kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

畏怖か軽蔑しかできない日本人

日本人は互いに対等な関係になれない人々です。「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」という考えの持ち主です。彼らには「平等」「愛」という概念がありません。

 

「人間には上下がある」という考えは日本人の頭に深く染み込んでいます。よそ者は最初の間は「お客さん」として丁寧に扱ってもらえます。しかし時間が経つと、格下の人間として扱われます。ある日、彼らの態度が豹変するのです。「知らない人」である間は、畏怖や尊敬の対象ですが、「仲間」だと見做すや否や、その組織の末端に位置する者となるのです。例えば、それまで「~さん」と呼ばれていたのに、急に「~くん」に変わったりします。

友人と「対等な関係になった」と感じられる時期もありますが、それは一瞬で過ぎ去ります。日本人の対人関係はスイートスポットが狭いのです。年数を重ねるにつれて友情が深まっていくというのは極めて稀であり、大抵は喧嘩別れをしたり、どちらかが奴隷のように服従していたりします。

 

「女房に死なれる」という表現があります。「女房が死んだ」ではなくて、受身形になっています。この文には「女房に死なれて迷惑している」「困っている」という気持ちが込められています。

同じような「両親に死なれた」という表現を考えてみましょう。これを聞いて私達が思い浮かべるのは、「その後、心理的にも経済的にも辛い目にあった」幼い子供のストーリーです。きちんと独立して家族を持っている大人は「両親に死なれた」とは言わないのです。

こういった「迷惑の受け身」と、尊敬の「れる・られる」が共通の助動詞を用いているのは、偶然ではありません。日本人にとって尊敬と恐怖は同じものなのです。自然災害のようなもので、できれば関わり合いたく無い対象なのです。

「ソト」に対しては恐れて敬いながら、「ウチ」に対しては、尊大になり虐待をするのです。これが日本人です。

普段は臆病で、外に対しひれ伏して過ごしていますが、家庭に入ると手のひらを返したように威張り散らします。男性にとって家庭とはそういう場なのです。

 

日本語に縛られた日本人は、どうしても上下関係を意識せずには居られません。

会社によっては年次や職位に関わらず「~さん」と呼んでいる所があります。しかし「~課長」「~次長」と呼んだ方が何も考えずに済むので、はるかに楽です。

もし日本語から敬語を一切排除したとしても、日本人の意識は変わらないでしょう。日本の様々な法律やルールは、いったん上に立った者の権利を、いかに継続させ増大させるかという目的で作られています。それほどまでに日本は、既得権益者にとって都合の良い社会なのです。

看護師が「シフトがきつい」「給料に見合わない」と言うと「お前らは、これから日雇い派遣だ」と言われる始末です。〇系技官はとっても優しい人達です。すべてが予定調和で動き、夢や意外性や反乱を絶対に許さないのが日本流です。

優秀な人間は、官僚養成学校に入って役人になり、カネと地位を得て勲章をもらい、死ねば国葬を執り行ってもらう、これがジャパニーズ・ドリームというものです。

 

日本人は、あわよくば「相手より上に立ってやろう」と常に考えています。こういう人達と付き合うのが不愉快である事は、言うまでもありません。

幼い頃から人格異常者に囲まれて育ち、「お前も俺たちと同じようになれ」と強要されるのが日本の社会です。社会全体が歪んでいるのも当然です。此処に未来などあるのでしょうか?

 

個人の心のうちに入ってみると、彼らは「自責」から「他責」に簡単に移ろう人達でもあります。臆病だから自分を責めるのです。それを謙虚だと思っています。しかし虐める対象を見つけると、今度は「あいつらが悪い」となるのです。

子供の頃に虐待を受けて育ったのに、多くの日本人はそれに気付いていません。「世話になったのだから」「面倒を見てくれたのだから」「親を憎んではいけない」「自分は愛されて育ったのだ」と考えようとし、事実に目をつぶります。しかし無意識の怨念は消えず、どこかで爆発する機会を伺っています。それをも抑えようと試みると、心を病むのです。日本人は深刻な精神的問題を抱えています。継続的なカウンセリングが必要なレベルです。

 

SNSで良い事を言っている人がいます。フォロワーも沢山居ます。その人の言葉によって今しも大きな運動が起こりそうにも見えます。しかしその人が消えてしまうと、その動きも雲散霧消してしまいます。彼らは「タテ」に繋がっているだけで、「ヨコ」のネットワークが無いのです。

畏怖から軽蔑へ、自責から他責へと動くのが日本人です。そこには臆病だが「良い思いをしたい」「楽をしたい」という卑しい性根があります。人を気遣っているように見えて、その実、自分の事しか考えていません。日本人の目は決して横には動かずに、ただ上下にしか動きません。

落ち着いて周りを見渡し「自分がこの世界で何が出来るのか」を考えるのではなく、「いかに上の地位へ這い上がるか」を気にしています。こういった人達が世界に何も貢献できないのは当たり前です。

こうしてみると、江戸時代のように序列が決められた「安定した」社会こそが、日本人の理想とするパラダイスなのかもしれません。

日本語の文法を考える (岩波新書)

恫喝を好む日本人

日本人は恫喝が大好きです。相手が委縮するのを見て喜びます。相手が上であれば、どんな卑屈な事でも厭いませんが、相手が下と見るや否や、高飛車な態度で怒鳴りつけるのです。

 

散歩の途中で、家族連れが道路脇の公園で遊んでいるのを見かけました。ところが彼らとの距離が近づくと、急に母親が大声で子供を叱りだすのです。不快に感じても、まさか自分がその女性に注意をする訳にも行きません。こういった場面は良く目にします。子供ではなく、犬を連れてている飼い主も似たような反応を示す事があります。日本人は常に第三者を意識しながら生きています。不気味な人達です。

 

内輪での楽しみの場に「ソト」の人間が近づくと、彼らは急に不安を覚えます。「私がこの場では一番偉いんだぞ」というのを内外に示さなければなりません。「ウチ」に在っては、子供に「人に迷惑をかけてはいけません」という表面的なメッセージを送ると同時に、「この場では私が上である」と「ウチ」と「ソト」に宣言しているのです。

何も分からない子供はいい迷惑です。初めて接するダブルスタンダードを強いる日本人が、自分の母親なのです。困惑と混乱、そして不安が彼らの無意識に刻み込まれて行きます。長じてもそれは人格に影響を及ぼし、歪んだ性格の持ち主となっていくのです。

 

日本人は模範を垂れることと恫喝は同じだと考えています。そのために信じられないような人権侵害がそこかしこで行われているのです。

父親が子供を恫喝し、母親はそれを黙って見ています。それだけでなく、父親が居ない時には、子供に八つ当たりを繰り返します。彼らには恫喝や虐めと、教育の見分けがつきません。

「多少やりすぎたかな」と思っても、「いや、自分は世間は厳しいんだとコイツに教えているんだ」と心の中で開き直ります。

 

こういう「虐待」を受けて育った子供は、共感力や思考力に欠ける人間になっていきます。前頭葉を発達させるには安定した静かな環境が必要ですが、こういった子供はその機会を奪われています。

彼らは不安を常にかかえています。正常性バイアスが激しいのも、最悪な事態を想定できないのも、冷笑を常とするのも、やたらと「平常心」を強調するのも、こういった精神の不安定さから来ています。不安を抱えているので想像力が限られ、冒険をしたり、新しい事を試みる事ができません。

子供の頃に「自分はダメな人間だ」と思ってしまうと、本当に駄目な人間になってしまうのです。こうして委縮しながら育ったのが、今の日本人です。

 

弱者に対しては誰もが虐める権利を持つと考えるのが日本人です。見つけ次第、皆で徹底的に叩くのです。「世間は甘くねえんだ、それを叩き込んでやる」という訳です。

彼らはあまりにも、その傾向に囚われているが為に、自分の権利さえ手放してしまう愚かな人達でもあります。憲法にある「健康で文化的な最低限の生活」というのはただの宣言に過ぎません。その権利は「生活保護法」によって初めて規定されるのです。しかし日本人は生活保護を嫌い、それを利用する他人を攻撃するのです。

 

日本の教育と受験制度は、個々人の暗記力やキャパシティの余裕を測るには良い手段でしょう。しかし大多数の人にとっては、「負けた」「俺には資格がなかった」という挫折感を与える代物です。少数の選ばれた人と多くの「負け犬」を生み出す制度です。こうして、上に対しては諦めと恭順が常となっていきます。

 

日本社会では、「恫喝と恭順」をそこかしこに見ることができます。外交の場でさえ、恫喝染みた事をやってしまうのが日本人です。しかし「相手の方が上だ」と見做すや否や、卑屈な態度で恭順します。学問の場でも、職場でも「政治」が主な関心事となっています。日本人が政局を語るのを好む理由です。業績は上がらず、肝心なスキルは身にきません。その代わりに調整事や政治手腕には長けるようになります。これが日本人の言うところの「コミュニケーション能力」なのです。

 

「政治」は力学です。(1)この場では誰が偉いのかを見極めるセンス、(2)誰が主役で、実際に操っているのは誰なのかを見抜く洞察力、(3)誰にどういったコネや後ろ盾があるのかを絶えず調べる能力、さらに、(4)こういった場において、自分がどういう位置にあり、自分がどこまで動いて良いのかその上限を見極める判断力、これらが、日本人にとっては必須のスキルなのです。

 

「強ければ偉くなれる」そして「偉ければ好きにその力を行使してよい」というのが日本人の価値観です。恫喝も暴力も虐めも何でも有りです。

逆に下の人間は、何をされても文句を言えず、黙って耐えねばなりません。上から下まで徹頭徹尾、この考えで統一されているのが日本人なのです。

インサイダーズ/内部者たち(字幕版)

タテ社会の人間関係 単一社会の理論 (講談社現代新書)

容易に堕落する日本人

日本人は、どこまでも簡単に転落していく人々です。彼らには進歩という考えがありません。環境を変えられないのです。周りに合わせて自分を変えていくだけです。自分たちの日々の生活や文明を向上させることが出来ないのです。

 

1961年の日本のスラム街を映したフィルムがあります。狭いボロ屋に人々が密集して暮らしています。上下水道は整備されておらず、近くの川から生活用水をバケツで汲んできます。排泄は共同便所で済ませますが、垂れ流しで悪臭を放っています。子供は思い思いの場所で野糞を垂れ、野良猫がその匂いを嗅いでいます。その横では老女のように見える女性がシケモクを吸いながら炊事をしています。

夕食は得体の知れない動物の内臓をおかずとして食べています。日雇いの仕事が無い時には、男性が昼間から飲んだくれて、道端で口を開けて眠っています。

長屋の中には今でいうカプセルホテルのようなものもあります。小さな箱の中に寝そべってタバコを吹かしくつろいでいます。昔の奴隷船のように人々はすし詰めになっています。驚くべき事に、こんな場所でも宿代や権利金が必要だったのです。

建設省スラムを一掃するために公営住宅の建設に乗り出しました。ところが、説明に来た役人に対して住民は怒鳴り散らして反対をします。こんな所でも人々には居心地の良い場所だったのです。

 

日本人は程度の差はあっても、このスラム街の住人のようなものです。劣悪な環境であっても、それに気付くことが出来ません。認知が歪んでいます。今の生活が一番であると考え、それに反するような意見には抵抗するのです。

彼らは環境を改善するのではなく、自分の認識を変える事で適応しようと試みる人々です。もし仮に世界が日本人だけで構成されていたとしたら、未だに、コ〇ナ対策どころか、その存在さえも気にする人が居なかった事でしょう。

 

茶色がかった生徒の髪の毛を「黒く染めるように」と、教師が行き過ぎた指導をして不登校になった問題がありました。司法は、「脱色を禁止した校則には合理的な根拠がある」という主張に理解を示しました。この国の人々は、日本人はすべて「黒髪で黒い瞳である」と信じ込んでいます。その一方で、アニメや漫画では自らを白人のように描き、それと自分を同一視しています。

日本は隔離病棟のようなものです。精神を病んでいて集団で妄想に浸っています。人格障害者の集まりです。少なくともカルト集団と言えるでしょう。あるいは「腐ったミカンはひとつの箱に」との思想で作られた収容所列島のようなものでしょうか。

 

日本というのは、他国から見ると異常な人々の住む国です。例えば、隣国に輸出規制を仕掛けて相手が泣きついて来るのを期待していましたが、何事も無かったかのようにあっさりとかわされました。それを見て「困っていないのはけしからん」と怒っています。結果として窮したのは、日本のメーカーの方でした。馬鹿としか言いようがありません。

日本人は、現場に細かく「カイゼン」をするように指導はできても、肝心な自分のオツムの改善は出来ない人々です。

 

明治以来、日本は教育によって多様性に欠けるような人々を作り出してきました。それでも高等遊民のように暇が出来ると、彼らはいろいろ考えたり勝手な事を言い出したりしたのです。

政府は、国民を貧しくし忙しく過ごさせる事が得策だと気づきました。厳しくすればするほど「普通の日本人」は「考えなくてすむ」と喜ぶのです。その結果、日本は普通の文明社会には適応できないような人間ばかりになりました。日本だけが特殊なのです。

軍隊のような組織は、戦争時や大量生産の時代には良かったのですが、今の世界では通用しません。独裁政権下での軍隊生活が一生続くなんて、全くの悪夢としか言いようがありません。しかし日本人は平気なようです。こんな社会でもユートピアだと信じているのです。現実を都合よく歪めて解釈してしまう日本人の能力には感心せざるを得ません。

 

人間としてのピークである20代から30代に、彼らは抑圧を受け、乏しい給料を貰いながらも我慢をして過ごします。歳をとれば御利益があると思っています。しかし実際には40代から50代で体や精神を壊して表舞台から消えている人が多いのです。

いや、彼らは未来の為に耐えているのではありません。実を言うと、彼らは何も考えずに、その日暮らしをしているだけなのです。スラムの住人のようにです。

 

「普通の日本人」と称する異常な人々が国益を損ない、まともな日本人に多くの迷惑をかけています。年齢や、高学歴かどうか、富裕層かどうかに関わらず、こういった「普通の日本人」は一定の割合で存在します。高学歴の「普通の日本人」は言葉を発し、屁理屈をこねるだけに、よりやっかいです。

IQや学歴では彼らを判別する事ができません。彼らを識別する為の新しい指標が必要です。彼らの内面はスラム住民と変わりがありません。劣悪な社会を支持し、現実を歪めて解釈し、それを他の人々にも強要する人たちなのです。

彼らを隔離し、彼らだけの「ユートピア」社会を作ってあげれば、日本も少しはまともになるのかもしれません。

人格に問題がある日本人

最近の日本人は、その卑しい本性を隠そうともしなくなりました。普段は文明人を気取って表面だけを取り繕っているのが日本人です。ところが、社会や環境が悪化すると途端にその親切そうな仮面をかなぐり捨てるのです。

 

ある新聞記者が、敗戦時にフィリピンで投降し米軍の収容所で暮らした体験を記した文章があります。これを読むと、日本人の性質が今に至るまでほとんど変わっていない事に気づかされます。彼らの本性を捉えるのに、敗戦時の混乱状態における日本人の記録は役に立ちます。(下記にある引用は、断りの無い限り、石川欣一の「比島投降記」からのものです)

 

(1)礼儀をわきまえない日本人

日本人は自分たちを「世界一、礼儀正しく親切な民族である」と自称します。ところが実態は全く違います。世界で最も不親切で失礼な人々です。

収容所のアメリ将兵は概して礼儀正しく、日本人捕虜が通り道に居たら、道が空くまで待っているか、体を折りたたむようにして通ったりしたそうです。ごく自然に、相手のパーソナルスペースを尊重する習慣があるのです。しかし時々道端で話していると後ろからドスンとぶつかって、そのまま黙って通り過ぎる失礼な輩がいたのです。それは全て、仲間であるはずの同じ日本人捕虜だったそうです。

日本人は職場の仲間や知り合いには礼儀正しい振る舞いをしますが、知らない人間相手だと途端に傲慢になるのです。その仲間内での礼儀にしても、悪く思われない為に仕方なくやっているだけで、人間に対する当然の敬意としてやっている訳ではないのです。

 

(2)差別主義

日本人は差別主義者です。先に挙げた新聞記者は、収容所で通訳として働いていた関係から、米軍の食堂で食べる事もありました。しかし、そこで差別的な扱いをされた事は一度も無かったそうです。

外国に留学している日本人が「差別をされた。留学した事を後悔している」と訴えている動画を観たことがあります。

どうやらテストの結果が悪く、その為に教師の部屋に呼ばれて、その際に「日本人なのに数学が出来ないのか」と言われた事にいたく傷ついたようです。また道端でトボトボ歩いていたら、前方から来る集団の一人に「ジャ○プ」と呼ばれた事を悔しそうに話していました。

「なんだその程度か」という気はしませんか。日本では、例え同じ日本人であっても酷い差別を受ける事があります。

日本でそこそこ上手くやっていた人が外国に行くと、それまでのようには行かず、ショックを受け外国嫌いになってしまう事があるのです。

最近の記事で「特殊詐欺事件の受け子の特徴が公的機関によって公表された」というものがありました。それは服装の特徴を誇張してイラストにしたものでした。人を見た目で判断して「気をつけなさい」、さらには「通報しなさい」とそそのかすとは何とも酷い話です。日本ではちょっとした見た目の違いで、直ぐに差別を受けます。外国人のような風貌をしていたら、永遠に外国人として扱われます。その人の行動ではなく、単純な見た目で判断しようとするのが日本流です。

 

(3)患者に無関心な医者

日本人の共感性の無さ、想像力の欠如、他人への無関心という特徴は、医者の態度からも見て取る事が出来ます。新聞記者が居た収容所でも同じだったようです。「薬品が足りないのなら必要な分だけ用意する」と米軍が言っているのに、日本人の軍医はやる気が無く無関心だったそうです。患者に対して親切な言葉をまったくかけないその姿に、記者は憤慨しています。医師会も無かった戦前は、医者は理系のエリートという訳ではありませんでした。

頭が良かったり地位が高いから冷血になってしまったというのでは無く、「他人への思いやりの無さ」というのは日本人に共通する要素のように思われます。恒常的に「他人を助ける」という場面において、その心性が良く表れるのです。

 

(4)暴力を常とする日本人

先に挙げた本で、日本人の上官がよく暴力を振るうのを見て、アメリカ人の将校が憤慨する様子が描かれています。彼は「上官は部下をスラップする事は許されず、袖を引っ張っただけで罰せられる」と語ったそうです。文明国と非文明国の差はこんな所にも表れます。日本人はよく他人に暴力をふるいます。教育の現場で、部活動の場で、成人になる前から繰り返し、暴言や身体的な暴力を受けます。

 

(5)世界から恨みを買う日本人

日本人はその本性が卑しいだけでなく、他人への共感力や想像力が足りないので、よく失言をします。「経済大国」として、物を売ってくれたり買ってくれたりといった、良い取引先である分には大目に見てもらえましたが、今や日本は衰退国なのです。相手を馬鹿にしていたら、何時の間にか身長差が開いてしまった小さなガキ大将のようなものです。それなのに他国に対する悪口雑言や言いがかりはエスカレートしているのです。

米国人は執念深く怨みを持ち続けるような人々ではない。(中略)しかしバタアンの「死の行軍」と、真珠湾の奇襲(米国人はスニーク・アタックと呼んでいる)とは、いつまでも彼等の心に残ると思う。前者は日本人が残酷であるということで。後者は日本人が決して信用することの出来ぬ国民だということで。

  

(6)文化を軽んじる

米軍は最前線にも、将兵の為に本や最新の雑誌を送り続けたそうです。本は重くかさ張るので、広告を取り除いた小型版をわざわざ作って送っていたのです。日本人記者は捕らわれる前に、フィリピンにも本を送って欲しいと訴えましたが「船が足りない」と却下されたそうです。その一方で将校達は「料理屋の畳が足りない」などと言って日本から畳をわざわざ搬送していたのです。日本人が文明や文化にまったく関心が無いことがわかります。

日本文化を南方に紹介するとは名ばかりで、将校用の料理屋に敷く畳を送るのに船舶を用い、船が足りないから本が送れないなどといっていた日本は、何が精神文化の国だっただろうか。

 

(7)残虐性

他人に暴力を振るう事でも分かるように、日本人は野蛮な心を持っています。しかも卑怯です。権威や権力には大人しく黙って従いますが、弱い者を虐めます。「自分たちは弱い者を攻撃する権利を持っている」と考えるのが日本人です。だからその権力を喜んで行使します。自分の楽しみのためです。どん底まで叩き落さなければ気がすみません。

日本人は「空気を読むのが得意だ」と言いながら、権威に阿諛追従しているだけなのです。上をおもんばかってさえいれば、その他の人間の事は考えなくても良いという単純な能力です。彼らは外国に行くと、途端にコミュニケーションがとれなくなってしまいます。

バタアン半島の「死の行軍」のあとは、証拠がために実地踏査をした。いまだに米兵の死骸がころがっている所もあり、比島人に何故埋めないのかと聞いたら、埋葬すると日本人が怒るからだと答えたという。マニラでの暴行から、さかのぼってはいわゆる「南京のレープ」に関する新聞記事まで想起して、日本人はどうしてこんなに残酷なのだ

 

(8) 人間的な親切心に欠ける

野蛮で悪意があるだけでなく、普段の生活でも人間的な温かみや親切心に欠けるのが日本人です。普通の人間は習慣的に笑顔を見せます。それが人間関係を円滑にするからです。日本人は相手に悪く思われて自分が不利になると感じた時や、ボスに賛同する時にだけ、お追従のように下卑た笑いを浮かべます。

また、他人に下手に笑顔を見せたり親切にしていると、却って「気味が悪い。何か下心でもあるのか」と思われかねないという理由もあります。日本人相手だと、相手との適切な距離を測りながら常に接する必要があるのです。

兵員の食堂で食事をした。(中略)丁度食事を終って立上ったGが、実にさりげなく、塩と胡椒の小瓶を右手の甲で押して食卓の上をすべらし、僕の前に置いて出て行った。(中略)なんということなく、習慣みたいに、こんなことをしたのである。

永井荷風の「一月一日」にも似たような体験が書かれている場面があります。 

或る日本人は
に、米国の家庭や婦人の欠点を見出しては、非難しますが、私には例へ表面の形式、偽善であつても何でもよい(中略)其の有様を見るだけでも、私は非常な愉快を感じ(中略)折角の美しい感想を破るに忍びない。(中略)少くとも彼等は楽しんで居る、遊んで居る、幸福である。

 

(9)上に行くほど無能な日本人

繰り返し指摘されている事ですが、日本の組織では上に行くほど無能な人間が現れます。彼らは無能として振る舞う事が期待されているとも言えます。

殖産興業や軍事力増強に注力し、兵隊や作業者を増やせば、売り上げも増えるし戦争にも勝てるという時代では、もはや無いのです。無能なリーダーが居るという事は、組織にとって最大のリスクです。そもそもそれでは、リスク管理さえ出来ないではありませんか。

上の者ほど仕事をしない(軍隊ばかりでなく、役所でもどこでもそうだ)日本の習慣は、ある階級に達した者が自分で仕事をすると(中略)威厳がないという非難を引き起すのだった。上役はふんぞり返って豪傑笑いをしている方が立派でもあり、政治性があるということにもなっていた。

 

日本人の人格にこのように多くの問題があるのは、幼いころから続く虐待によるものが要因のひとつでしょう。繰り返し虐待を受けると、思考力も共感力も損なわれていきます。それでいて心の底にある怨念は消えずに、どこかでそれを放出する機会を狙っています。それが他人への暴行や虐めへと繋がっていくのです。

 

外国では、日本アニメの小児性愛や残虐性が問題になっていますが、日本で問題になる事はほとんどありません。そういった媒体には、自分の思い通りになる弱い者を、しゃぶりつくして支配下に置きたいという日本人の本音が表れています。

彼らは人格的成長を遂げることが出来ずに、欲求段階が低いままに留まっているので、文明や文化といったものに大した興味を抱くことが出来ません。

 

日本人の精神は不安定です。彼らは動じ易いからこそ「平常心」を強調します。何も起きなかった事にするのが得意です。鈍感となるように自分を訓練します。歪んだ認知で物事を捉えます。平気な顔をして何も感じていないように振る舞い続けます。表面だけを綺麗に取り繕います。

しかし、ズバリと本音を指摘されると発狂します。これが彼らの克己心の正体なのです。

虐待の被害者から加害者へと続く、この連鎖をどこかで止めない限り、この問題は決して解決しないでしょう。

比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦

一月一日

仕事の効率が悪い日本人

日本人の効率の悪さには定評があります。なぜ彼らはろくに仕事をこなせないのでしょうか。

 「私をスキーに連れてって」という映画がありました。その映画は、総合商社で働いている平社員の主人公が、オフィスで見積書を作っているシーンから始まります。見積書が出来上がるのを待つ課長は、勤務時間中ですがタバコを吸いながら週刊誌を読んでいます。昔の管理職はこのように何もしない人がよく居ました。週刊誌や学術雑誌を読んでいるのは未だ良い方で、会社に出てこないで遊んでいる人もいたのです。ネットも携帯電話も普及していなかった時代です。そもそも管理職は出社する必要はなく、トコロテン式に出世していけるのでそれでも良かったのです。

 

会社や官庁に採用される女性というのは、男性社員の花嫁候補でした。見た目や縁故採用で選ばれていたのです。彼女らは毎日の決まりきった庶務作業の他に、お茶を淹れたり机を拭いたり、お喋りに興じたり、あるいは静かに小説を読んでいたりしていました。上司でもないのに余計な仕事を頼むと露骨に嫌な顔をされたものです。

信じられないかもしれませんが、その頃は人事部が女性事務員と男性社員の縁結びをしていたのです。相当に見た目の悪い男性社員も居ましたが、そういった自分でパートナーを探せないような人でも結婚する事が出来たのです。

 

このように、まったく会社の業績に貢献しない管理職や社員を雇う余裕が昔はあったのです。多くの人を雇い、官僚機構を整備し、事業規模を拡大して売り上げを増やせば利益も増えるという単純な時代でした。

 

「プロジェクトマネージャーの仕事の8割はコミュニケーションである」と、まことしやかに言われます。「総合職の仕事は考える事とコミュニケーションである」と言う人もいます。しかし日本では、考えるのも皆と一緒にすべきであり、顔を突き合わせるのがコミュニケーションとなっているので、こんな状況下でも出社が求められます。

みんなで考えるので、昔は長時間の会議が当たり前でした。朝から夜中までです。タバコを吸いながら、みんなで「あーでもない、こーでもない」と言い合うのです。ホワイトボードに決まった事を書いてコピーを取るのは未だ良い方で、議事録も何も無かった時代があったのです。外資系のコンサルが仕切るようになってから変わりましたが、こんな非効率なやり方で仕事をしていたのです。ブレインストーミングだったとしても効率の悪い方法があったものです。

さすがに今では長時間の会議は忌避されるようになりましたが、その代わりに複数の案件の会議が次から次に入ってきます。それだけを見ると人が足りないようにも見えてきます。

SNSに「世界に誇るシンクタンクである霞が関優秀な人々がプランBを考えられないのは、公務員が足りないからだ」という書き込みがありました。「人が足りないから考えられませんでした」なんて言い訳が通用するのなら、使ってみたいものです。

「考えられる人」は少数です。「何が先に考えるべきことで、どれを後回しにするべきか」「どこに集中して考えるべきか」、そういった事が出来る人が実は少ないのです。

 

日本人がどれだけ効率が悪いかは、英語教育を見ても分かります。あんなに時間をかけてもほとんどの日本人は英会話が出来ません。試験に出るから勉強しているだけです。いったい何という無駄でしょうか。

日本では会社毎に文化が異なり、暗黙のルールがあるので、それを学ぶ必要があります。この社会では人間関係の調整に多くの時間を奪われるのです。グループウェアの「イイネ」ひとつにも気を使います。誤解を生まないように、また相手を説得する為に、対面での密な会話が欠かせません。頭で理解してもらうだけでなく「腹落ち」してもらわなければならないのです。口で喋っている事とは真逆なことを考える日本人を相手にする場合には、言葉を信用してはいけないのです。

日本語は、同音異義語が多い上にカタカナや漢字が混ぜこぜになっており、伝達効率の悪い言語です。アクセントもなく、口語では何を言っているのか分からない事があります。言っている本人でさえ、何を言おうとしているのか分かってない場合があるのですから、なおさらです。本音を探るには、いろいろな場面で相手と向き合って感情を読み取るしかないのです。 彼らは日本語さえ上手く使えないのですから、英会話など出来るようになる訳が無いのです。

ちなみに、日本人は仕事で人に恨まれたりしないように特に気を付けます。些細なメールの文面にも拘ります。目線の置き場所にも気を配ります。社内だけでなく、単なる業者相手でもそうです。そうやって出世した人は、一見人当りが良く「優しい人」に見えますが誤解してはいけません。保身の為にそうしているだけなのです。

 

仕事自体をとって見ても、時間に合わせてダラダラやるのが日本式です。3時間の仕事はきっちり3時間かけます。もし早めに終わらせてしまうと、上長や次の仕事をする人の期待を裏切り、彼らに無言の圧力をかける事になります。常に予測可能な行動をとるのが日本人というものです。大多数の凡人に合わせる護送船団方式です。

ホワイトカラーでも「手を動かす」ことを求められている末端労働者がいます。文字通り、考える時間を惜しんで常に「手を動かし」続けていなければなりません。手を休めて考えていると、ディスプレイに警告が出たり、ステータスが「退席中」になってしまいます。

未だに「考えてコミュニケーションをする人」と「作業をする人」の2つに分けてしまうのが日本人です。昔は確かに、ひたすら書類を手書きする人、計算する人、タイプする人などが会社に居た時代もありました。しかし今やその境界は曖昧です。重要な判断を下しコミュニケーションを図りながらも、ちょっとしたものなら自分で作れるような人が必要です。

 

日本人は睡眠時間が短いことが知られています。時間に追われていることもあり、寝ようとしても寝れない事も多いようです。

メシの量も足りません。いったい日本人は何だって、あんな少ない量の食事をしているのでしょうか。確かに食後は思考が鈍ります。昼を抜いたり、夜遅くまで食べない人も珍しくありません。その一方で、仕事をしながら駄菓子をポリポリ食い、カフェイン入り飲料を何杯も飲んだりします。自らを鞭打ち覚醒させながら、無駄な仕事を長時間に渡り行っています。創造性よりも、仕事に時間をかけているという事が大切なのです。

日本人労働者は日本が作るクルマと同じようなものです。外見や室内装飾といった表面は、実に綺麗に出来ています。傷はひとつもなく、チリも合っています。しかし大事な走りの性能は、いつも二の次なのです。

 

日本人はモノを作って安く売ることはできます。しかしプロジェクトを進めるのは苦手です。大規模プロジェクトの提案額は途方もなく高くなります。提案額には、高い社員のコストや、ベンダーの提案額も含まれています。そのベンダーの下には何重もの中抜き業者が居ます。利益率は社内で厳格に決まっています。プロジェクトにリスクがあれば、予備費も乗せる必要があります。社内は縦割りで融通が利きません。客よりも、社内の関係者を平和裏に納得させるのが大事なのです。

 

日本では重要な判断を行うべき人が、おかしな決定をしてしまう事があります。大戦前は、「アメリカと戦争をする」と決めた段階で悲惨な結果が見えていたのに、その方向に進んでいきました。緻密な真珠湾攻撃の計画を立てて成功したとしても、対米戦争自体が間違いだったのですから、意味がありません。

さらに彼らは、平和を訴えて交渉する一方で宣戦布告なしの奇襲攻撃を行いました。相手国民の怒りを買い、早期講和の道は閉ざされました。しかし想像力に欠ける日本人はほとんど気にもしなかったのです。講和の為ではなく、面子を保つための戦術的な大勝利を求めながらも願い叶わずに自滅しました。

優秀な人は、大きな成功がないかわりに、大きな失敗もしません。しかし愚者は大きな成功か、大きな失敗かのどちらかなのです。

若い頃にどんなに優れていても、日本の社会で成功し出世するには「バカ」になる必要があります。普段は「カミソリ」などと評されても、トップとしての判断が愚かであれば愚者と同じです。

  

以上、環境の変化、効率の悪いコミュニケーション、非効率な仕事のやり方、睡眠や食事、大規模プロジェクトの問題、思考力や想像力に欠けるリーダーについて語ってきました。それに加えて、変化を望まない国民の習性があります。多くは老人です。

「何の為にやっているかはどうでもいい。みんなと同じことを一生懸命やっているのが大切だ。そのためには安い賃金で長時間労働もやむを得ない」というのが、若い人も含めての考えです。これでは未来がありません。

 

日本の社会は、一種の強制収容所のようなものです。一度日本で生活してしまうと、もう二度と外には出られないのです。外では通用しない行動や考え方が身についてしまうからです。分かってはいても、国と一緒に心中するしかないのです。 

明治維新や敗戦時のような破壊と創造があれば、日本は変われるかもしれません。あるいは今度こそ「日本の終わり」となってしまう可能性もあります。

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