kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

自閉へと向かう日本人

日本人は対人恐怖症が多いことで知られています。人々は常に他者の視線を意識します。「後ろにも目を持ちなさい」と躾けられたかの如く、迷惑を掛けないよう背後にまで気を配っています。こういったものが、皮肉にも自閉的な態度へと人々を向かわせます。

 

人は社会的交換をしながら生きています。社会活動に参加したり、働いたり、他人と話をしたり、モノを買ったりといった具合です。しかし日本人は社会と接しながらも、どこか自閉的です。

人々は不必要な接触を出来るだけ避けようとします。また、海外の人に見られるような自然な表情や親切心が無く、本心を押し殺した慇懃無礼さや、媚びた様な、あるいは詐欺師のような笑みを浮かべたり、逆に露骨に嫌な顔をしたり、心ここにあらずといった投げやりな態度で他人と接しています。 

小学生が横断歩道を渡ってお辞儀をしたりすると「礼儀正しい」と持て囃されます。しかし彼らは本心から感謝の気持ちを表している訳ではなく、「あら、えらいわね~」と近所の人に言われたり学校で教えられたりして、「こうすれば褒められる」という学習をしただけなのです。だから横断歩道で人が撥ねられて倒れているといった、教えられていない状況では、被害者をチラッと見ただけで、自分の世界に戻り、スタスタ歩き去っていくのです。

 

日本人が生きている世界が、常に「世間」という名の他人で占められていれば、自我を守る確固たる理念や信条を持たない限り、健全さを保てません。日本人の心には「世間」という大きな円の中に、辛うじて小さな「自分」という円があるようなものです。しかもその「世間」は複数あり、心の中で常時せめぎあっているのです。

 

世間の「視線」により自我が縮小すれば、ある時点から、それは「なすがまま」の状態になります。自分を持たず、まるで他人に操られているかのようなものです。スイッチを入れれば働き、切れば止まって大人しくなる機械です。

もし自分を守ろうとすれば、何所かに境界を設け、極力他人には関わらないようにして、自閉的な態度をとるようになります。その境界を越えられたと感じた時には激烈な怒りを表します。もし「身内」があれば、その中で暴君のように振舞う事で自我を保ちます。延々と続く社会的交換自体に意味を見出せなくなれば、自分を非難する「世間」の声から身を守る為に「引きこもり」になります。 

逆に、他人の「視線」を気にしなくて済むような立場になれば、今度は自我が拡大し、子供のような全能感を持ち傍若無人に振る舞い、極端な場合、「日本人は神の子孫」「日本は神の国」といった事を呟いたりします。

 

「境界」を作ろうとしても、日本人は外との境目が曖昧です。「日本が」「日本人が」という話題にも敏感に反応して、悪口だと感じれば、自分の事のように感情的に反応したり、思考を停止して無かった事にしてしまいます。

「境界」を作れないので、人々は世間に埋没することで安心を得ようとします。個性で目立ったり長所を伸ばすのではなく、世間が「普通」と称するイメージにそって欠点やミスを無くそうとします。外見も、似たような髪型やメイクアップで後ろ指を指されない無難なものを目指します。彼らは「完璧な人」や「金甌無欠揺ぎない国」というものが存在するかのように行動しています。

 

日本人には、中心となるような理想や考えも無ければ、安心して帰属できる共同体もありません。彼らは自分を保つ為に過去の偉大な「価値体系」にすがろうとすることもあります。それも危くなると妄想によって自分を守ろうとします。世界の人々に「日本はスゴイ」と噂されているとか、反対に、ある国の人々が日本の悪口を言っているといった、非現実的な世界観を抱きます。外から見れば、まるで「了解不能」な人々です。

 

まとめると、自分の中に中心となるものを持っていないこと、「世間の目」が自我の中に組み込まれてしまっていること、他人と自分との境が曖昧なことが、異常な行動の原因となっています。

 

現代において「世間の目」は、近隣社会や勤務先だけでなく、通勤電車の中や、新聞、TV、SNSなど至る所に存在します。日本人の不確かな自我は圧迫され続けています。

素朴な「村社会」で閉鎖的に暮す分には良かったのですが、近代社会となって日本人は問題を抱えるようになりました。だからこそこの国の人々は、国際社会に背を向けるような「自閉」を、今求めているのかもしれません。