日本人は善意を装いながら、悪を行う人達です。不完全なポリ袋の防護服を子供に作らせ、それを医療機関に寄贈する事で、美談を狙った大人たちの事が話題になりました。
そして彼らは、弱者を都合よく利用しながらも、何か批判されると弱者の立場で反論します。「一生懸命にこれを作った子供たちの善意や努力を無にするのか!」といった具合です。彼らは何故こんな事をするのでしょうか。
昔の日本のある地方では、ものを頂いた際に、お返しとしてマッチや半紙を相手に与える習慣がありました。「お移り」と呼ばれるものです。つまりこれには「手ぶらで返す訳には行きませんので、とりあえずこれをお持ち帰りください。ちゃんとしたお礼はまた後で致しますから」という意味があったのです。
しかし今の日本では、先にショボいものを相手に与えて、それ以上の見返りを相手から期待する人がいます。ワラで大金を頂こうという、卑しいわらしべ長者モドキです。ゴミ袋の防護服を与えて「俺たちはこうして感謝している。これからも我々の為に最前線で働いてくれ。俺が病気になった時もヨロシクな」と言わんばかりです。口先だけで感謝やねぎらいの言葉を述べたり、精神論ばかりで無策を続けるような人達も、これと似たようなものなのです。
「有難い『ねぎらいの言葉』を与えたんだから、あとはお前たちで頑張れ」「とりあえずガーゼの○○○を与えて誠意は見せた。次はお前たちが精いっぱい努力する番だ」「10万円も与えてやったんだから、減給や失業になっても自分たちで何とかしろ」といった具合です。一見役に立たないこれらのもの全ては、「上の人間がわざわざお前達に目をかけてやったんだぞ。有難く思え」という象徴的な意味合いがあるのです。
昔の営業にはこんなタイプの人がいました。とにかくうるさいくらい客先を訪問します。そして何かしら土産物を持って行ったり、ちょっとしたお手伝いをしたりするのです。さらに休日には客の家にまで出向いて庭木の剪定までしてあげます。こうやって断れない「貸し」を少しづつ作っておけば、そのうち相手も、仕事の依頼をしなければいけないような気持ちになるという訳です。
しかし何を与えるかは各人のセンスが問われます。また、詰まらないものや、反対にあまりにも高価なものを贈ると、却って相手に不快感を与えてしまいます。不釣り合いな贈り物をする場合、「相手より上の立場になる」という意味もあるからです。
御中元やお歳暮として、石鹸や海苔などの大したことはない日用品を贈っても、外側だけは有名百貨店の包装紙にくるまれており、それが贈り手の誠意を示していました。これらはバランスのとれた、誤解されるリスクの少ない無難な贈与とみなされていたのです。
しかし今の日本は、もう外側を綺麗にする余裕も無くしています。汚いゴミ袋を送りつけながら、「子供たちの優しさが込められています」という美談を代わりに付け加えているのです。
日本人は自分の悪意に鈍感です。彼らは無意識の考えや欲望を言語化する習慣がありません。むしろ言語化を積極的に避けています。客観的に自分を観察したり、いさめたりする事もできません。
「自分はゲス野郎かもしれない」という可能性をみじんも考えないのです。「下種野郎」なのに、心の中に生まれた発想は全て純粋な善意から来るのだと思い込んでいます。
人々は自発的に思考することができないので、TVの娯楽番組やマスコミによって吹き込まれた断片的な知識と自分の下劣な欲望が反応して、奇怪な着想が生まれます。それが例えば、ゴミ袋の防護服となって形を現わしたりするのです。彼らはすべからく、この防護服に、己の醜さを見出す必要があります。