階層化した言葉で表現することができます。

 

5)以上に加えて話し言葉になると、イントネーションやジェスチャーがあり、話のなかで、何が大事なのかを強調することができます。これにより、さらに豊かなコミュニケーションが可能となるのです。

 

こうしてみると日本語は、上に挙げた3番目以降が実に心もとないのです。

言葉は、より複雑な事柄を伝えられるように次々と改良されていきました。その一方で、何が一番重要なのかを強調し順序立てる手段も同時に発達したのです。

日本語でも複雑な文章を作ることはできますが、一番大事なことを後回しにしてしまうので、内容が分かり難くなるのです。例えば、結論を後回しにするといった点です。

 

例文を挙げると、「日本人が鯨を食べていたかどうかということを指し示す直接的証拠が揃っているかどうかという事を明確にできる可能性が今後ないとは言えなくもないとは限らない」といったように、文末に言葉を続けて、いくらでも主張を反転させることができます。いわば卑怯者の言語です。その場の体面を保ち、相手を誤魔化すために言葉を使うのが、日本人の特徴です。

 

普通、会話の内容はトピックとコメントに分けられます。事実と意見です。ところが日本人は、コメントが抜けていたり、トピックなのかコメントなのか分からないような話し方をします。「我々日本人は〜」などといって、意見を事実であるかのように喋るのです。

質問になるとさらに酷くなります。事実と意見と、質問がごっちゃになって、何を訊こうとしているのか、さっぱり分からないという事があるのです。

話を聞く側も、事実と意見と感情(敵意)を、容易に混同してしまいます。感情的な対立を避けるために、日本人は意見を隠し、事実を捻じ曲げることさえあります。

 

また日本人は、上の者に何か言われても、それが事実なのか命令なのかを、特に気にしていないようです。「とりあえず言う通りにやってりゃいいんだろ」という訳です。偉い先生や御用学者・有識者の言うことを鵜呑みにしてしまうのです。

「真理の追求」や「正しさの追求」という言葉ほど、日本人にとって縁遠い言葉はないでしょう。

 

こうした致命的な欠陥がありながらも、日本は永らく先進国のような顔をしていたのだから大したものです。日本は、組織としては巨大で複雑なように見えますが、個人は大して頭を使っていません。身の回りの上下関係だけ意識して、コミュニケーションをとっているだけなのです。頭を使わない働きアリでも、巨大な蟻塚を作れるのに似ています。

 

コミュニケーションというのは、個々人の間だけではありません。社会全体として、次世代に知識や知恵を伝えていくことが大切なのです。その伝達手段であり媒介となるのが「文化」なのです。文化とは、何も古びた遺跡や伝統のことではありません。

 

近代文明が急激に発展したのは、たかだか数千年のことです。ギリシャ人やローマ人の遺産を再発見し、大切に伝えてくれた人々が居たからこそ、今の文明があるのです。

彼らは、後世に、知識や知恵を伝達する術を心得ていました。そのもっとも象徴的なものがユニバーシティです。しかるに、日本の教育システムはいったい何なのでしょうか。自分でまともにモノを考えられないような人間を、毎年、無責任に社会へと放出しています。

 

近代文明において言葉は重要です。ただし、思考は必ずしも言語脳(左脳)だけで行うものではありません。イメージを扱う右脳による思考もあります。

知覚レベルにおける処理も複雑です。例えば視覚処理だけでも、脳は3つの層に分かれています。輪郭を捉える層、それらを組み合わせた形を認識する層、左右の像を組みわせて立体像を認識する層の3つです。

これと同じように人間の脳は、何段階もの層を経ることによって、高度に抽象的な思考が可能になります。

 

言語による思考では、割り切りが必要です。どこかの時点で白黒をはっきりさせる必要があるのです。分析、分割統治、二分探索などの単純化の手法をベースにして科学は発達してきました。コンピュータの世界は2進数です。しかしそれらを組み合わせることで、世の中のほとんどのものを記録し処理することができるのです。

 

全体を見据えながらも、小さな部分の白黒をはっきりさせ、それを階層的に積み上げて行くことで、人間や文明は発達していきます。

しかしながら、何事においても物事をはっきりさせたくないというのが日本人です。日本人と近代文明は、かくも相容れないものなのです。

 

言語の起源

〈脳と文明〉の暗号 言語と音楽、驚異の起源 (ハヤカワ文庫NF)

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学 (中公新書)

ソシュールを読む (講談社学術文庫)

カーニハン&リッチー『プログラミング言語C』を読む (KS)

複雑な問題を解くことができない日本人

現代は、複雑な問題を解ける能力が求められている時代です。それだけではありません。自ら課題を見つける能力も必要なのです。この点において日本は大きく遅れています。

 

国際的な学力を比較すると、日本人は単純な計算問題が得意ですが、文章問題になると、下から何番目という順位になってしまいます。

 

ノーベル賞を受けた物理学者リチャード・ファインマンが、ある時におかしな日本人に絡まれたことがありました。算盤の達人だというその日本人は、ファインマンに「計算で勝負をしよう」と言ったのです。簡単な計算では、そろばんを使った日本人の圧勝でした。しかし計算が難しくなるにつれて、その差は少なくなっていきました。最後に彼は、立方根での勝負を挑んできました。結果はファインマンの圧勝でした。

 

この日本人は、計算の手順だけは知っていました。ところが、数というものを全く理解していなかったのです。そのために、複雑な問題をどう効率的に解いていくかという所に頭を使うことができませんでした。ただ単に、できるだけ速くそろばんを弾く訓練だけを受けていた人だったのです。

 

このエピソードは、日本人が持っている欠点を浮き彫りにしています。機械的な単純作業を、延々と繰り返す忍耐力を持っているのが日本人です。その一方で頭を使う作業は苦手です。そもそも頭を使うという事が何なのかさえ、日本人は分かっていません。計算が速かったり、クイズ王になったり、詭弁を喋れる人間が優秀だと思っています。

 

彼らは、誰かが既に解いた問題を、速く解く練習はしていても、新しい問題に対してどう対処すれば良いのかを考えるのは苦手です。

速さで勝負できるのは若いうちだけです。だから多くの日本人は、40代になると使い道が無くなります。管理職となってあとは惰性で仕事をしていきます。しかしながら、知恵があれば異なります。機械的な速さはなくても、知恵によって的確な解決法を、効率的に導き出すことができます。結果としてアウトプットを出すのも速くなるのです。

 

日本人は他人の解答を盗んでくるのだけが取り柄です。あるコンサルタントはこんな経験をしたそうです。申し分のない学歴を備えた学生が入社してきました。ある課題を与えてみたところ、直ぐに結果を出してきました。ところがその根拠を尋ねたところ、「偉い先生がこの本でこう書いています。だからこれが正解です」と答えるのだそうです。「だからどうしてこれが正解だと思うのか」と訊いても同じ答えが返ってくるばかりです。新人から見れば「定番のテキストにこう書いてあるのだから、これが正しいに決まっているじゃないか。無駄なことをさせるな」と思っているわけです。日本の教育がどういう人間を生み出しているのかという実例です。

 

さらに日本人は、自ら課題を見つけることが不得手です。その代わりに些細な間違い探しにやっきとなります。

そういった「こうしなさい」というルールは上から降りてきます。下の人間はそのルール通りに動くというのが日本です。余計なことを考えたり、行動に移したりする人間は罰せられます。

 

日本人はこういった特性を持っているので、表面的なスペックを大事にします。学歴、順位、順番といったものです。その昔、ゼロ戦もスペック至上主義で作られました。広大な航続距離、最高速度、上昇能力、96式にも劣らぬ運動性能、爆撃機も落とせる重装備などです。犠牲になったのは、防御能力や機体の耐久性です。20mm機関砲だって、実戦ではほとんど役に立たず、「小便だま」と呼ばれていたのです。(初速が遅く質量が大きいため弾道が大きくそれてしまう)

大戦末期には、爆撃機をもとにして75mm高射砲を搭載した、キ109という迎撃機も作られました。一撃必殺でB29を撃ち落とそうという、キ○ガイじみた発想の産物です。

日本人は細かいスペックの数字だけを見て、そこで思考停止してしまうのです。統合的に考えることができません。ある大きな目的があり、そこからどうしてこのスペックが導き出されたのか。それらを実現すれば目的が達成できるのかどうか。そういった事を想像して検証することができないのです。

 

日本では脇目も振らずに、目の前の仕事に過集中することが求められます。人間がもっとも効率的に仕事ができるのは、適度にリラックスした状態においてです。しかし日本ではそれは許されません。創造力は「もっとラクは出来ないか」という手抜きから始まります。頑張り過ぎないことです。ただし他人に仕事を押し付けて中抜きをするということではありません。ネットの記事やテキストから正解を探してくる事でもありません。

常に万遍なく周囲を観察して、何が真の問題なのかを見つけ出すことが重要です。SNSで「日本は平和だ(日本は良い国だ)」と書いている人が散見されます。皮肉ではなく、まったく無邪気に、そう言っているのです。彼らは、彼らの目の前に山積みとなっている数々の課題を想像することができなかったのです。

 

今までの日本の成功モデルは、次のようなものでした。人を増やして、単純労働や兵役に就かせる。そうして工業製品を輸出し、さらに領土拡大で国を冨ませるというものです。そのために、僅か50年程度の間に、日清戦争日露戦争第一次世界大戦15年戦争ノモンハン事件と、次々に戦いを繰り返してきたのです。有り余る人的資源を、湯水の如く使い果たすのが日本のやり方です。

庶民にとっても、子供を産めば産むほど儲かる時代でした。女性は嫁にやるか、女工や女郎として売り飛ばせばカネになりました。ところが今日では、子供は不良債権になりかねません。こうした状況に敏感なのが日本人です。彼らが子供を作らないのも当然です。

 

こんなところからも分かるように、人命というのは、日本人にとっては紙っぺらのように軽いものだったのです。このような人間軽視の考えを抱き続ける限り、決して、再び先進国となることはできないでしょう。自律的に抽象的な思考が可能な人材が、社会に出てこないのです。その結果、衰退しているのが現代の日本なのです。

 

個性的で多様な考えを発想できる個人が、今は必要とされています。安易な模倣はイノベーションを駆逐します。誰かに頼らずに、まずは自ら考えてみることです。

 


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