kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

日本語の特性が思考や行動にもたらす弊害

日本語というのは明確な意思を簡潔に伝えるには、あまり適していない言葉です。漢文と比べると一目瞭然です。余計な言葉がだらだらと続き、伝えたい事実とは別の情報が多重に含まれています。ただし複雑な情緒を短い文で伝えられるという利点はあります。

 

英語と日本語の文章を比較すると、同じようなことを伝えているように見えてニュアンスがまったく違うことが多々あります。一例として「座頭市血煙り街道」の一部分の台詞を見てみます。隠密が幕府のスキャンダルを揉み消す為に「市」と行動を共にしている「庄吉」を斬ろうとして現れる場面です。

 

「ご公儀お役目で斬るのだ」 

"I'm going to kill him. I'm on official government business."

「役儀の上に慈悲はかけられん」 

"The law has no mercy."

 

日本語は煌びやかで響きの良い語感だけが耳に残り、肝心の意味が霞んでしまいます。上の日本語を聞くと、幕府にお仕えし法に従い役目を全うする忠義な侍というイメージが強くなります。しかし英語の字幕を見ると、無慈悲な政府の役人が白昼堂々と暗殺を実行するという異常さがはっきりと伝わってきます。

このように例えば、俳句のようにリズムが美しく記憶に残りやすい文は、その美的な響きや日本的情緒の方が本来の意味よりも強くなってしまう所があるのです。

 

こういった言葉の特性と教育のせいか、日本には論理や表現が滅茶苦茶な人が数多くいます。公的な文章でさえそうです。

言外に伝えようとしている下劣な意図とその決意のほどは日本人には伝わりますが「異次元の圧力をかける」という表現は一体何でしょうか? 

 

これだけでなく、とてつもなく野蛮な事を言いながら格式張り気取った物言い、重々しいようでいて、その実何も言っていない文が日本には溢れています。表現だけでなく思考や行動までもが支離滅裂です。CNNは、平和よりも少数の拉致被害者に対して病的に粘着する日本の北朝鮮外交をこう皮肉っています。

"Many people wondered why the fate of a few dozen Japanese was more important than getting North Korea to give up its nuclear weapons."

 

長い歴史を通じて無節操に言葉を寄せ集めた結果、同じような意味を持ちながら少しずつニュアンスが違う単語や表現が多数あり、多くの人は表面の違いや情緒の交換に捉われて、肝心の意味を掴むのが難しくなっています。

そのためか、長時間の国語や英語の教育を受けながらも日本人の読解能力は先進国でもかなり低い方ではないでしょうか。

 

そういった意味で、日本語は為政者にとって愚民をコントロールするのに最も適した言語なのかもしれません。その昔、文字を読み書きできるのは支配階級の特権でした。日本では今でも実質的にそうで、庶民は無知蒙昧に留め置かれています。

 

こんな調子ですから、多くの人々は法律を操る者や詐欺師に簡単に騙されてしまうわけです。契約書や公的な文書を満足に読める人は少なく、弱者が手助けなしに役所で申請手続きをするのは困難を極めます。

 

こういった国民を統制するには短くて響きが良いスローガンが非常に有効です。

「富国強兵」「殖産興業」「八紘一宇」「鬼畜米英」「一億玉砕」など、日本の為政者は効果的なスローガン作りの名手であり、これからもそうでしょう。

The Greatest Japanese Movie Sword Fight EVER!

 

多数派に流されたり、借り物の思想を有難がる人とならない為に

ほとんどの人は独自の考えも信念もなく生きています。それでも、しばらく生きていると自分の信条を持ちたいと思うようになります。そういった時に便利なのが、宗教や思想なのです。

 

自らオリジナリティのある考えを一から作り上げるというのは大変なことです。ですから大抵は借り物の宗教や思想を安易に持ってきて、それを自分の思想、信条としてしまうのです。その信条は自分にとって心地よいもので、世界の矛盾を上手く説明してくれるように見えるものを選びます。

 

例えば、打ちひしがれた人々は天国や地獄、因果応報を説いてくれる宗教、強いものに頼って何か誇りを得たいと感じている人は右寄りの思想、本当は体制側の人間になれたはずなのに叶わなかったと考える人は反体制的な思想といった具合です。また特定のグループに入るため、あるいは隠れ蓑として特定の思想や宗教を信じる場合もあります。

 

こういった思想や宗教というのも一種のシステムです。上手く行っている時は良いですが、そのうち様々なことが説明できない、あるいは自分の好みとも矛盾する事が出て来る事があり、そうなると、システムの根幹を揺るがさない範囲で、末端の信条をちょこちょこ変えていくことになります。それでもどうにもならないとなると思想や宗教そのものを丸ごと変えることになるのです。

 

ですから何らかの宗教や思想を持っている人は、全く別の思想や宗教に転向させ易いのです。優れたスパイが寝返る話がありますが、これは無理やり転向させたのではなく、本人が合理的に納得した上でなっているのです。

 

これとは別に、いい年をして何の信条も持っていない人を特定の思想に染まらせるのは難しいのです。そもそもそのような思想を必要としなかった人達だからです。

 

信条や思想を持った人達は少数でも無視できません。何も考えていない人より、はるかに力があるからです。

その一方で信念を持たない人は多くいますが、彼らは強い者になびく葦でしかありません。オーウェルの「動物農場」に登場する羊のように、簡単なシュプレヒコールを覚えさせれば、それを繰り返し叫ぶようになるのです。短くて響きのよいスローガンは強く一貫しているように見える為、簡単に洗脳されてしまいます。

表面上何か思想を持っているように見えても、彼らは多数派に付和雷同しているだけです。

 

本当に一貫性がある人というのは自分独自の判断基準を持っています。矛盾するようですが何かの思想や宗教に凝り固まっているのではなく、柔軟に考えを変えていきます。本物と偽物を見分けるセンスを持っていると言った方が近いかもしれません。

人生を楽しむことができない惨めな人間とならない為に

人間は自由意志を持つ存在です。自らの意志で善悪をも選ぶことができます(自由意志というのは、あるいは幻想かもしれませんが、少なくとも行為の結果に対して是非の判定をすることによって、自分の未来の行動の蓋然性に影響を及ぼすことができます)。

 

サイコパスに魅力があるのは彼らが自由意志を完全に行使しているからです。常に自己中心的で己の利益の為に行動しており、表面的に良いことをしても、善悪というモラルには全く縛られていない人達です。

 

しかしサイコパスより劣る人達がいます。それは自らの意志を持たず、他人に言われるがままに生きている人々です。彼らは「お上」や「偉い人」、「頭の良い人」の言う事を鵜呑みにし、それに従うことを当然と考え、あまつさえ赤の他人にも奴隷となることを強要するのです。

 

そもそも彼らが何の為に生きているのかさえ、理解不能なところがあります。人生が無意味だから好き勝手に生きるとか、無為に過ごすとか様々な選択がありますが、彼らは他人を苦しめ続けることによって、己の苦しみを忘れるようとしているところがあります。

 

例えば奴隷は、自分の存在価値を脅かす「暇」に耐えられないので、どんどん無駄な仕事を作り出していき、己自身だけでなく、他の人々をも苦しめていきます。下の意見は全く聞きません。「お前の意見などどうでもいい。俺の方が偉いのだからお前がそれを主張する権利は全力で叩き潰す」ということなのです。

 

彼らは「理由は分からないがたまたまこの世界に生まれてきた。せっかくだから皆でこの人生を楽しもうじゃないか」という前向きな考えには決してならずに、「生まれてきたのはお父さん、お母さん、領主様のおかげである、負い切れない恩を受けているから、上の言うことに従い、精一杯尽くそう。周りのみんなもそうしているから」となってしまうのです。

 

ところが実際にやっている事は、表面上は善人ぶり、ウソをつきながら強欲に自らの権益を求めて励むことです。さらに他人に対しては「俺は楽をしてよいがお前は苦しめ」、「俺が苦しんでいるのだからお前も苦しめ」という態度をとるのです。彼らは本当に何の為に生きているのでしょうか??

ベートーヴェンの魅力が溢れるピアノソナタ「テンペスト」

ピアノソナタ17番、通称「テンペスト」は32曲あるピアノソナタの中でも、ベートーヴェンの多様な面が見られるだけでなく、それ自体独特の魅力を持った曲です。

 

初期の傑作「悲愴」のようなドラマチックな展開もあれば、「熱情」のような激しいところもある、さらに後期の作品に見られる幻想的な部分や独白のような部分もあります。テンポも曲調も激しく変わるが全体を通して統一感もあり、これ1曲でベートーヴェンピアノソナタの特徴を掴むことのできる作品です。

その為、ベートーヴェンが好きな人にとっては非常に楽しめる曲ですし、嫌いな人にとってはどうしても好きになれない部分がある曲かもしれません。

 

多彩なだけでなく、この作品はとてもユニークです。まずニ短調(Dm)で切迫感のある曲なのに、属和音(A)のゆったりとした幻想的な分散和音で始まります。しかも初めの音は違和感を感じさせるC#(ラ♭)で、意表を突かれるイントロです。さらに2楽章の始まりも1楽章と良く似た半音高い変ロ長調(B♭で転回なし)のアルペジオで始まります。

 

そして全曲を通して交響曲第5番の第1楽章を思わせる、叩きつける様な激しい音形が聞かれます。緩徐楽章(2楽章)でさえも、タタタタンが鳴っています。粘着質なベートーヴェンの執拗さには中毒性の魅力があります。さらにそれまでの激しく派手な終わり方とは打って変わり、3楽章すべてが静かに消え入るように終わるなど、独特な面を持つピアノソナタです。

 

演奏者にとっては、変化が激しい為、一歩間違えると、まとまりや流れを感じられない演奏になってしまう、そういった難しさがある曲かと思います。

 

これほど独創的で傑出した作品でありながら当時あまり評判にならなかったようです。しかしベートーヴェンの情熱的な部分と、哲学的、詩的なものを感じさせる部分とが危ういバランスを保っており、理性と狂気が織り成す至高の美しさと興奮が得られる曲です。

www.youtube.com8:12までが第一楽章。5:30の再現部から聴かれるレチタティーヴォが詩的です

8:15から15:52までが第二楽章。9:28で「タタタタン」が鳴ります。14:46から、あてども無く彷徨うように転調しながら帰結していきます

15:54から21:50までが第三楽章。19:34から20:50の再現部でしつこく繰りかえされる低音の「タタタタン」、20:50から幻想的になり静かに終わります。

Credo: Sonate Pour Piano

システムが生み出す不条理に押しつぶされない為に

もっとも非人間的な邪悪さというのは、効率的なシステムの中に存在します。開高健の「流亡記」には始皇帝によって作られた全土を支配するシステムによって、機械的に人々が殺され搾取される様が描かれています。しかも携わっている人間には悪意が無い為、自ら正すこともありません。

 

このようなシステムに比べたら、悪魔のほうが理性があり言葉が通用する分ましです。一方、効率性だけを求めた法律やシステムには釈明や情が通用せず、情け容赦なく組織的に整然と人々を苦しめ続けます。

 

アウトサイダー」や「オカルト」などの著書があるコリン・ウィルソンSF小説に「賢者の石」というものがあります。小説では、多くのオカルト現象は一種のシステムであるという考えが書かれています。人間を創り今は眠りについている知的生命体が太古の昔に、タブーに触れようとする人々に対して自動的に働くように造った精緻を極めたシステムだというのです。確かに怪しげな宗教や儀式、心霊現象に関心を持ったり関わったりしない限り、概ねそういった災いは起きないものですが、オカルト現象の多くは不条理ゆえの怖さがあり、システムが与える恐怖と似たものがあります。

 

多くの近代国家、特に日本は、法律やそれを支える大量の役人や暴力装置、そしてそれを支持する大勢の人々によって極めて厳格にシステムが動作している国です。多くの民は頭をからっぽにして言われた事だけに従うよう訓練されています。そのため社会が全体主義的で軍隊的な性質をもっています。

 

日本の強さというのは、末端に至るまで右と言われたら右、左と言われたら左というように、即座に命令に反応して上位下達で動く、一種の戦時体制に常時置かれている所にあり、それが「日本の奇跡」の理由のひとつでもありました。しかしもはやこのシステムは価値あるものを産み出せず、それ自体を存続させる為だけにあります。

 

通常、統制が行き過ぎた政治システムというのは全体主義国家や、大衆運動の一時期、戦争などの非常時にしか存在しないものですが、日本はそれが長きに渡り続いている異常な国家とも言えます。

 

このシステムから逃れるには、システムをつかさどる者の縁故になるか、この国から脱出するしかありません。抑圧された多くの人々は逃げ道を見つけられずに次々と自殺していきます。この国ほど不条理の悪や責め苦が存在する地獄に近い国はないのかもしれません。