kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

スペシャリストにもジェネラリストにもなれない日本人

日本人は無能です。どんな仕事にも通用するやり方を身に着けているのでもなく、専門的なスキルもありません。彼らはいったい何ができるのでしょうか。

 

本来ならば、大企業がスペシャリストを抱えているものなのです。反対に弱小企業では、専門家を雇う余裕がないため、何でもこなすジェネラリストばかりとならざるを得ません。

ところが日本では逆なのです。官庁や大企業では高給を得るジェネラリストが大勢います。業務に特化した従業員は、給与が低かったり、業務自体が外注だったりします。外注された企業は、さらに小さな会社のスペシャリストに頼ります。けれども、ろくな給料も払えないような弱小企業に、質の良いスペシャリストが存在するわけがありません。

 

能力は低いが、人が居ないので何でもこなさないといけない。素人に近いので給料も低い。それがジェネラリストです。高度な知識と能力を備えた専門家は、養成するのにコストがかかっていますから高給です。低い能力しかない専門家というのは、存在自体が矛盾しています。反対に、能力の高いジェネラリストは滅多にいません。それを求めるのは、スーパーマンを探すようなものです。

 

日本では、出身校を聞けば、どの程度の人間であるのかが直ぐに分かるようになっています。偏差値によって見事に人々が輪切りにされています。

日本には人格的に陶冶された人間がいません。ですから人を測るには学力しかありません。学力が高くても、本当に基礎能力が高いのか、単に試験勉強に特化した能力なのかは不明です。けれども「環境に順応しやすい人間だろう」という推測はつきます。

そういった学生を囲い込み、カネをかけて無能なジェネラリストを育てています。考えても見てください。何をやらせても上手くできる「なんでも屋」がそこかしこに転がっている訳がありません。ほとんどは役立たずにしかならないのです。しかしそんな連中であっても、「スペシャリスト」にだったら成れるかもしれないのです。

彼らは数年で部署を転々とさせられます。前任者の申し送り事項を尊重しながら、そこに新しいものを付け加えて、さらに跡を濁さずに異動するのはなかなかに難しいことです。多くの人間は、与えられた期間を失敗しないように過ごすだけとなります。

 

明治時代において為政者は、欧米に追いつこうと試みました。そのために能力のありそうな若者に多額の投資をして、欧米の学問を身に着けさせたのです。彼らは重要なポジションを転々として、人々を指導しました。彼らに国の命運を賭けるしかなかったのです。

明治政府は、すべての人間のレベルを高めることは目的としませんでした。あくまでその場しのぎの教育システムであり、人材登用のシステムだったのです。「富国強兵」の名の通りに、大量の兵隊を使って「国」を富ませるというものです。個人の人権などはどうでも良かったのです。有能な人間かどうかは「国家の役に立つかどうか」で決まりました。そのために、人間を早い段階で見定める必要があったのです。即席栽培のエリートが必要だったのです。

こういった価値観は個々人にも浸透していきました。いったいに日本人は、人を見切るのが早い傾向があります。潜在的な可能性を考えてみようともしません。人生の一時期における試験で、将来を決めてしまうのです。運良く地位を得たとしても、一度失敗すれば終わりです。

 

「日本人は就職ではなく就社をするのだ」とよく言われます。本来ならば、入社をする前に、雇用契約によって、どこで何をするのかが明確に定められるべきです。

ところが日本で行われているのは人身売買と同じなのです。いったん雇用されると、どこで何をやるかは人事の意向次第です。かといって簡単に辞めることもできません。

 

企業に欠員が出たら、代わりとなる優秀な人材を外部から補充します。これが雇用の流動性が確保されている状態です。ところが日本には、在野に優秀な人間などは存在しないのです。「優秀な人間」は新卒採用時に役所や大企業に吸い上げられてしまいます。そして彼らを「なんでも屋」にするのです。彼らは経営者ですらありません。言ってみれば、その会社に精通した万事屋です。

 

一方で専門家は、勝手に生えてくる雑草のようなものです。使い潰しても、いくらでも代わりが見つかると思われています。

日本が求めているスペシャリストとは、特定の業務に慣れているというだけの人々です。単に工作機械の操作に慣れている労働者と同じことです。10年も経てば淘汰されてしまうような存在です。低い給料でひたすら搾取されるだけの人々です。

彼らは単に言われたことを、とことんまで突き詰めるだけの人です。眼の前に差し出された課題を解決するのに夢中で、それが何の役に立つのかを考えてみようとしません。例えば、役所のエクセル方眼紙を見てください。あるいは無駄に多機能を誇る使いにくい家電です。あれが日本人のスペシャリストの仕事というわけです。

多大な労力が込められているのは分かります。しかしそれが交換価値に全くつながっていないというのが日本の特徴です。

 

日本では、エリート教育と兵隊教育が混在しており、どちらも成功していません。大学教育は何の役にも立っていないと企業人からそしりを受けています。奴隷教育の中から這い上がってきた要領の良い連中を、日本では「優秀」と称しているのです。

いくら試験制度を変えてみたところで、日本の受験生は表面的な勉強しかしません。

英語教育を何年も受けているのに、実際に使えるようになりません。彼らはいったいどういうつもりで勉強をしているのでしょうか。もちろん試験でいい成績をとる為だけにです。彼らは本質を掴むことができない人たちです。人生の意味について考えたことも無い人々です。

 

日本人はいつも見かけだけを大事にします。仕事でも相手をうまく丸め込むような「説得力」や「コミュニケーション能力」があることが大事です。事の良し悪しなどは関係ありません。詐欺師と良く似ています。それっぽいこと、もっともらしい事を言えることが大切です。

もちろん、このような教育や社会でも、本当に優れた人たちは一定の確率で存在します。その中には大志を抱いている人も少しはいるでしょう。しかし日本では、報酬を得られるのは老人になってからです。カネだけではなく、仕事上でもです。若輩者はどんなに優秀であっても下働きから始めなければなりません。これではモチベーションが湧きません。

 

また日本では、信じられないようなレベルの人間が重要な地位について、重要な決定をしていることがあります。自身の無能ぶりを恥じるようなタイプではなく、そもそも無能さに気づくことがないのです。周りが手厚く支えてくれるからです。そして数年で異動していきます。そのために、数年毎に同じような検討が繰り返されます。「いったい何十年検討を続けているのか」というプロジェクトがあります。

 

日本は、徴税人やカネ勘定をしているような人々が敬われてしまう社会です。素人会計士が国の行末を決めているようなものです。しかもそれに輪をかけて無責任な連中です。給付金を間違って振り込んだら、振り込まれた方を悪者に仕立て上げるような人たちです。

かといって多くの日本人は、自分では何も決められません。何でも上にお伺いを立てるような人々です。子供と同じです。

無能なリーダーのもとでは、いくら仕事ができる人々を揃えても無駄です。指導者のレベルを決して超えられないからです。無能な管理者が日本を駄目にしています。

民間企業はあいも変わらず安物の薄利多売で儲けようとしています。パンデミックや戦争で資源の価格が上がると、安物の利益はあっという間に吹き飛んでしまいます。右往左往をしながら国に泣きつきます。

 

人を変えるには教育しかありません。ひょっとすると昔の教育、例えば江戸時代の教育の方が優れていたのでしょうか。そんな事はありません。ただし現代は情報が多すぎるので、何が大事なのかを良く見極めなければならないのです。そうでないと、じっくり物事の本質を考えている暇がなくなるのです。

もし昔の日本の教育で役に立ったものがあるとすれば、それは漢籍素読でしょうか。声に出して読むことで、音声と視覚的な記号、そしてイメージが結びつきます。仮に日本人から漢字を奪ったら何が残るでしょうか。抽象的な思考が全く不可能になることでしょう。現代の教育における数学の重要性も、記号と抽象的イメージの結びつきにあります。

 

表面的な知識や浅薄な技術ではなく、深い理解を持った人間を養成すること。日本的なシステムを作り変えること。そして真に優れた人間を登用すること。こういった事をしなければならないのです。

しかるに現在の日本では、三流官庁が教育内容を決めています。国民はと言えば、先進諸国の中でもとりわけ学力の低い人達なのです。これではお先真っ暗です。

 

単純に、能力のある人間が統治をすれば良いというものではありません。求められる能力も変わってきています。けれども日本は旧態然のままです。システムも人間もガラパゴス化しています。

そもそも「ベスト・アンド・ブライテスト」が役人を目指すなんておかしな話ではありませんか。人の流動性が悪い小さな島国では、容易に因習や奇習がはびこります。

絶えず新しい血を受け入れ、自らを変えていかなければなりません。自らの無謬性を信じ、ヒト、モノ、カネを全て支配しようとする組織に未来はないのです。

 

高い地位に、しかたなくしがみついている人達も多いのだ。というのも彼らは、そこから降りようとすれば、転落する他はないからである。

常に自分の出世の上限を決めておくことだ。(中略)自分から辞めるのだ。(中略)賢者は運命を恐れる理由などない。(中略)返却を求められれば、文句も言わずに返すことであろう。(中略)良い死に方を知らぬものは、みな悪い生き方をするだろう。

「こんなことが起きるなんて思いもしなかった」「こんなことになるなんて信じられますか」ーもちろん信じられる。どれほどの富であっても、その背後には貧困と空腹と物乞いが付き従っているではないか。(中略)どれほどの王権でも、崩壊と蹂躙と新たな君主と処刑人が待ち受けているではないか。

セネカ『心の安定について』

人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

精神指導の規則 (岩波文庫)

新装版 人物を創る (安岡正篤人間学講話)

難局の思想 (角川oneテーマ21)

成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ (ちくま新書)

超一流が実践する思考法を世界中から集めて一冊にまとめてみた。

休むことを許されない日本人(意味のない規則に縛られ続ける日本人)

日本人は休むことを許されません。搾取され続け、子供を奴隷として育て上げたあと、虚しく死んでいきます。しかし彼らは、死ぬ寸前までそれに気づきません。なぜ日本はこれほどまでに異常なのでしょうか。彼らを待ち受ける未来は、どのようなものでしょうか。

 

通販で安い買い物をすると、届いた荷物に手書きのサンクスカードが入っていることがあります。まるで千羽鶴や千人針が届いたかのような気味の悪さがあります。従業員が笑顔で写っている写真が入っていることもあります。

日本製品も少なくなってきていますが、「日本でひとつひとつ丁寧に検品をしています」と誇っているものがあります。輸入しているんだから、日本側で検品をするのは当たり前です。「日本人が頑張っています。だから買ってください」なんて通用しません。

 

意味の無いところで精神力を発揮して頑張るのが日本人です。その頑張りに対して、称賛で報いることを強制されるのです。「日本の売り」は、今も昔も精神力です。

 

暑さのなかで、休もうとベンチを探すと、座面に突起が付いています。「横になって寝るな」と言っているのです。最近はホームレスを見かけることが少なくなりました。河川敷で小屋を作って住んでいる人もいません。あの人達はいったいどこに行ったのでしょうか。うかうかしていると汚染地域での重労働が待っています。

 

この国の人々は、都合の悪いものを消し去ってしまうのが好きです。汚いものを始末して、表面だけを綺麗に見せかけています。自分自身を洗脳し「日本スゴイ」と言い続けています。リスクを全く考えようとしません。だからリスク管理も下手です。

帝国海軍における図上演習では、都合の悪いことが起きてしまうと無かったことにしました。想定していた結果が得られるまで、演習をやり直したのです。

昔の陸軍大学、海軍大学は難関でした。学業優秀なだけでなく、心身ともに健康であり、推薦も無いと入れなかったのです。晴れて士官となれば、皆が敬ってくれました。夜の街に繰り出せば、豪勢な食事、酒、オンナを心ゆくまで楽しむことができました。まさに当時の「ベスト・アンド・ブライテスト」が集まっていた所なのです。

どうやら、リスクを考えない、悪いことを考えないというのは、日本人のDNAに刻まれた呪わしいサガのようです。

 

日本人は周囲の目を気にする臆病な連中ですが、悪い結果を予想をして対策を打つことは許されません。口にすることさえはばかられます。ひたすら良い結果を信じて頑張り続けなければならないのです。休むのは大罪です。結果はどうでもいいから、頑張っている姿を見せるのが大切です。

 

日本は急激に貧しくなっていますが、日本人は対策を何も考えていません。けれども胸の奥にある不快感は、どこかで解消する必要があります。それがイジメやSNSでの陰湿な書き込みとなって現れます。

それほど露骨ではなくても、彼らは細かいルールを作って、他人に影響を及ぼそうとします。細かい「ゴミの分別を守れ」とうるさく言い続けます。違反する者がいないか、相互に監視しあっています。

違反したゴミを回収せずに残し、汚い暴言を書いています。それを正義だと勘違いしています。やっている事はSNSの書き込みと変わりません。

彼らはゴミの日がやって来るまで、腐臭を放つ生ゴミを家の中に溜め込みます。不衛生極まりません。一枚数十円もするゴミ袋を買い、遠いゴミ集積所まで歩いていきます。これが健康で文化的な生活なのでしょうか。そもそも、人力に頼って環境保全ができるものでしょうか。

 

子供は小学生になると重いランドセルを背負って、学校へ通います。中学生になると部活が始まります。土日も関係ありません。そして受験勉強です。けれども最も学ばなければいけない大学では、ろくに勉強をしていません。

子供は「不純異性交遊はするな」「髪を染めるな」「色気づくな」と言われますが、成人になった途端に「所得の低い男と結婚して子供を産め」と言われます。

 

矛盾したルールでも従うべしというのが日本の社会です。常にルールを守ることに没頭して忙しそうにしていないといけません。そうすれば教師も親も目を細めて喜びます。日本人の感覚は病的といえます。子供は、親や教師、経営者、役人、政治家など、さまざまな人々の欲望を満たしてあげなければいけないのです。

 

ルールや法律は、もともと自然に備わった理(ことわり)から生まれるものです。理性を備えた人間が納得できるものであるべきです。万人が合意した法が、実定法として形になるのです。

しかるに、法の意味を履き違えているのが日本人です。「皆で決めたルールだから」と言いますが、その実、誰かの都合の良いように作られたムラの掟に過ぎないのです。上位の理念や規則がないがしろにされる一方で、末端の規則は重要視されます。なぜなら、それこそが彼らが本当に望むものだからです。それらが、本質において矛盾しあっていても平気です。

明治に、日本が高度に中央集権化されたことにより、民から搾取し利益を食む利害関係者が増えました。本来なら民は、法に守られるはずでした。しかしそうはならなかったのです。

 

ムラ社会のお偉方で利益を分け合うという目的で、複雑なルールが作られています。あるいは単に、「上の者に従え」という威光を示すためのルールもあります。「俺に従わないと、何時でもムラから追い出せるんだぞ」というわけです。もっともらしい説明がついていますが、邪悪な意図は隠せません。

こうしたルールを素直に守れるかどうかが大切です。日本人は常にこうした「踏み絵」でもって、組織への忠誠心を試されているのです。それを止めた途端に、社会的な死が訪れます。

 

日本人は理想や理念が大嫌いです。「そんなことを言ったって現実は違うようなぁ」というのが日本人の態度です。ただし、似たようなものが効果を発揮する場合があります。威光です。「偉い人がこういっている」と言うのです。いわゆる錦の御旗です。憲法改正もそういった効果を狙っているのです。

 

上に述べたのとは逆に、日本人は具体的なものを好みます。現世での利益を望みます。天国だとか、徳を積んで死後に報われるという話ほど、日本人の考えから遠いものはありません。反対に、地獄の描写は昔から妙にリアリティがあります。そういった拷問や苦しみは、まさに日本では現実のものだからです。

 

日本人は蛮人です。その本質は変わっていません。表面上の仕組みは変わっても、日本は専制政治の社会です。しかも史上稀に見るほどの残虐さを持っています。アメとムチの両方で民を飼いならすのではなく、ムチしか用いません。

彼らは、他人を純粋に褒めるという事を滅多にしません。上の者への追従や、仲間外れにされないために褒めるだけです。

 

しかしいくらムチを振るっても、民は慣れていきます。日本では、感覚の鈍い人間だけが生き残ります。視野が狭く強情です。そういった連中を律するには、さらに残虐な方法をとるしかないのです。

アメとムチであれば、バランス良く、その間にある理想的な状態へと民を導くことができます。民も健康的なレジリエンスを持つようになります。これが本当の国民の力となるのです。大和魂とは異なるものです。

 

ムチばかり与えられる日本では、暴力がエスカレートしていきます。こうして日本の野蛮性が進んでいきます。表面は文明国家のように見えますが、至るところで、精神的に物質的に人々を追い詰めるシステムが出来上がっています。しかも限界がありません。人々は自分を縛ることで耐え続けます。時々、アルコールやイジメで憂さ晴らしをします。やがて、内に秘めた不満が大きな形で暴発します。それが外国に対する敵意や争いとなって現れてくるのです。

日常的に暴力を振るわれている日本人は、それを内在化してしまうのです。

 

このようなメカニズムが日本人の行動を定めています。日本の歴史は自閉と攻撃の繰り返しです。いずれも暴力であり、方向が変わっただけです。

日本人には心が休まる時間がありません。彼らは平和を知らないのです。結局のところ、暴力でしか社会的な関係を築けなかった人々なのです。

 

法の精神 上 (岩波文庫)

法哲学

ビバリウム(字幕版)

オールド(字幕版)

SWALLOW/スワロウ(字幕版)

生きる

グッバイ、リチャード!(字幕版)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

日本人を搾取しているのは誰なのか

日本を貧しくしているのは誰なのでしょうか。外国でしょうか。資本家でしょうか。悪徳政治家でしょうか。それとも怪しげな秘密結社なのでしょうか。

 

まず日本の働き手が置かれている状況について考えてみましょう。

会社が利益を得るには、次のような方法があります。従業員を長く働かせる。生産効率を上げる。革新的な生産手法や新しい商品を生み出す。この3つになります。

 

他の国と比べて、日本人は長時間にわたり労働をしています。最近はみなし労働時間制も増えてきました。あらかじめ残業することを見込んで、固定の残業手当を会社が支払ってくれるです。「なんて良い会社なんだ」と考えてはいけません。基本給を減らした分を残業手当と称しているだけなのです。

しかし不思議なもので「残業手当をあらかじめ支払います」と言われると、残業をしないと申し訳ないように思えてくるのです。定時でそそくさと帰っていく人は一人もいません。たとえ末端の労働者であっても、「自分で仕事量を決めている」という実感があった方がやる気がでるのです。ただし「仕事が終わったので早く帰ります」というのは許されません。でも「自分が納得が行くまで残業をしました」というのならば、自分も満足するし、雇う側も喜びます。客だって喜びます。かくして長時間労働が常態化します。

 

最近はIT化やデジタル化の恩恵で、今までは出来なかったことが可能となりました。仕事がラクになると思いきや、却って忙しくなりました。昔はひとつのプロジェクトに専任するというのが普通でした。しかし今は、プロジェクトAが30%、プロジェクトBは30%、プロジェクトCが40%といったように、社内でも仕事を掛け持ちするのが普通になってきています。より短いサイクルで納品して早く売上もあげなければなりません。

 

会社の利益をどう増やしていくかというのは、経営者が考えることです。ところが今では、末端の労働者もそれを考えなくてはいけません。技術者といえども、業績目標として売上や利益率の拡大が課せられています。

将来、経営者になる可能性があるならまだしも、そんな可能性が全く無い人も、自分たちのコストを下げて成果を増やすことに一生懸命です。

機械化を進めて生産効率を上げれば上げるほど、労働者のスキルは陳腐化し、近い将来にクビになる可能性が高まります。それでも目の前のニンジンを求めて頑張らなくてはいけないのです。

 

能力があり、評価されている労働者は「俺たちが納めた税金で貧乏人が楽をしている」と考え、手当を受けている失業者を嫌悪します。自分の代わりとなるような存在は、徹底的に叩き潰す必要があります。将来にわたり、決して自分たちの脅威とならないようにです。でも、彼らだっていつクビになるのか分からないのです。

 

日本は基本的に護送船団方式です。もっとも生産効率の悪い企業に合わせるのです。そのために日本は、先進国の中でも一番効率の悪い国となりました。それなのに安売りをしています。それを続けるためには、労働者の生活コストを下げる必要があります。「健康で文化的な最低限度の生活」水準はどんどん落ちていきます。

 

国はなんのためにあるのでしょうか。政府は、資本主義経済が必然的に抱えている矛盾を是正する必要があります。時代遅れの企業は退場させなければなりません。格差が拡大しないように富も分配しなければなりません。そうしなければ、社会が不安定になったり、恐慌が起きたりするのです。

けれども、法人税を高くすると企業が外国に逃げてしまいます。そのために法人は優遇します。その代わりに庶民から税金を取り立てることになります。こうして国民は貧しくなっていくのです。

 

民間企業は利益を追求します。他の企業との差別化を図る必要があります。効率化やイノベーションによって、シェアを拡大したり、新しい市場を開拓するのです。企業がハイブランド化すれば、コストを下げながら自ら供給を制限して、利益率を高いまま維持することもできます。

公務員はどうでしょうか。同じです。彼らも利益を追求しています。他の省庁よりも抜きん出て、自分たちの省益を最大化するように動きます。

ところが税収が一定だと、他の省庁はそれだけ予算が減ってしまうことになります。これではゼロサムゲームです。そうならないように、税収を毎年増やしていく必要があるのです。その点で全省庁の利害は一致しています。省益を拡大し、さらに増税を成し遂げた者が評価され出世していきます。組織をひたすら増殖させることが目的となっているのです。

 

こうして、国民の為に存在していたはずの組織が、国民を搾取するためのシステムとなるわけです。誰かの陰謀ではありません。仕組み的にそうなってしまうのです。

普通の民主主義国家では、国民がそうはならないように牽制をします。圧力団体や、国民に選ばれた政治家がそれをするのです。ところが日本の政治家は国民に雇われているのではありません。給料は国からです。しかもその額は役人が決めています。

企業にとっても、本来、労働者が貧しくなるのは本意ではないはずです。モノだって売れません。低賃金で雇えるはずだった外国人も、最近は日本に来るのを嫌がっています。とはいえ、税率を決めているのは役人です。何をすべきかも役人が決めています。いちいちお伺いを立てなければいけないのです。

銀行にしても、どこに巨額の融資をするのかを自分達だけでは決められません。融資先を決めるのは役所です。回収は自己責任です。これでは資本主義経済が健全に回っていくわけがありません。

役人には「国のために」という使命感があります。政治家への説明も、答弁書作りも、そのためにやっているのだと思えば頑張れます。「ここで手を抜いたら後で大変なことになる」という責任もあります。若手であっても、経営者や偉い学者が頭を下げてやって来ます。役人は腰が低いですし、目立とうともしません。周りが勝手に敬ってくれるので、そうする必要がないのです。

 

もっとも役人だからといって、自動的に偉くなるわけではありません。また、カネを持っている人間が偉いのでもありません。最上位の権威に近い人が偉いのです。権威によって任命される人々はもっとも高位の存在となります。そういった人々に近いかどうかで、自分たちも利益を得られるかどうかが決まります。将来も安泰です。皆が頭を下げてくれます。この方が、一時的なあぶく銭よりも余程大切です。しかしこれとは別に、非公式な最上位もありますので、生きていくにはバランス感覚が必要となります。

 

日本は、民主主義国家、資本主義国家を標榜していますが、実際のシステムは違います。資本家であっても搾取される存在です。企業は税金を負けてもらったり便宜を図ってもらう代わりに、所有する力の多くを明け渡し、彼らの言いなりになります。大企業や銀行であっても、上位の意向によって廃業したり合併したりします。飛ぶ鳥を落とす勢いだった社長でも逮捕される可能性があります。

 

本来ならば、利益を生み出せなくなった企業は退場となるのが普通です。しかし日本は違う仕組みで動いています。他の文明諸国とは異なるやり方で、富を吸い上げ、分配するシステムとなっています。しかしその仕組みもいずれ破綻する時がやって来ます。

 

日本人は低賃金で長時間働き、子供を作り身を削りながら次世代の労働者を育てることを期待されています。効率化が進む程に失業者も増えていきます。将来改善される見込みはありません。それでも耐え続けて上の権威に従わなければなりません。日本人の美徳です。

現在の状況は、彼ら自身が選び、それを受け入れた結果に過ぎないのです。

財務省人事が日本を決める

資本論 2 (岩波文庫 白 125-2)

マルクスる? 世界一かんたんなマルクス経済学の本

ドキュメント 銀行 金融再編の20年史─1995-2015

官僚に学ぶ仕事術 最小のインプットで最良のアウトプットを実現する霞が関流テクニック (マイナビ新書)

ビバリウム(字幕版)


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未来に希望を抱けず貧しくなっていく日本

日本では貧乏人が増えています。「自分は貧乏じゃないからいいや」と呑気に構えている場合ではありません。日本人の平均的な生活水準が下がると、巡り巡って、人々の給料も減っていくのです。

 

経済は人々が抱くイメージによって決まるところがあります。「軽自動車で充分」「昼食は500円の上げ底弁当でいい」「家は狭くて安い賃貸でいいや」「スーツはポリエステルの安いもので我慢」「子供を産むのは控えよう」と皆が思っていると、それが当たり前になってきます。生活を維持するのに必要な平均コストが下がっていきます。給料は、社会的な通念により決まっていきますので、やがて給料も下がっていくのです。

 

大卒者の1年目の給与は、ここ30年くらいで、ほとんど変わっていません。小さな会社だと、そこから上がることもありません。払う側は、「支給額20万円で生活ができるよね?」と言っているのです。

 

その他に税金があります。30年前に消費税が導入されて以来、税率は上がる一方です。1990年代後半に消費税が5%になった時に、「一時的なものに過ぎないだろう」と思った者は誰もいませんでした。それどころか「これからどんどん税率は上がっていくだろう」と思っていたはずです。人々の無意識に与えた影響は大きかったのです。

単にお酒やタバコの値段が上がるだけなら「仕方がないか」という気持ちにもなります。しかし給料が減らされたら「仕方がない」とは行きません。「20万円の給料を来月から一律18万円にします」と言われて納得がいくでしょうか。増税はそれと同じような影響を与えるのです。

 

消費税はあらゆる取引きに顔を出します。嫌でも意識せざるを得ません。手に取った商品に価格が表示されていても、実際にレジで払う段階になると「やはり高いな」と感じます。これが毎日繰り返されるのです。

元請けが請負契約で下請けに発注したとすると、消費税を含んだカネを支払うことになります。下請けが孫請けに発注すると、また同じようなことが繰り返されます。日本のように多重下請け構造が蔓延している社会では、それだけでもコストが割高になります。国としては税収が増えて嬉しいでしようが。

増税分を社会保障に充てるといっても、働き手がどんどん貧しくなれば国は立ち行かなくなることでしょう。

 

日本の製品が売れなくなっています。同じ商品を作り続けていても、そこから得られる利益はどんどん下がっていくのが普通です。昔のテレビは、立派な木組みで作られた家具のようなものでした。天板にはカバーが敷かれていました。そのうちに、家にテレビが何台も在るのが普通になりました。今では動画が、スマホタブレットで観れますので、テレビそのものを必要としなくなってきました。テレビ局の予算は削られ、コンテンツも貧弱になっています。ますます見る人が少なくなっていきます。

 

日本は長時間労働をいとわない安価な労働力を使い、安いわりには品質がいいという商品を大量に売りさばくことで利益を得てきました。「カイゼン」により、生産効率を上げれば上げるほど、利益率もあがったのです。

ところが陳腐化してしまった大量生産品では、買ってくれる人がいません。利益率の良い高級品に移行したいところですが、日本にはそういったセンスやノウハウがありません。利益を生み出す新しい商品を開発しなければなりません。しかるに日本は、研究開発費をケチったのです。

 

現代では、目に見えない資産や仕組みが重要になっています。けれども日本人は、そういったものが苦手です。新しいアイデアや理念を生み出し、素早くモックアップを作り、顧客に提供するといったやり方です。

今までとは全く違う新しい付加価値のある商品を、素早く提供しなければなりません。そのためには、プロジェクトに応じて組織を組み換え、終了したら即解散しなければならないのです。ところが日本の労働者はプロフェッショナル意識が低く、たんに会社に所属しているだけの人達なのです。労働者の流動化が進まず、利益を生み出さない人材が大企業の中に滞留しています。「がむしゃらに働け」といっているのではありません。「もっと頭を使え」ということです。

 

日本の経済のなかで、自動車産業が占める割合は未だに大きいままです。ガソリン自動車や燃料電池車に固執していますが、電気自動車へと進む時代の流れは変えられないでしょう。

今は充電時間に問題がありますが、そのうち技術的に解決されるでしょう。「なんだ、ガソリン車なんかより電気自動車のほうが全然安く済むじゃないか」と消費者が思う日がやって来ます。日本は長距離を移動すると、高いコストがかかるようになっています。近場の移動だったら電気自動車で充分です。

クルマは電気製品となり、調子が悪くなったら、アセンブリ交換するか買い替えるようになるのです。面倒なメンテも不要になります。クルマもコモディティ化していきます。

 

日本はこれからどうやって国民を食わせていくのでしょうか。農業しかありません。食うことができるというだけでなく、陳腐化することのない商品だからです。

それなのに日本は「投資立国」を目指していくというのです。投資のセンスなどが日本人にあるのでしょうか。良い投資物件があったとしても、経営センスがありません。それとも、今までと同じように海外工場からの利子や配当で食っていくつもりなのでしょうか。

加えて庶民も、貯蓄ではなく投資をするように勧められています。「退職金といつ貰えるか分からない年金じゃ食っていけないから、FXでカネを増やそう」なんて人がいるのです。悪い夢を見ているかのようです。貧乏人が増えれば、我々全員も貧しくなるのです。

 

そもそも、自分では何も生み出さずに投機で利益を得ようなんて、道義にもとります。他国の経済に寄生しようというのです。悪質なタダ乗りのようなものです。

食うのにも困るようなレベルの人材ばかりで、「カネだけはあるんです」なんておかしいでしょう。世界の人々が「日本は大丈夫なのか?」と訝しがる日がやってきます。

 

国民の多くも「今日よりも明日」「今年よりも来年」と確実に悪くなるだろうと感じているはずです。もともとケチな人たちでしたが、さらに警戒するようになってきているのです。

 

そしてこの国は、自身の間違いを絶対に認めない役人に支配されています。政権交代はこれからもあるかもしれません。しかし「霞ヶ関ムラ」の文化や考え方は変わることがないのです。明治時代から続く伝統です。

敗戦後に内務省海軍省陸軍省は解体されました。しかし軍需省は商工省と名前を変え、大蔵省も生き残りました。70年以上に渡り、この体制が続いています。これから70年の後も安泰でしょう。もっともその時に日本が存在していればの話ですが…。

 

国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶 (幻冬舎新書)

自分の給料をいまより上げる方法 あなたの価値はこう決まっている

日本病 なぜ給料と物価は安いままなのか (講談社現代新書)

こうすれば絶対よくなる!日本経済

日本は小国になるが、それは絶望ではない

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

戦後日本経済史(新潮選書)

キャリア官僚の仕事力 秀才たちの知られざる実態と思考法 (SB新書)

お役所のご法度―霞が関ムラの怖~いお仕置

財務省人事が日本を決める

投機で有り金を使い果たしてしまう日本人

日本人は投機が大好きです。将来のためには必要不可欠なものとさえ思っています。そんな社会にはどういった未来が待っているのでしょうか。

 

雇われて働いている人は、給料を用いて、次のことをやる必要があります。(1)心身を健康に保ち明日も変わらぬ労働力を提供すること。(2)自身に投資してスキルを向上させていくこと。(3)子供を作り未来の労働者を育て上げること。この3つです。

 

しかるに現代の日本人は、自身の労働力を再生産する余裕さえありません。彼は徐々に疲弊していきます。能力も低下していきます。

以前の日本では、給料は年功序列で上がっていきました。ヒトの価値と、給料として払われる価値との間には矛盾が発生していました。若者は安く、老人は高かったのです。雇い主から見れば、この方が全体でコストを抑えられたのです。従業員もいつかは報われると思っていました。

ところが現在では、能力の低下に伴って賃金も低下します。彼らはその乏しい元手をやりくりして、子供を育てあげなければなりません。自己投資もしないといけないのです。

 

以上に加えて、「投資」もしなければなりません。自身の蓄えを市場で運用することです。余ったカネを運用するのではなく、生活費を稼ぐために投機をするというのです。

 

投資・投機について少し考えてみましょう。

例えば、通販でモノを買っても、実物が届くまでに時間があります。本人は買ったつもりになっていますが、実はそうではありません。在庫がなくてキャンセルされるかもしれません。あるいは輸送に問題があって、モノが届かないかもしれません。「モノを手に入れる可能性」を得ただけなのです。

 

市場でコメを買い付けても、すぐにコメが届くわけではありません。時間的なズレがあります。そのうち、実際には存在しないモノまでも売り買いするようになりました。まだ収穫もされていない来年のコメを買うのです。「コメを手に入れる権利」を買ったわけです。

 

大量のトウモロコシを外国で買った場合を考えてみましょう。船で輸送するためにかなりの時間がかかります。100円で買い付けたものなのに、届いた頃には50円に値下がりしているかもしれません。50円の損です。そのために、トウモロコシを買いつけたのと同時に、市場で同量の穀物空売りする必要があるのです。そうすれば50円に下がっても、空売りをした方は、50円が儲かるので、損は相殺されます。時間的なズレによるリスクを回避する方法です。

ところが、空売りをするには、同じ量を買ってくれる人がいなければなりません。リスクを承知の上で、利ザヤを稼ぐ事に興味のある人たちです。しかし積極的にリスクを取ってくれる金持ちはそれほど多くはありません。そこで庶民の登場です。大勢の庶民を買い向かわせるのです。これによって取引が成り立ちます。

 

投資は難しいものです。現代における会社の寿命は、人間の寿命より遥かに短いと言われています。長期間にわたって株を持ち続けていても、結局は下がっているかもしれません。将来有望とされている株も、株価は適正価格を大幅に上回っています。長期的な視点での投資は成立せず、激しい値動きに乗じた投機にならざるを得ません。

 

本当の投資においては、投資者も経営に携わっていかなければなりません。高度な知識と能力が必要です。投資をする前に調査を行い、価値やリスクを正確に見極めることも必要です。ところが庶民の投機は、風向きを見て勝ち馬に乗ろうとしているだけです。何とお気楽な考え方でしょうか!

 

自身に投資するにしても、長期間にわたってカネを投下して教育を受けなければなりません。リターンが得られるのは、ずっと後のことです。しかも親が裕福でなければスタート地点に立つことさえできません。リターンがないこともあります。

 

投機をする場合、株の値動きが完全にランダムであれば、勝率は5割になるはずです。しかしそうはなりません。多くの人は「負け」のほうが多いのです。人間が持って生まれた性向によってそうなってしまうのです。天井で買い、底値で売ってしまいます。持ち金が少なくなると、2倍、3倍の売り買いをしてしまい、我が身を危険にさらします。

考えてもみてください。20代から始めて、死ぬまで利益を上げ続けるつもりなのです。そんなことができるのでしょうか。

 

先に述べたように、人々は受け取ったカネで、自分の健康を保ち、子供も育てなければなりません。本来、投機はこれらを差し引いた残りの余裕資金でやらなければならないのです。しかるに彼らは、衣食住や息抜きの活動を犠牲にしてまで投機にのめり込みます。

 

投機は失敗しないことが大切です。しかし安全な投機をしようとすればするほど、得られる利率は、銀行に預けた場合とそれほど変わらなくなります。(そもそも、低金利がずっと続いていること自体が異常ではありますが)

勝負師として素質のある人は、世の中に3%もいないでしょう。もしそんな人間がゴロゴロしていたとしたら、カジノは成り立ちません。

 

投資は全て自己責任です。最低の保証さえつける必要がないのです。国にしても、会社にしても、人々の福利厚生を考える必要があります。しかし投機の胴元にはそのような責任はありません。破産しようが首を括ろうが知ったことではありません。

裁定取引を専門に行うトレーダーは、心臓病で早死するというジョークがありました。24時間、どこかしらで市場が開いているので、心休まる時間がないのです。今では、素人が為替の取引で同じようなことをしています。

 

ギャンブルのような、射幸心を煽るものを庶民にすすめることは、おおっぴらにはできません。けれども「投資」という名目ならば、そういった非難を受けることもないのです。それどころか、「これからは普通の生活を送るために投資が必要である」とさえ言っているのです。

 

商品を生み出したり、それを売ったり買ったりするのではなく、利ザヤで稼ぎましょうというのが、これからの日本なのです。虚業でカネを手に入れてくださいというわけです。全員がそんなことをしていたら、国はどうなるでしょうか? 日本はここまで落ちぶれてしまったのです。

 

人間の想像力には限りがありません。モノではなく、それを売り買いする権利も取引の対象としてきました。新しい金融商品が次々と生まれてきます。検証を繰り返しても、実際にどうなるかはわかりません。なぜなら、それらは実体ではなく、人間の想像力によって動くものだからです。

 

カネが余っているというのは、その国の未来を誰も信じていないということです。だから日本には投資せず、外国に投資します。得られた利益も外貨で持ち続けます。人々が未来を描けないのは、国政に携わる人間の怠慢です。

だからといって、人々を不安にさせ、投機に向かわせるというのは最低の方法です。虚業で、どうやったら国が立ち行くのでしょうか。日本人はいつだって、目先のことしか考えていません。

 

日本の労働者は何をやらせても上手くできません。労働者の質が悪くて、資源もないので、外国勢が投資をすることもありません。低賃金で長時間働くことだけが取り柄です。最後に与えられた彼らの役割は、カモになることだったのです。

高校の授業程度で金融リテラシーを備えたとされ、相場の世界に彼らは足を踏み入れるのです。愚かなことです。よく分かっていない人たちは一任勘定を選びます。

 

太平洋戦争の頃、指導者達は「1億玉砕」と呼びかけました。ところが、彼らは死ぬこともなく、戦後もぬくぬくと暮らすことができたのです。

日本人はこの世に2回生まれます(笑) 1回目は文字通り存在するために。そして2回目は奴隷となるためにです。

 

18歳になると、彼らは指導者のために一生を捧げることになります。 途中で惨めな生活に気づいて一発逆転を狙いますが、多くの人々は破産してしまいます。そうなると最後は、いかにラクに死ねるかという選択肢しか残っていないのです。

 

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