日本は行政がやってしかるべきことを、個人の善意やボランティア意識にすり替えるという事をよく行います。例えば優先席です。非人間的なほど乗車率の高い電車の問題、一極集中、公共交通機関における障害者や妊婦の庇護を、企業や行政、自治体は解決をせず、その代わりに「優先席」なるものを用意して、「お前たちで何とかしろ」と言うわけです。
以前、電車で持病のあるサラリーマンが優先席に腰かけていたところ、目の前の女性に無言で嫌がらせをされたという書き込みをSNSで見かけました。具合の悪い人は座りたいのだったら優先席に限らず「どなたか席を譲っていただけないでしょうか」と口に出して言っていいのだし、また汚いオッサンや若い男性は病気でも立っているべきだという訳でもありません。この場合、どちらが悪いという問題ではなく、戦う相手を間違えているのです。
優先席だとか、実際に送検される違反速度とか、人々の間でなんとなく決まっている、あるいは有名無実になっていて誰かの恣意で決まってしまう、そういう曖昧で絶対的基準がないものを使って下々に問題を押し付けるのです。しかもそれは絶対に解決できないようなものです。何しろ行政が解決できていないのですから。精神論だったらどんな無理なことだって言えるのです。
高速道路や駅で進行方向を示す矢印をペイントしただけで、企業や行政は逆走を防ぐ措置をしたことになります。逆走をした者は「このペイントが目に入らなかったのか!」と怒られるのでしょうか。
一方、下々の世界においては、ある人は「ルールを守れ」と言い、ある人は「法律で定められたものではない」、あるいは「現実を見ろ」などと言って弱者同士で争っているのです。
なんのことは無い、これらは為政者が責任を逃れ、愚民どもを統制するひとつの方法となっています。
何か問題があれば、「国民一人一人が解決すべきもので、できないのは日本人として恥ずかしい」とし、さらに不満が高まれば「皆が困っているではないか」と言わせ、その矛先を鈍らせるのです。
例えば、疑惑の学園において「善意の学生達に罪は無い」と言ったり、汚染問題では「風評被害で地元の人が迷惑している」、「復興の妨げになる」と言うわけです。さらに彼らは自己弁護のためにも、こういった詭弁を使います。「悪意は無いのに、何で自分達が悪く言われなくちゃいけないんだ」というわけです。
自分に価値基準がなく、お上が決めたルールや、周りの人々の言う事で右往左往しているだけだから、自分で論理的に言葉を使って解決することもできず、弱い日本人はお互いに、こういった陰湿な嫌がらせを行い続けるのです。