kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

量を捉えられず、議論もできない日本人 

日本人の多くは精緻な思考ができません。

例えば男女平等が話題になると一人は「女性はもっと社会進出すべきだ」と言い、もう片方は「男女は異なるのだから平等など意味がない」となり、議論は終了します。

 

こうした話をする際には最低でも「このトピックスを世界全体に広げて考えたらどうなるか」「時間軸に沿い社会環境がどう変化してきたか」「議論している我々の地域における特殊性は何か」「相手はどういう立場や動機で喋っているか」「自分はどういう立場で喋るのか」といった事を無意識に考えるものですが、そんな事にまったく頓着しないかのように語る人達がいます。その場の直感と感情で、どこかで聞いた言葉を適当に組み合わせ、もっともらしく口を動かしているだけです。これでは対話が成立するはずがありません。

 

日本では、有名人が活躍すれば「世界が称賛している」となり、何かあると「報復だ」「個人攻撃だ」「許せない」と騒ぎだします。まるで勝手な恋愛妄想を抱いていた病人が、ふとしたきっかけでストーカーとなるようなものです。メディアによって新しい言葉を与えられた途端、彼らは己の姿も省みずに、手っ取り早い攻撃の道具として用います。論理は全く存在せず、自分の欲望を満たす為なら何でもするという卑しさがある一方で、その使い方の稚拙さが目立ちます。

 

両価性("ambivalence")という可能性もありますが、どうやら彼らは適切な量を頭の中で掴む事ができないようです。例えば「綺麗」「汚い」という主観的な評価尺度の間には、いくつもの段階があることに思い至らないのです。またそれ以外に、別の観点から見た評価尺度があるという事も気がつきません。彼らは異なる評価軸の両側で互いに叫びあっているだけですから、話し合いは永遠に平行のままで終わります。あるいは、力の強いほうが、突然、情緒的な価値基準を持ち出してきて、それで相手を捩じ伏せたりします。

 

ちなみに日本人は情緒的と言われますが、相手を気遣うフリをして、ただ自分の意向を押し付けているだけです。

例えば上司が甘えるように「皆の足を引っ張ってばかりだよなあ」と言えば、すかさず部下は「いえいえ、そんな事はありませんよ」と慰めてあげないといけません。逆に上司に対してそんな事を言えば黙殺され、「手前の面倒まで見れるか、アホ、女房にでも愚痴ってろ」と思われるだけです。日本人は、お互いを幼児扱いしながら「この社会は世界一、親切で優しく、おもてなし精神に溢れている」などと感じています。

 

何の事はない、彼らは集団内で、交互に幼児役や母親役を演じているのです。その一方で目下の者や部外者には厳しい父親役となり、傲慢な態度で叱り飛ばします。人格の成熟度を数字で表すのは困難ですが、日本人はまるで思春期あたりで成長が止まってしまったかのようです。成人になってからは、却って荒廃していくと言えるかもしれません。集団内でそれなりの地位にあれば、いくらでも幼児のような我儘が通りますから、役立たずの落ちこぼれには天国のような社会とも言えます。

 

こういった幼児性の他に、日本人がまともに議論ができない理由のひとつとして、言語と空間認識を結びつけられないという事が挙げられるかもしれません。"「いき」の構造"のように意味構造を研究対象として扱うことはできても、彼らの日常においては、言葉はほとんど意味を失い、文章になると支離滅裂か、ただの言葉遊びのようになっています。

 

言語と空間が結びついていないため、彼らは複数の因子を頭に思い描き理論を構築するどころか、たった一つの因子さえも、まともに扱えません。そもそも日本人の会話を聞くと、量というものを適切に操作できていないのです。数字の尺度を日常会話では使いこなせず、「最大限」と言ったり、面積を表すのに「東京ドーム何個分」という表現をしたりします。ほとんどの人は尋ねると「おおよそこのくらいの量」という推定ができず、生真面目に計算するか、全く答えられないかのどちらかです。

 

さらに複数の観点から自分の意見を検討することができず、異様な感情的バイアスもある為、例えば質問サイト等を見ていても、おかしな回答が散見されます。最後の結論が、何かを称賛するような表現だったり、質問者への個人的非難になったりしているのが、それらの特徴です。日本人は適当な(≠いい加減)妥協点を見つけることができず、都合良く、一方の極からもう一方の極へと激しく揺れ動きながら、相手を攻撃します。

 

彼らにとって学問は、単なる修行や金儲けの手段としての意味合いしかなく、それが日常生活にどう役立つのか全く理解していません。「哲学や数学なんかやって何になるの?」と質問してしまうような人達です。即物的なものしか価値を認めず「カネになることを早く教えんかい、コラ」と怒りだす人々です。

日本人はストレスに弱い傾向があり、そのために思考を停止し、馴れ合いながら、人として成長することを自ら止めてしまった「永遠の子供」なのかもしれません。