kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

この世界を創った存在を確かめるひとつの方法

「ソーセージ・パーティー」という映画があります。スーパーに売られている食材達を主人公にした寓話です。彼らは神(人間)に選ばれることによって永遠の地に行けると信じていましたが、実際には切り刻まれて食われるという真実を知ります。天国に行けるというのは作り話だったのです。

神(人間)を倒したあと、食材達はもうひとつの真実を知ります。彼らは娯楽の為に作られた仮想世界の住人に過ぎなかったのです。主人公達は異次元転送装置を作り上げ、彼らを創った存在と対峙するために旅立ちます。

 

我々が住む物理世界は偶然とは思えないほどよく出来ています。しかしこの世界は神がいなくても動いています。もし誰かがこの世界を創ったのだとしたら、彼らはこの世界を放り出して、一体、今何をしているのでしょうか。

 

この広大な物理世界と比べて、ちっぽけな存在の人間ですが、ひとつ興味深いことがあります。仮想世界の住人はその世界を抜け出したり、その世界自体を破壊したりは出来ないものですが、人間はこの世界に大きな影響を与えられるかもしれないのです。

 

もしかすると、ブラックホールを発生させるとか、反物質を生成して物質を消滅させるとか、宇宙の膨張と収縮のバランスを変えるとか、そのような大きな変化を起こそうとすることによって、上位の生命体がこの世界に干渉してくるかもしれません。未だ大したことが出来る段階ではないと思いますが、我々はこの世界を大きく変えられる何かを見つける可能性があります。

 

上位の干渉は、洪水や言語の混乱といったレベルかもしれませんが、それでも仕掛けた人にとっては確かに「それ」が我々に干渉してきたという事を知ることができるのです。「それ」は我々が謎を解くのを待っていたのかもしれません。あるいはこの世界はあえなく消滅してしまい、「それ」は人が右往左往し世界がゲームオーバーする様を面白がって見ているだけなのかもしれません。

 

酷い話だと思うかもしれませんが、このように考えている力と知恵を備えた人々はそれほど少なくはないと思えます。座って真理を追究するだけではなく、この世界を舞台とした壮大な実験という誘惑に勝てない人もいるのです。何しろ鍵はもう目の前に見えているのですから。

www.youtube.com

情熱的で美しいフーガを持つ、ベートーヴェンのピアノソナタ31番(作品110)

ベートーヴェンピアノソナタ31番(作品110)は、荘厳な美しさを持ちながらも甘美で幻想的な部分や、さらにユーモラスな所もある、ベートーヴェンらしさが溢れた最後のピアノソナタとも言える完成された作品です。

 

第1楽章は歌うように、語りかけるように演奏される、親しい人に向けられたかのような美しくロマンチックな曲調です。第2楽章はCMで使われたこともあるユーモラスでありながらも激しい所がある短い楽章、最後の第3楽章は長いアダージョの部分と、幻想的で情熱的なフーガの部分とに分けられます。

 

第1楽章(0:48から7:16)

第2楽章(7:19から9:20)

第3楽章のアダージョ部分(9:23から13:05)

第3楽章のフーガ・アレグロ部分(13:07から19:50)

 

第1楽章は一応ソナタ形式ですが、展開部が非常に短くシンプルな為、大きく2つの部分に分けて、最後にコーダが付く構造と考えたほうが捉えやすいかもしれません。

つまり、0:48から3:04までが1つめの部分(提示部)、3:04から6:32までが2つめ(展開部と再現部)、6:32から7:16がコーダといった感じです。とりとめもなく次々と美しい旋律が現れますが、そのどれもが印象的です。

 

2:12のトリルからゆったりと高まっていく胸の高鳴りのような部分はこの楽章のハイライトのひとつです。3:04から展開部に入りますが左手で演奏される不気味な音の動きが印象的です。3:49のトリルから曲調が明るくなり再現部へと移っていきます。

 

第3楽章のFuga. Allegro, ma non troppoは、フーガの壮麗さとベートーヴェンらしい情熱性を備えた幻想的な美しい曲で、ベートーヴェンの書いたもっとも魅力的なフーガのひとつかもしれません。

このフーガは第一楽章の冒頭部分を抽出したものから出来ています。

13:07からですが、17:30のクレッシェンドで再び始まるフーガは18:55で力強くクライマックスを迎えます。このピアノ・ソナタでもっとも盛り上がる箇所です。そしてさらに煌びやかさと情熱を増し加えていって劇的にこの曲を終了します。

 

名演は数多いですが、エレーヌ・グリモーの繊細で美しく、力強い演奏をここでは挙げてみます。


www.youtube.com

ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番、バッハ:シャコンヌ、他 グリモー

日本という隔絶された世界

日本は150年以上前に鎖国を解いたことになっていますが、日本人の多くは精神的な鎖国状態のままです。日本語や日本独自の慣習や制度に縛られ、他とは全く違ったように世界を認識し、独特の変わった生活を日々送っています。

 

今の日本の外交は、他の世界と上手く渡りあっていく為ではなく、まるで日本国内向けのアピールが主眼であるように見えます。世界のメディアが日本の外交をほとんど報道しないか、失敗と報じているなか、日本のメディアだけは生中継で記者会見を長々と報じ、その成果を喧伝するのです。

 

某公共放送や経済新聞は基本的に政党・政権のプロパガンダを目的としており、その露骨なまでの偏向と反復報道は愚民を対象としたものなので、ある意味、その意図が非常に分かりやすいものとなっています。

 

まるで子供騙しのようなニュース番組もどきにおいて日本のスポーツ選手が世界で熱狂をもって歓迎されているように報じ、国内外の都合の悪い事件は報道しない一方で、外国のネガティブな事件は大げさに報道し、外の世界は恐ろしいけれど日本は天国であり、日本人は世界中で好かれていると言うイメージを繰り広げるのに懸命です。

 

このような報道と併せて「おもてなし」や「働き方改革」とか「ちょいボラ」などのスローガンを広めることによって、対価を伴わない個人の自発的な労働によるサービス向上やコスト削減を狙っています。

 

日本のように「統一と自己犠牲が必要な所では、日常生活が宗教化、軍事化」される、すなわち、精神論的で曖昧なスローガンが繰り返し連呼され、禁欲と規律が求められるようになるのです。奴隷には飴と鞭が必要ですが、成果を出せない、出来の悪い猿回しの猿どもには厳しいムチをさらに加えるのです。

 

日本は、棄民や人身売買を国が自ら行ったこともありますが、基本的にいかに国内の人間を閉じ込めておいて、そこから搾取するかということで成り立っています。ですから日本の外交も中身の無い国内向けの仰々しいアピールとなってしまいます。

 

日本人は粗末な食べ物や劣悪な環境でも育ち、30代まで酷使することができる貴重な資源です。若者の根拠のない未来への希望や「偉い人」への妄信を上手く利用すれば彼らを献身的に働かせることができます。

 

一方使役する側にとっては、この国はとても居心地がよいのです。彼らがギリギリまで国内に留まり、愚民の洗脳に熱心なのも無理はありません。

 

事程左様に、この国の人間はとても騙しやすいのです。おもてなしロボットや公務員コスプレイヤーなどに人々は微笑みかけ、桜でも愛でるように写真を撮っています。

 

彼らは全く事の本質を見ることなく表面だけ見て喜んだり悲しんだりしているのです。一貫性や理性もあまりなく、そういった意味では、言葉を喋れるけれども人間より獣に近い存在かもしれません。

だからこそ、この閉じられた国にやってきた支配層の子孫達も、彼らに何の価値も認めず、ひたすら奴隷としてこき使ってきたのです。

保険としての宗教や信心

神はいるのか、いないのか? もし仮にいたとしても、この物理世界や人間に関心を持っているのでしょうか?

 

神や悪魔と会話したという人もいるようですが、一般的に言って、神が存在するかどうかは不可知であり、誰にも分かりません。しかし、もし宗教が教えるような神が存在したとしたら、死後のことかもしれませんが、人にとって無視できない影響を及ぼす可能性があります。何しろ宗教はいにしえから現在に至るまで完全に否定されることなく存在し続け多くの人々をひきつけているのです。もし余裕があればそれに備えておくのが賢明と言えるかもしれません。

 

この世界はある程度まで公正が保たれているようにも見えますが、必ずしもそうではなく、突然の不条理に直面することもあります。悪い事する人間が栄えることもあります。多少手を汚さなければ、この世で成功を収めることは覚束ないわけです。

 

そのために人生の大半を世俗的に生きても、最後は良いことをしたいと、そう考える人々もいるのです。「アメイジング・グレイス」の歌詞を書いた人のように、例え奴隷商人としてあこぎな生き方をしながらも、最後は改心し良いことをして死んでいきたいのです。

 

お金持ちが寄付をしたり善行をしたりするのは、節税やイメージ戦略もありますが、それだけではなく「もし神が存在したら」ということに備えての保険でもあるのです。

 

一方、貧しく打ちひしがれた人々にとっても宗教や神様は有難い存在です。この世がどんな不条理や悪に満ちていても、助けがくる、死後は救いがある、と考えることで希望を持つことができるのです。

 

そういった意味では、その間に位置する多数の中間層こそが、この問題に対して何も考えず備えもしていない人々であるとも言えそうです。かくして宗教というのは、貧しい人達と富める人達の両極にとっては意義があるのです。

冷静な論理的思考ができない日本人

SNSでこんな感じのつぶやきをみかけました。

「外国の男性に日本の女性は偽善者だと言われました。私は日本女性なのにどうしてそんな事を言うのでしょう。ショックと怒りでいっぱいです。誰か他の女性のことで彼がそう思ったとしても、どうしてそれを私に話したりするのでしょうか?」

 

日本女性が偽善者であるかどうかはともかくとして、この受け止め方に日本人の特徴が表れているように思うので、採りあげてみます。

 

(1)まずこの男性は、一般的な考えを言ったに過ぎません。これに対して反論があるならば、論理的に反論をすれば良いだけです。しかしこの人は、個人に対する人格攻撃と感情的に受け取ってしまったようです。

 

(2)悪いことは言わないでくれ、むしろ黙っていてくれという考え方が見えます。悪い事、不快な事は何も言わずに無かったことにしようという、まことに日本人的な考え方です。それが礼儀、マナーだと日本人は考えているのです。臭い物に蓋をして問題は先送り、表面上は穏やかでも、裏で陰湿な悪口を言っているところが、日本人は偽善者だと言われる理由のひとつでもあります。

 

(3)最後に、この男性に対して的外れの怒りを感じ、逆恨みをしています。男性は一般論を言ったのに過ぎないのに、誰かについての不快な思いを自分に向かって言われたと、最後まで曲解しています。つまり、男性が「江戸の敵を長崎で討つ」かのように、「他の女性」への怒りの感情を、この女性に向かって腹いせに発散していると思っているのです。

 

上のそれぞれを日本人の特徴としてまとめてみます。

 

(1)論理的な思考、会話ができず、感情的に捉える。一般論、抽象論についていけず、身近な具体論や個人の問題として捉えてしまう傾向がある。 

(2)否定的な話題は当事者の前で話さない。言いたい時は当事者が居ないときに仲間内で話す。 

(3)一般的な話を個人攻撃として捉え、いつまでも根に持つ

 

日本人は何かしらネガティブな話を聞くと、それを個人的な攻撃と受け止め、論理的思考が停止してしまいます。そして相手を恨み、直接相手には文句を言わずに、ネチネチと陰湿な攻撃を始めるのです。しかし表面上は善人面で、本人も自分を良い人だと思い込んでいます。こういった救いようのなさが、世界で日本が見捨てられている原因のひとつであるように思います。