ほとんどの人は無意識のうちに、自由よりも束縛を求めるものです。集団に帰属し、その規律に従う存在であれば、自分で何かを決断せずにすみますし、結果に対する責任もとらなくて良いのです。
日本人は集団への帰属意識が強い民族ですが、そのために次のような弊害が出てきます。すなわち、集団の凝集性を高めるにあたって、集団の成員は、常に敵の存在を必要とするのです。
敵は一般的に、外国人があてがわれます。敵は自分達より劣った存在であるよりは、自分達を脅かす優れた点を持つ存在である方がはるかに憎みやすくなります。
集団に埋没し無私の存在となることによって、人は責任や罪の意識から逃れることができ、傲慢になり、安心して敵を攻撃してもよいという免罪符を得るのです。満たされざる社会的劣等者は外国人を激しく憎み、裕福な人達は自分よりも成功している同族を憎んで、その足を引っ張ります。匿名掲示板などを見れば、こういった様相を観察できます。
人はなぜ、他人を憎み、集団に属することによって、その傾向をさらに強めるのか。それは、憎悪というものが最も強い感情であり、人を強い行動に駆り立てるからです。残念ながら、愛が最後に勝つのではなく、憎悪が最終的に人を激しく動かすのです。憎悪によって人は仲間を求め、一体感を得て、そこに目的と意味を見つけ、未来の希望に向かって走り出すのです。この希望のためなら死をもいとわぬことがあるのです。
落ちぶれた士族、安定した生活を奪われた農民、現代では没落した中産階級、貧しい若者、こういった満たされざる欲求不満者のエネルギーを一定方向に上手くコントロールすることによって、国は大きなことを成し遂げることができるのです。
敵を求めるものは自ら、その相手に対して不当な仕打ちをして憎まれるようにします。そうすることによって「敵は我々を憎んでいる、だから我々が彼らを迫害するのは正しいことだ」とするのです。
しかし外国からそれを眺めた場合、彼らは非常に狂信的で不気味な存在として映り、その行動は残酷で異常であり、脅威を与えるものとなるのです。