kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

表面的なパターン認識しか出来ない日本人

日本人は何事にも正解があると思っています。「問い」と「答え」は必ずセットになっており、回答を出す「速さ」を競っています。「入試はウルトラクイズだ」と誰かが語っていましたがその通りです。予め先人が「問題」と「解答」の組み合わせを用意してくれており、それを暗記します。いちいち考えていたのでは時間切れです。一見公平性があるように見える試験でも、候補者に対しては事前に例題と模範解答が配られており、それを真面目に学習したかどうかが試されるのです。

 

「答え」が未だない問題、あるいはこれから「問題」を見つけて行くという分野では日本人は手も足も出ません。世の中の多くの事柄がそういったものなのですから、日本人が現実に上手く適応出来ていないのも無理からぬことです。既存のパターンは照合出来ても新しいパターンには対応出来ないのです。しかし彼らはそんな考えが浮かぶ事もなく、小さな箱庭で「勉強ごっこ」「仕事ごっこ」「我慢ごっこ」に興じています。しかもそれは、時に死に至るゲームなのです。

 

日本人というのはAというパターンを見せられたら、Bという回答を素早く繰り出す、その訓練をひたすら続けている人という事ができます。クイズ番組ではひたすら早くボタンを押して答えたものが勝利します。剣道の試合では竹刀の先っぽが、わずかコンマ何秒でも先に相手に触れた方が勝ちです。武術ではひたすら「形」の稽古が行われます。こうして「無我の境地」で何も考えずに速い技を出せるようになる事を理想とします。

 

学生は試験の当日まで学習した事を覚えていますが、試験を過ぎると「こんなものは一刻も早く忘れて遊びたい」とばかりに忘却に努めます。つまり日本人にとっては学習する内容に意味はなく、ただ言われた通りの事を覚え込み、事が済めば全てをクリアするという優秀な機械になる事に意味があるのです。まるで揮発性メモリです。仕事をする為に部屋いっぱいの書類に書かれた文字列や数字を短期間で覚え込み、終わればそれを頭から消去する、そんな人が優秀と呼ばれます。

昔から以下のような事が言われて来ました。

「大学で習ったことそれ自身は何の役にも立たない、習ったことをすっかり忘れてしまった頃になって初めて一人前の役人なり会社員になれるのだ」 

日本人の多くにとって、受験までに努力した事は何かしら意味があっても「教育機関としての大学で何が得られるか?」などはサラサラ興味が無いのです。言われるまでもない事です。

人々は社会人になった後でも例えば「夏休みの宿題をドリルから始めてどう効率的に片づけたか」や「日常生活の全てを受験のトレーニングとして考えた」とか、予備校の話をしたりしますが、その一方で、大学で何を専門的に学び、研究し、(卒論があれば)どんな卒論を書いたかといった話はまずしません。例え専門が違い、共通の話題になり得ないにせよ、奇異な感じがあります。

代わりに「講義をサボりながらもノートを借りてAを取った」とか「どんなサークル活動に明け暮れたか」や「いかに多くの女をこまして孕ませたか」、はたまた「テニスサークルに居てサルのように女とやりまくった」といった話をします。

 

こういった人達から構成された国が、過去や歴史から学べないのは当然です。ほとんど全てを忘却の彼方に放り投げ、過去をしつこく尋ねてくる奴には、決まり文句を脊髄反射で投げつけます。日本の賢者とは、歴史や経験から学ぶのではなく、過去を都合よく忘れ去る事ができる人達なのです。

昔、要塞を攻略する為にひたすら正面からの突撃を繰り返し多大な戦死者、負傷者を出した将軍がいました。マシンガンが初めて本格的に使われた戦争だったとはいえ、酷い話です。芥川竜之介はこんな文章を残しています。

「後にある亜米利加人が、この有名な将軍の眼には、Monomania じみた所があると、無遠慮な批評を下した事がある」「将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝いた。 『斬れ! 斬れ!』  騎兵は言下に刀をかざすと、一打に若い支那人を斬きった」「穂積中佐はもう一度、そっと将軍へ眼を注いだ。すると日に焼けた将軍の頬には、涙の痕が光っていた。『将軍は善人だ。』――中佐は軽い侮蔑の中に、明るい好意をも感じ出した」

「モノマニア」とは「偏執病」「パラノイア」の事です。敵意のこもった妄想に囚われるといった意味で使われています。確かに日本人のほとんどにも「モノマニア」じみたところがあります。

また、海戦で空母三隻を一気に失った際、連合艦隊司令長官が「おぅ、三隻もやられたか…」と言いつつ将棋を指し続けたというエピソードがあります。この国では、何が起こっても平静を装い、あたかも初めから何も無かったかの如く、責任も取らない人物が「大物」として評価されます。

 

こんな具合に、日本人は歴史から学ぶどころか、愚者を英雄として祭り上げるぐらいですから、何時までたっても同じ失敗をし続けるわけです。過去も未来も考えず、今に生きる、ラクチンな人生ではあります。

マッカーサーは日本人を精神年齢12歳と評しましたが、いまやそれどころではありません。小学校低学年程度の思考しか出来ない人ばかりです。これは誇張ではありません。本当に考える事が出来ないのです。彼らは全く自分の意見というものを持たず、何処かで聞いたような話を組み合わせているだけなのです。彼らの頭の中身が投影されたかのように、この国の社会の仕組みや景観は、いかにも醜いモザイク状になっています。

ある狭い社会の範囲内なら、「師匠」と「弟子」の間で、型にハマった奇妙な珍問答を繰り返していても微笑ましい限りで済みますが、これが政治や経済にまで及ぶとなるとそれでは済みません。

 

多くの場面で人々は頭を使おうとしないのです。情緒的な事を喋る範囲なら未だしも、いざ仕事となって理屈を扱おうとすると問題が発生します。彼らは「生きて目の前にいる」人間の「問い」を、何かのパターンに当てはめて答えようとするのです。そのため、紋切り口調でおかしな屁理屈ばかりを聞かされることになります。まるで出来の悪いチャットボットと対峙しているかのようです。

例えば何かについて論じていて「負けそうだな」と感じると、次々に論点をずらして話題を発散させ、その何処かで相手を遣り込めようとします。あるいは、深い穴を掘るようにどんどん狭い範囲の奥底まで追求し、またまた何処かで相手を負かす機会を伺っています。

彼らは、相手が過去に用いた論法や言葉を用いて逆襲することで、相手に痛烈な打撃を与えられると信じ込んでいます。反証をひとつでも挙げられれば「論破だ!」と叫びます。

自身の過去の言動を咎められても、「いや、自分はずっと同じことを言って来た、俺には間違いは無かった」とウソを織り交ぜながら執拗に認めるのを拒みます。

依頼してきた仕事の妥当性を尋ねると「~ならば~しなければいけませんよね」というような原則論で答えてきます。

 

さらに悪い事に、こうした人々はネットを探せばそこに全て解答がある、情報ソースがあると信じ込んでいます。彼らは今日もネットを覗いては、相手を叩き潰す為の決まり文句や屁理屈のタネを拾おうとしています。救いようがありません。

日本人が議論でやっていることは、何も建設的なものがなく、ただただ、自分の体面を保つために相手を遣り込めるだけなのです。議論しても何も変わらず、単に「上下関係を確認する場」となっています。筋の通らぬ話に堂々巡りで、他人の時間を奪う事になんの罪悪感も抱いていません。

 

映画「シンゴジラ」で官僚たちが早口で丁々発止のやり取りをする場面を観て、人々は「あれこそが日本を支えている優秀な人達なのだ」といった感慨に浸ります。話している内容はどうでも良いのです。ただ座頭市のように、バッサバッサと素早い剣さばきで相手を切り捨てる、そして決して負ける事がない、それこそが日本人が理想とするインテリジェンスを備えた人々の姿なのです。

表面だけを見て、そして表面だけを真似して、最後は情緒で納得する。どこまでいっても日本人には「考える力」がありません。「人間は考える葦である」、しかし日本人は「踏みにじられる葦」に過ぎないのです。

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