kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

結婚に意味がなくなった日本

日本では、女性はモノに過ぎません。そもそも日本人にとって人間自体が価値のない代物です。従って女性はそれ以下の存在となるのです。そんな社会において結婚に意味はあるのでしょうか。

 

バブル時代のエピソードとして次のようなものがあります。その頃はクリスマスに高級ホテルを借りて、高価な贈り物を交換することが当たり前でした。そんな時代に、女性が裸の自分に赤いリボンでラッピングを施して「私がクリスマスプレゼント」と言いながら彼氏に自分自身を差し出したというのです。

今となっては全く笑ってしまうような話ですが、それだけ女性の価値が高く、手に入れるのが難かしい時代だったと言うこともできます。

 

今はどうでしょう。女性の体が欲しければ1万円以下で手に入れることができます。開高健のエッセイに「女性の値段は靴と同じ」という記述が在ったのを覚えています。

ちょっと前までは、まともな革底の靴は3万円以上でした。冠婚葬祭でも履けるクロケット&ジョーンズのオードリーは7万円程度です。女性の相場感とも一致します。

現在の革靴の値段をアマゾンで見ていきましょう。革底の靴が1万円程度で買えます(作りは悪いようですが)。さらにフェイクレザーの靴も売っていて、それならば数千円です。これも相場感と一致するようです。

一方で海外から輸入される高級な革靴は高くなっています。以前はジョンロブのパンチドキャップトゥの靴は20万円ちょっとで買うことができました。しかし今は30万円以上です。先のオードリーは、14万円程度となっています。

 

日本では、男性は極めて幼く精神的に母親へ依存しています。結婚をすると母親の代わりに相手の女性が身の周りの世話をしてくれることになります。女性は、家政婦であり、奴隷であり、子供製造機であり、不満のはけ口となってくれる、便利な掃き溜めです。

 

女性にとっても結婚にはメリットがあったのです。昔は女性が実家に居続けるというのは異常なことでした。長男が実家を継ぐため、未婚の女性の居場所は無かったのです。

かといって女性が就職するのは難しい時代でした。都会で就職できたとしても社内結婚で早々に寿退職することが前提でした。「25歳定年」という言葉もあったくらいです。

良い縁談に恵まれるのに越したことはありません。もしそうではなくても結婚はしなければならないものだったのです。結婚によって、ようやく実家から逃れることができたのです。都会に出て豊かになっていく夢も見ることができました。時はまさに高度成長期だったのです。

 

現代はどうでしょうか。結婚をすると豊かになるどころか貧乏になる可能性があります。せいぜい同棲をして家賃を浮かせるくらいがベターです。結婚は階級の固定化を意味します。結婚をするとその階級から上に行くことができません。それどころか中流階級がまるごと没落しつつあるというのが現状なのです。

結婚による階級の固定化は女性にとってだけではありません。男性にとってもそうです。「金持ちの奥さんは美人が多い」と言います。良い女性を最初から手に入れられればそれに越したことはありませんが、そうでなくても自分の階級が上がるにつれて相方を乗り換えていく事ができるのです。女性は男性にとってのアクセサリーです。ブサイクな女性を連れて歩いていたら、それだけで軽く見られてしまうのです。

 

現在は「タイパ」が叫ばれる時代です。結婚に時間やコストをかける意味があるでしょうか。現代の結婚には、得られるリターンに比べて大きなリスクがあります。

男女が交わると、まるで腫瘍のように子供を孕んでしまいます。母親が精神的に子供へ依存してしまう場合もありますが、冷静に考えれば出費が嵩む代物でしかありません。

高等教育の必要性は高まっており、親が面倒を見る期間も、教育にかかる費用も、増えているのです。もし就職できたとしても、まともに食っていけるかどうかは定かではありません。

もし子供だけが欲しくても、結婚という形を取らざるを得ません。日本では非嫡出子は非常に不利です。それだけ子供を作るハードルが高いのです。

 

子供を産んでも、周りから喜ばれるどころか、憎しみの目を向けられます。仲間だと思っていた隣人や友人からも容赦ない言葉を浴びせられます。自分が位置する階級と悲惨な未来を思い知らされるのです。

 

良き相手と結婚できるかどうかも疑問です。そんな人間が日本にゴロゴロ転がっているわけがありません。結婚の基準がシビアになるのも当たり前です。ひとつでも瑕疵があれば、それまでの高揚した気分はどこへやら、気持ちが冷めてしまいます。「蛙化現象」と呼ばれるものです。そもそも中身など何も無いのが日本人ですから、表面を剥がしてしまえば、人間的魅力など存在しないのです。

 

幸いなことに現代では、女性は貴重な労働力と見られつつあり、一人で生活することもできるようになりました。

自分の性的魅力をどうでもいい男に捧げるよりは、外国で出稼ぎ売春でもした方がマシです。外国行きの飛行機は日本人売春婦でいっぱいです。もともとモラルも志も無い人々です。カネがあれば勝ち組だと思っているような連中です。いったんタガが外れると、その落ちぶれようは酷いものです。

 

それにしても、普通に生活をしていれば、男女が交わりあい子供が生まれるというのはごく自然なことです。それを躊躇せざるを得ない社会とは、いったいどういう社会なのでしょうか? 

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貧乏思考の日本人

日本人というのは貧乏臭い人々です。「貧すれば鈍する」の言葉どおりに、負のスパイラルに陥っています。物質的に貧乏なだけでなく、精神的にも貧しい人々と化しているのです。

 

ネットのニュースにおいて、最近やたらとラーメンを褒め称える記事をみかけるようになりました。いわく「ラーメンは完全メシだ」というものです。その他にも「ラーメンは栄養満点である」だとか「貧困層の栄養失調問題を解決!」というものもあります。

ラーメンだけでなく、コンビニで販売される弁当でも、ご飯におかずが一品だけという「だけ弁当」が売られ始めています。なんとも情けない話です。と同時に、気持ちの悪い現象でもあります。裏では広告代理店や役人のような連中が旗振りをしているのです。

 

その昔、インスタントラーメンが始めて製品化された1950年代以降に、通産省がラーメンを「完全食」などと呼んだことがありました。インスタントラーメンなんて、ビタミン類をちょっと追加しただけの炭水化物と化学調味料と脂の不健全な混ぜものです。彼らにとって「貧乏人はこんなもので十分」というわけだったのです。

日本円の購買力は1970年代と同じという話があります。このままでは、1970年どころではなく、もう少しで戦後と比較されるような状況に日本は陥るに違いありません。

 

不健全なものを食べるようになり、人々はブクブクと太り始めています。スーパーでは、ダブダブの服に身を包んだ人々がスナック菓子を漁っている姿をみかけます。キャリア官僚でも醜く太った豚のような連中を見かけるようになりました。

多様性の重要さが叫ばれる時代ですが、肥満だけは別です。資本主義社会では肥満は許されません。というのも肥満は「搾取される側である労働者」を示すサインだからです。つまり彼らは、自己コントロールが効かず、企業の宣伝に洗脳されるがままにクズ商品を消費する人々だということです。まともな企業では太った人を採用することはありません。しかし役所や電機メーカー、エネルギー事業者では太った人をよく見かけるのです。

 

閑話休題。さてつい最近のニュースですが、高速道路のサービスエリアで、深夜に無料でコーヒーをドライバーに提供することで、居眠り運転を防止するという実証実験が開始されるそうです。

なにしろ、物流問題を解決するためにトラックの制限速度を緩めてしまうという国です。ドライバーの精神力だけが頼りです。もちろん事故を起こしたら自己責任です。国も会社も許してはくれません。

カフェイン摂取を積極的に国民に勧めるような国ですから、そのうちに覚◯剤も合法化されて薬局で市販されるようになるでしょう。これも戦後とまったく同じです。

 

人々は「スキマバイト」などと称して、本業以外にも仕事を掛け持つようになりました。本来ならば9時から17時までの労働だけで十分に生活ができるようにするべきなのです。ところが人々は、賃上げを求めるどころか、副業を持つのが当たり前だと思いこんでアルバイト探しに精を出す始末です。これなら日本ではなく、どこかの南国で、漁師や狩猟でもしている方がまだマシではないでしょうか?


この国に住んでいて、ひとたび自然災害が起これば大変なことになります。国や自治体、公共放送は「早く逃げて」と声がけをするだけです。「15分ルール」というものも勝手に作り始めています。逃げるのにモタモタしているような年寄りや障害者は見殺しにするという事です。

災害が一段落したあとも問題です。復興事業がまったくカネにならないような僻地では、誰も助けには来てくれません。劣悪な環境の避難所で苦しんでいても、「無理をしないで」などと無責任な言葉を言われるだけです。この国の人間は口先ばかりです。自然災害でこんな状況なのですから、戦争になったらどんな事になるでしょうか。先の大戦の教訓を忘れてしまったのでしょうか。


貧しい国では人々の精神力だけが頼りです。表面だけの虚しいスローガンが連呼される一方で、人々をカフェインやアン◯ェタミンで無理やり働かせようとします。

こういった国では、すべてが軍隊調となります。上下関係や礼儀正しさが強調されます。春となり「すみれの花が咲く頃」には、日本のあちこちでシゴキやイジメが横行します。「鉄は熱いうち打て」とばかりに新人を鍛えるのです。こうして日本精神を具現化したロボットが誕生します。彼らはあらゆる艱難辛苦に耐え、自分の命をも顧みません。実に醜い姿ですが、表面上は白く美しく装っています。

 

貧困化が進み、彼らはゆとりを失っています。まともにものを考えることもできなくなっています。目先の「カネがすべて」であり、その先のことを考えられません。

大阪の万◯博◯会では、会場の周りをぐると取り囲む醜い木製リングのせいで「資材を運び込めなくなりそうだ」という話があがっています。更にカネと手間がかかりそうです。大阪人は愉快な人達です。彼らは身をもって「日本のお笑い」とはどういうものであるのかを示してくれているのです。

 

歓楽街では小汚い「たちんぼ」の姿を見かけることができます。梅毒感染者も増えています。外国人に対して、親切にした見返りにカネをせびろうとする日本人もいます。「日本人は入るべからず」とでも言うべきお店も増えてきています。

その昔の上海では「犬と中国人は入るべからず」という看板が実際にありました。今度は日本人がそれを体験する時代となりました。日本国内にいながら「日本人」という理由だけで差別されてしまうのです。

 

物質的に貧乏となり、精神も貧しくなる。そして「日本人」というブランドがどんどんと低下して、世界の笑いものとなる。そういう時代を我々は生きているのです。

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バッハ無伴奏チェロ組曲

バッハの無伴奏チェロ組曲は、チェロ奏者であるカザルスが19世紀末に再発見するまで忘れられた存在でした。今ではバッハの代表作のひとつと看做されています。「チェロの旧約聖書」とも呼ばれます。

作られた時期はブランデンブルク協奏曲管弦楽組曲平均律クラヴィーア曲集などと同じくケーテン時代の1720年頃だとされています。

 

この頃のチェロは通奏低音楽器のひとつでした。通奏低音のパートは、楽譜には基本的なベース音だけが示されているだけで、奏者はそれにプラスして音を付け加えていたのです。テノールの旋律楽器としては、チェロよりもヴィオラダガンバが一般的でした。そのような状況で、チェロの独奏で、しかも無伴奏というのは画期的なことだったのです。

 

チェロ単独で演奏する曲ですが、まるで複数の楽器によって演奏されているかのように聞こえます。複数の旋律が絡み合うポリフォニーを、ひとつの楽器で実現しているのです。テノール部分とバスの部分に分かれているだけでなく、お互いに旋律を掛け合ったりもしています。

奏者によってかなり異なって聞こえるというのも、この曲の魅力のひとつです。演奏技術には極めて高いものが求められます。昔のチェロとは違い、現代のチェロでは複数弦を同時に弾くこと自体が困難になっています。楽譜では4つの音を同時に弾くように示されていても、低音部と高音部に分けたり、あるいは分散和音のようにして演奏されます。もちろん高度な音楽的センスも要求され、機械的に演奏してしまってはお話にならない曲です。

 

無伴奏チェロ組曲は第6番までありますが、その中でも第5番は、今となっては不可能な変則チューニングを前提としたものであり、第6番は、今では知りようもない5弦の楽器の為に書かれたものです。4弦しかないチェロではアクロバティックな運指を強いられ、演奏はかなり困難です。テノールでありながらも、かなり高音域に偏った曲であり、独特の魅力を持っています。

バッハの無伴奏チェロ組曲は独奏曲でありながらも、広大な精神世界を感じさせる、尽きない魅力を持った曲です。


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オランダバッハ協会に所属する若手による無伴奏チェロ組曲第3番です。第3番はいかにもハ長調らしい朗々とした張りのある曲です。この曲を難なくしかも個性的に聞かせています。音色も綺麗です。特に1番目のプレリュードと5番目のブーレで良い演奏を聞かせてくれます。


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ミッシャ・マイスキーによるチェロ組曲第6番です。ニ長調なので弦楽器の音がよく響きます。チェロは、音が前に出てダイナミックな表現が可能なモンタニャーナです(チェロにもバイオリンと同様に、ストラディバリウス、アマティ、ゴフリラーがあり、それぞれ音が違います)。

マイスキーラトビアの出身で、ソビエト時代には強制収容所に入れられたこともあります。その後アメリカにわたりカーネギーホールでデビューした後に、グラモフォンでの一連のレコーディングで有名になりました。

バッハ:無伴奏チェロ組曲

資格や試験を重んじる日本

日本人は受験が大好きです。人々を序列化することができるからです。自分や他人がどこに位置するのかが分かるのです。序列があれば考えなくて済みます。


彼らは、資格や大学受験のために勉強をすることが「勤勉さ」の証(あかし)だと思っています。勉強はある意味でラクです。自分で考える必要がないからです。与えられたテキスト、与えられた過去問に従って努力していけばいいからです。

 

日本の大学や資格は、人を序列化するためにあります。日本人はランキングが大好きです。試験結果は序列を可視化してくれるのです。「全国模試であいつは1位だった」という話がその後もずっと語り継がれていきます。

本来資格は、特定の仕事をするにあたっての最低限の能力を測るというのが目的です。ところが日本の資格は合格率が予め定められており、それに則り受験者をふるい落とすのです。常に一定の人数しか合格させないのです。ところが一旦合格してしまえば、その是非を再び問われることはありません。


欧米の大学では、入試は最低限の能力があるかどうかを見極める為にあります。だから入学後に不適格と看做されればどんどんと退学させられます。入学それ自体や、ちょっと籍を置くだけの留学には意味がなく、そこから何を成し遂げるかが重要です。

たとえハーバード大学出身者でも「お笑い芸人」になってしまえば、お笑い芸人として看られるだけです。ところが日本では「お笑い芸人なのにハーバードも出ている、スゴイ!」となってしまいます。また日本では、大学中退者でも卒業者と同じ扱いを受けることができます。

仮に有名大学に入学が出来ても、それは単にスタート地点についたに過ぎません。逆にハーバード大学出身でなくても、Ph.D.を取得できれば肩書はPh.D.となります。「ドクター」という敬称がつき、それなりの扱いを何処でも受けることができます。これが普通です。


しかし日本はそうではありません。修士や博士が軽視されています。庶民から見ると博士というのは、まるで「御茶ノ水博士」のように、出世や欲とは縁を切った変人というイメージがあります。しかも、授かった大学の名前が聞いた事もないようなものだと尊敬を受けることができません。

日本では、大学院は学歴ロンダリングの手段としても使われています。日本の大学院は入るのが容易なため、ショボい大学出身者でも有名大学院に入る事が可能です。そうなれば堂々と、最終学歴は◯◯大学院の△△課程と名乗ることができます。


インテリと看做されている人でも試験の呪縛から逃れることができません。有名人でもひたすら受験勉強のような事をして一生を過ごす人がいます。難関大学に一発合格、難関試験に一発合格、というのを繰り返すのです。

いい大人になっても、高校の教科書をわざわざ手に入れて読んでみたり、模試や入試の問題を解いてみたりする人もいます。じゃあ本人は何を生み出しているのかというと、大した事を成し遂げていない場合があるのです。インプットはあるがアウトプットのない人生です。


日本では難関試験に「一発で」合格する人が賢いとされています。尚且つ最年少であればベストです。何回も浪人を繰り返すと評価されません。返って馬鹿にされてしまいます。もしそうなったら、別のストーリーで自分を誇るしかありません。たとえば「仕事をする一方で諦めずに努力を続けて合格しました」とか「偏差値35からここまで来ました」といった具合です。


合格さえすれば良いので、そのプロセスは問いません。難関試験は受かるのが難しくできています。たとえば仮に解ける問題だとしても、短い時間で解かなければいけません。そうなると背景の理屈を理解しているだけでは駄目で、似たような過去問を覚えておき、もっとも早く解に辿り着く方法を身に付けておかなければなりません。引っ掛け問題に対しても注意深くある必要があります。出題者の心も推し量らなければなりません。

まるでウルトラクイズに挑戦するかのように、反射神経を鍛えておかなければならないのです。その分かりやすい例が、距離・速さ・時間を算出するのに使う「はじきの法則」です。理屈とは関係なく、ただ機械的に答えを導き出すアンチョコを記憶しろというのです。物事をよく理解していなくても回答は出来てしまうわけです。

これは日本の教育にとって害悪でしかありません。距離の算出程度ならまだ可愛らしいものですが、こういった事が他でもまかり通っているのが問題なのです。「理解せずに覚えている」というのが日本人の悪いところです。

 

日本人は大企業に就職すると安心してしまいます。「万が一働きが悪くても、少なくとも課長になれるだろう」と考えてしまうのです。周りから「優秀だ」と言われると努力をしなくなります。

社会で確実に実績を残す為のマニュアル本はありません。だから挑戦ではなく無難な方法を選びます。テキストや過去の事例を探してきてそれに則って仕事をします。「失敗しない分野」「失敗しない方法」で結果を出すようにするのです。これを「賢い」とするならば、確かに「賢い」という事になります。

 

もしも彼らがこの序列社会から外れてしまったとしたら、絶望するしかありません。まさかの転籍出向や役職定年でショックを受けてしまいます。定年は誰にでもやってきます。大企業や官公庁の出身者でもただの人になってしまいます。定年後にその事実をありありと実感して愕然とするのです。

尊敬が得られなくなった状況を受け入れることができずに、怒り狂っています。古女房相手では満足できず、コンビニや役所の窓口で相手を罵倒する機会を狙っています。「自分がどれ程偉かったか」を知らずに、周りで煩く騒ぎ立てるガキどもは憎悪の対象です。日本人の一生とは、何と情けないものであることでしょうか。

 

日本は、秩序を維持するためのルールが幾重にも定まっている社会です。ルールが決まっているのだから、そのルールに従って上手い具合に結果を出すのが「賢い」とされるのです。

物理的強制力と結びついたルールである法律や法令、条例を知っている必要があります。明文化されていないルールも沢山ありますから、それらを正確に推し量れる能力も必要です。

 

日本人はルールの上で踊らされるのを好みます。しかし自分からルールを創り上げて世界を支配するようなことはできません。

彼らが作り上げて忠実に守っているルールは、あくまで日本という狭い「ムラ社会」でのものに過ぎません。その範囲で最適化された結果を出しても、世界から見れば最適なものではないのです。その乖離が年々ひどくなっているのが、現在の日本の状況です。

 

日本人の世界認識は酷いものです。国内の厳密な序列を見るのとは異なり、彼らが世界を見る目は、とたんに粗雑なものとなってしまいます。自分たちのルールが通用しないので彼らの認識も歪んだものとなります。

「世界に打って出る」「世界と戦う」「勝った」「負けた」「日本が主導して世界に平和を」といった具合です。まるで有りもしない幻影と戦うドン・キホーテです。みっともない格好で鼻を垂らしながらも意気揚々としている赤ゲットの田舎者です。

 

彼らは分かりやすい序列を好みます。強いものが弱いものをいたぶるのは当然です。当然ながら彼らは暴力的な人々となります。世界の国々から文明を授かりながらも、その恩を仇で返そうとする人々です。何百年経っても粗野な辺境の蛮族のままです。

彼らは、表面的な虚飾と虚栄に満ちた人々です。しかしその中心にはぽっかりと穴が空いています。その惨めさに薄々気が付きながらも、彼らは自分自身を制御することができないのです。今日も「上か下か」と自分と周りを序列化することに余念がありません。

 

本当に優れた仕事というのは、周りとの優劣とは関係ないところにあります。その価値は自分自身がよく分かっているのです。そういったものだけに、人は労力をかけることができます。日本人のように常に他人の目を気にしていては、永遠に大した事を成し遂げられないのです。

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