kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

洗脳の第一歩は国語の創設にあり(日本人の思考を貧弱にした日本語)

ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に、国家が国民の思想を統制する為に人工的に作られた言葉(「ニュースピーク」)というものがでてきます。世界には様々な言葉がありますが、その中には国が恣意的に作ったような言語があります。

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さて日本語というのは、語順がどのようなものであっても通じるようになっています。日本語を知らない人でも、とりあえず語彙を並べていけば通じる、その意味では単純な言葉です。

 

さらに、発音しやすく聞き取りやすいように、非常に単純な5つの母音で終わるように作られています。日本語では子音が連続する単語はありません。つまり言葉が拙い者同士が大声で意思疎通を図るのに便利な言葉だったのです。そして何の脈絡もない同音異義語が多く、書き言葉になると漢字なしでは成り立たないほどです。

 

また日本語の文法では主語が省略可能で、肯定、否定の意思表示は、一番最後になるように決められています。要するに、まずは知識を伝えるのが大切で、言葉を発する本人の意思表示は二の次という考え方です。これを利用し、まったく意思表示をしないでウヤムヤに済ますことも可能な言葉です。

 

日本語が複雑だ、難しいと言われているのは、もとは単純な言語であったのに、非論理的な文法構造や、省略して明確に語ろうとしない風習、同音異義語の多さ、場面や相手によって異なってしまう言い回し、複雑で膨大な数の漢字や外来語などの追加、追加で、完全に理解して、読み書きするのに大変な労力を必要とする言葉になってしまっているからです。決して日本人の頭が優れているわけではありません。

 

これが日本人の頭に及ぼした影響は大です。もともとの日本語は、知能が低く非論理的な人間でも話が出来るように作られているのですが、その特性はそのままに、本質的でない余計な事にいちいち頭を使わなければいけない言葉になってしまったのです。

 

さらに日本語だと、他の言葉と違って抑揚やリズムがあまりなく、単純な母音で構成されているので、日本人は世界でも外国語習得(特に話し言葉)が下手な人達となっています

 

日本の公文書は長らく漢文や、仮名交じり文でした。言文一致運動が始まったのは明治時代からです。一般庶民はこのおかしな日本語をずっと使っていたため、すっかり非論理的で主体性の薄い思考に慣らされてしまいました。国会での趣旨説明などの原稿は何の意味も持たないように役人によって作文されます。日本語はその点では非常に便利です。つまり愚民を愚民たらしめ、愚民を統治するのに都合のよい言語なのです。

 

ヒトをヒトたらしめ、思考を可能にしているのは言葉があるからです。その言葉に大きな欠点があれば、それを母国語にしている人の思考にも欠点があることになります。このように人々の思考を支配するには、まず言葉を規制することが肝要なのです。

成功し勝利するサイコパス

サイコパスというと、猟奇的殺人者や異常な犯罪者を思い浮かべるかもしれませんが、実は成功している人たちの割合は、一般人と比べて多いのです。医師や弁護士といった知的職業に就いていたり、あるいは環境に恵まれれば一国の指導者となることもあります。というのもサイコパスには以下のような利点があるからです。

 

(1)情や良心に左右されることなく決断ができる。

(2)責められても平気でウソをつくことができ、恥や罪悪感を感じない。居直ることができる

(3)弁舌が比較的巧みで魅力がある

(4)想像力に富んでいる為、常人が思いもつかないような事を発案できる

 

この世には、役に立つ「良いサイコパス」(笑)と、役立たずの「悪いサイコパス」がいるのです。

 

ただし、「悪いサイコパス」が必ずしも犯罪を犯しやすいという訳ではありません。例えば宅間守発達障害者で情緒欠如者(いわゆるサイコパス)と診断されましたが、彼のような例は極まれです。才能に恵まれない多くのサイコパス的人間は、社会に結局適応できずに人知れずドロップアウトしていくのです。

 

また逆に「良いサイコパス」にも問題があります。宅間守の場合、普通の人間の様に振る舞うことが彼にとっては非常に困難で苦しいものであり、その為、自己受容ができず、常に「死にたい」と考えていました。ところが才能のあるサイコパスは、「普通でないこと」が天才の証であるかのように勘違いしているところがあり、自省が出来ていない分、却って厄介な場合があるのです。

 

非常に恵まれたサイコパスであっても、世紀の偉人(笑)であるのか、あるいは禍をもたらす疫病神なのか、人によって判断は異なるでしょう。

死ぬ気で頑張るから日本人は気味が悪い

日本人は自分たちのことを優秀だと考えています。経済大国で豊かだったし、戦争でも強かったというわけです。ところが日本人は頭が特別いいわけでもなく、体格だって貧弱です。

 

最高学府である大学の世界ランキングは異常に低く、サッカーやラグビーのような集団格闘戦に近い競技での日本の弱さは情けない程です。では日本人のアドバンテージがどこにあったかと考えてみると、それはルール無視で、がむしゃらに皆で頑張るところです。

 

言ってみれば喧嘩は弱いが、泣きわめいていきなりナイフを持ち出してくるような輩です。

 

経済では、ヨーロッパやアメリカの人たちが、ゆったりとした昼休みや、長い休暇をとって人間らしい暮らしをしながら仕事をしていたのに、日本人は西洋の技術を盗んだり、猿真似をしたりして、集団でロボットのように規則正しく、がむしゃらに働いてエコノミック・アニマルという有難い称号を得るまでになりました。

 

昔の戦争では負けが見えたら退路を断たれていない限り降伏したものです。第2次世界大戦は総力戦という一面はあったものの、それでも日本人が戦う様子は異常でした。負けるのが明らかなのに降伏せずに、いつまで経っても戦い続ける。そのためガダルカナル硫黄島や沖縄の戦いは日米双方にとって修羅場となりました。さらにはカミカゼアタックや、バンザイ突撃という、組織的な自殺攻撃を発案し実行に移しました。

 

これらの頑張りや努力を、個々人の愛国心や忠誠心に都合よくすり替える論調がありますが、それは違います。指導者による巧みな洗脳、深く考えようとしない国民性、強い同調圧力などにより、「仕方がない」、「みんながそうしているから」という気持ちで、同じ行動をとっているに過ぎないのです。奴隷である日本国民も実は可哀そうな被害者と言えるのです。

 

このように日本人の「強さ」というのは、それまでのルールを無視し、どんな卑怯な手を使ってでも忍耐強く戦い抜くというところにあります。経済でも戦争でも死ぬまで頑張る、自分の命を差し出してまで戦うという、その姿勢が、世界の人達には理解できず、非常に不気味なのです。

肉ほど体に優しい食べ物はない

肉はカロリーが高くて健康に良くないとか、大腸がんになるとか、いろいろ言われていますが、肉ほど体に優しく栄養になる食べ物はないのです。人間の体は肉を食べるように出来ています。聖書に書いてある通りです。

 

「すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。」(創世記9:3)

 

肉はできれば生に近いほど良く、胃にとても優しくなじみます。消化もよく、胃がもたれる感じがないのに元気がでて、それが比較的長く続きます。肉を食べてもたれるというのは、一緒に食べたものが悪いか肉そのものが良くない場合です。

 

豚肉などは寄生虫などがいて良く焼かなければならないので、結果として消化が悪いのです。ユダヤ人のコーシャでも豚肉は食べてはいけないものになっています。

 

「豚、これは、ひずめが分かれており、ひずめが全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。」(レビ記11:7)

 

菜食主義なんて馬鹿な考えです。植物タンパクをいくら摂った所で肉の代わりにはなりません。また炭水化物ばかり摂っている日本人も愚かです。ラーメンにライスとか、ご飯と餃子とか炭水化物だらけの食事をしている人がいます。中国人から見ても奇妙だし、ヨーロッパ人にいたっては、貧しくて肉が食べられない可愛そうな人たちと日本人は見られています。基本的に穀物は家畜の餌です。

 

もちろんこうなったのには古来から連綿と続く理由があります。全ての人がかってに狩猟して肉を食べてしまったら、たちまち肉が不足します。放牧には広くて肥沃な土地が必要です。対して稲作は国民を狭い土地に縛りつけ、集団で忙しく働かせることが出来るので、為政者にとって民や食糧を管理しやすく都合がよいのです。

 

米や雑穀中心の貧しい食事、重労働の稲作、過酷な気候、狭い土地での近親相姦により、遺伝子はどんどん劣化していき、世界的に見ても貧相な日本人がこうして出来上がりました。

 

そして今日も、カネのある老人はステーキを楽しみ、貧しい若者はラーメン等のB級グルメに舌鼓を打つという光景があちこちで見られるわけです。

日本の人工知能ビジネスの限界

日本の企業が、日本語でそれらしく対話ができる人工知能をリリースしていますが、かけたであろう労力の割に独創性が乏しいもので、日本の最先端とされる人工知能研究ならびにビジネスの限界が見えるような気がします。

http://news.mynavi.jp/news/2016/10/25/104/

 

(1)ワクワクするようなものがない

例えば(AIではありませんが)IBMのワトソンだと、TVのクイズ番組に出て勝利しましたというトピックスがあります。Googleの「アルファ碁」はプロの棋士を破ったことで有名です。人寄せパンダ的なものではありますが、こういう分かりやすさがある事が必要です。

 

(2)これまでの技術の延長線上でしかなく、何が新しいのかよく分からない

ワクワクするものが無いのは、これまでの技術の延長線上にしかないものだからです。単に各研究所が作った既存のものを組み合わせてみましたというだけなのです。人工知能による会話というのはこれまでもあった訳で、それに精度のよい音声認識技術を組み合わせましたというものです。「ちょっとづつ改良し、ちょっとづつ機能が増えて良くなっています」という所が、いかにも日本的です。

 

(3)単なる翻案でしかない

外国ではやっているものを日本に翻案してみましたというものに過ぎず、「今はやりの人工知能、それを日本で日本語を使えるように作ってみました」というもので、猿真似の域を脱していません。

 

(4)一番大切な部分を外注、協業にしてしまっている

基本的な応対シナリオ作り、客に合わせたチューニングなどノウハウを蓄積できる大切な部分を外注や、アライアンスの相手に丸投げしてしまっています。これでは未来はないでしょう。

 

(5)「モノを作りました」で終わっている

結局、旧来の日本的なモノ作りから脱していません。「モノをつくりました。あとは営業、下請けや販売会社に売ってもらえばいい」みたいな考えです。プラットフォームやビジネススキームを作ったつもりになって、それだけで満足してしまっているのです。

 

(6)売り込みはBtoBの法人営業頼み

(1)の「分かりやすい魅力がない」というのにも関連しますが、書かれている説明がそっけないのです。要するに法人向けの商売だから、詳しい説明や売り込みは営業任せということなのです。ここに作り手の傲慢と、想像力の欠如、努力不足が垣間見えてしまいます。