kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

囚人のような日本人

日本人は抑圧された社会でも何故平気な顔をして生きていけるのでしょうか?

ドストエフスキーの「死の家の記録」には、個性豊かで時に愛すべき囚人達の姿が描かれています。書き手は囚人の中に共通するある特徴に気づいていきます。

囚われの身でありながらも、人々は精一杯虚勢を張って過ごし、「何時かこの監獄を出た暁には・・・」という儚い想いにすがって生きています。彼らは自分達の「分」を良く心得ており、反乱や脱獄はめったに起きず、その日その日を大過なく過ごしながら、出獄の日を指折り数えて待っています。

毎日を適当にやり過ごし、あり得ない希望にすがる、それがあるからこそ劣悪な環境でも「死にもせず発狂もせず」生きていられるのです。日本人もこれと似た所があります。

 

例えば徒刑囚(懲役囚)は、毎日働かせなければならず、しばしば意味の無い仕事を与えられます。だから仕事のやり方もダラダラとしたものになります。目標やノルマを与えられた時だけ、かろうじて頑張る事が出来ます。

仲間との会話は、中身のあまり無い虚勢に満ちたもので、空威張りをし、威勢が良いだけの言葉が飛び交います。周囲はそれを笑いながら見ています。口喧嘩では、どれだけ達者な事を言って相手を丸め込むかが重要であり、そういった強さがなければ軽蔑されます。正直者は馬鹿だと思われています。こういった争いや口喧嘩で、日頃の鬱憤を発散しているのです。

彼らは常に短期的、短絡的な見方しかできません。例えば未刑囚は、目の前に迫った悲惨な笞(むち)打ちの刑を逃れる為なら、どんな馬鹿な事でもします。例えそれで刑罰が重くなってもです。彼らは状況が悪くなるのが分かっていてもそれを先延ばしにして、現在の不安を誤魔化すような事をするのです。

口喧嘩に見られるように囚人はプライドが高く、貧しいながらも何とか手に入れたボロボロの服装で洒落者を装い「自分は特別だ」という風に監獄内を練り歩きます。表面を糊塗した滑稽な身なりでも本人は大真面目なのです。

さらに彼らは、よく妄想に浸ります。監獄を出られそうもない年配の徒刑囚が「自由の身になったら~」というあり得ない幻想にひたって自分を慰めています。

 

日本人は自由の無い囚われた存在であることを無意識のうちに認識しているからこそ、監獄に入れられた人々と似たような行動をとるのかもしれません。

恐る恐る、誰かに借りたかの様な束の間の人生を生き、自分が社会的に無価値であることを認識しながらも、ごくたまに「自由意思と権力」を見せつける機会があれば、それを逃しません。自分より弱い者を虐げて満足しています。たまに人間扱いしてくれる詐欺師が現れるとコロリと騙されてカネを振り込んでしまいます。

日本ではさらに、虐げられた状態でも集団内で序列が作られ、その中で不平等が発生します。徒党を組み、どちらが正しいか(≒偉いか)を巡って醜い争いを繰り広げるのです。

 

日本以外の国では、自分を買い取って自由の身になれる奴隷が居ましたが、日本人は、巧妙に作られたシステムにより、高い公共料金や税を支払い、マージンをたっぷり乗せた物価に喘ぎながらも、ウサギ小屋を手に入れ「普通の生活」をするために、死ぬまで働き続けなければならないのです。「年金をもらえるようになったら・・・」「いつか自分の夢をかなえて・・・」とあり得ない夢想にふけりますが、彼らには永遠に「自分の人生」などは訪れないのです。 

それでも日本を成り立たせる為に、このシステムは維持し続けなければなりません。子供たちには是非とも、「日本の存在感を高める事に貢献したい!」「生涯現役で人のために尽くします!」「75歳まで働いて年金を満額受け取るのが夢です!」「欲しがりません○ぬまでは!」(笑)と言うようになってもらうべきなのです。