kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

新しい考えを受け入れられない日本人

日本人は新しいものを覚えようとしない人々です。頭を使うのが嫌いなのです。それよりも、反復練習によって体に覚え込ませる方法を好みます。そのために結局は大したことを成し遂げられないのです。

 

人間の小脳はかなり複雑な事をやってのけます。夢遊病者は、意識がない状態で起き出し、日常やっているような行動をしてしまいます。クルマで出かけて事故も起こさずに家に戻ってきたという例さえあります。人間の行動の大部分は、言わばロボットのように自動的に行われているものなのです。

小脳には、複雑な仕事をこなす為の神経細胞が大脳以上に存在しています。しかしそれらは上位では互いに連結していないのです。蓮の花の中央にある花托(かたく)を写真で見たことがあるかもしれません。蜂の巣のように穴がいくつもあいています。小脳も同じようなものです。それらの活動は上位で統合されておらず、意識や自己を一切必要としないのです。それぞれが命令を受けて自動的に動くだけです。

 

日本人も小脳レベルで動いている自動機械のようなものです。単純作業は巧みにこなせます。けれども思考や決断を要する仕事を極めて苦手としています。総理大臣や航空管制官は本来日本人がやってはいけない仕事です。

今年の1月に起きた航空機事故と震災は象徴的なものでした。訓練通りに機械のように動く場面では、日本人は鮮やかに習った事を遂行できます。一方で決断力や判断が必要な場面では実に稚拙です。


もしドラ」という本が昔に流行った事があります。主人公は野球部のマネージャーです。日本では野球部のマネージャーは女子がやるものとほぼ決まっています。つまり選手より劣った存在で、片手間の雑用係とみられているのです。当たり前ですが、マネージャーやリーダーの仕事というのは専任でやらなければならない難しい仕事です。彼らの仕事いかんで組織の未来が決まり、何倍もの成果が上げられるのです。

ところが日本では、組織の長は名誉職だと思われている節があります。大した仕事がなくてどんな我儘でも通ります。周りが勝手に世話を焼いてくれますし、先回りして忖度もしてくれます。


日本人は戦略立案が苦手です。日本の海軍や陸軍の将校はエリート集団でした。海軍大学や陸軍大学というのは、成績優秀なだけでは不十分であり、人格や体力も考慮され、推薦が無ければ入れなかったのです。

しかし彼らは勝てる見込みのない戦争に突入して行き、稚拙な作成を立てては失敗を繰り返しました。原子爆弾を落とされるまで、戦争を止める事さえ出来なかったのです。

 

日本人は高度に抽象的な思考が苦手です。しかし単純な作業をこなすことはできます。繰り返される厳しい訓練に耐え、無我の境地で遂行することを得意としています。

訓練通りに職務を遂行するには、思考や自我といったものは却って邪魔になるのです。自らの意思で新しい事を覚えてしまうと、せっかく訓練した内容を阻害してしまいます。彼らは新しいものに対して本能的な恐怖を感じています。誰かに「これをやれ」と強制されない限り、遠巻きに見つめているだけです。彼らは幼い頃から厳しい躾を受け、塾に通い部活に勤しみます。自分で考える暇を与えられません。


日本人は統合された思考や自我を持っていません。だから彼らは、状況に応じて態度を変えるのです。それぞれの状況に応じて真実やルールがあり、それに従います。人格を統合されたものとして考えると、日本人は矛盾だらけです。

森鴎外のような人物でさえも西洋的な自我や個人の考え方に違和感があったようで、その事を短編「妄想」に記しています。個としての人間の本質を考えるよりも、周りの様々な要請に応じて日々淡々と仕事をすることが自然だと考えていたようです。

 

統合された思考、自分と外部との区別、過去や未来を見通す行為は、左脳が主におこなっています。これを手に入れたからこそ、人類は地球の支配者になれたのです。人間は自らの意思で脳を大きく改造できるのです。ところが日本人はこの機能が著しく劣っているのです。

日本人はサラリーマンや公務員としての日々の仕事をこなす一方で、泥酔して羽目を外します。真面目に仕事をこなすかと思えば、変態や痴漢やストーカーや強姦魔にもなります。その場その場で全く違った顔を持ちます。災害時には簡単に野獣へと変貌してしまいます。

日本人はまともなリーダーを求めていません。その代わりに強権を振るう狼藉者を求めています。それが彼らの潜在的な願望だからです。


彼らは年を経るにつれて急速に無能者と化していきます。大学受験がピークで、その後は新しいことを学習しようとしません。せいぜいが資格試験の勉強程度です。いつか職位を得て偉くなったら本能のままに振る舞うことを夢見ています。

 

彼らは思考停止状態にあり物事を追求しようとしません。「そんな事は分かっている」と悟ったような事を言います。「無我の境地」とは思考停止のことです。それが彼らの悟りなのです。


リモートワークの時に京大卒の同僚と定期的な打合せを行いました。そこで彼が提供する話題は決まったように朝の情報番組からのものでした。子供がいると仕方がないのですが、毎朝TVを点けるのが習慣となっており、そこで見聞きしたものが自動的に彼らの思考を形作っていくのです。広告代理店や番組制作者が選んだ醜い顔をしたお笑い芸人が、彼らが信奉する真理の伝道者です。


以前に鮨屋へ行った際に、70代の男性が同じく70代と思われる女性をカウンターで口説いていました。刺身をモグモグと磨り潰しているお婆さんに、大統領選やコ◯ナワクチンの話題を散りばめながら「ネットには真実があります」「テレビは信用できない」「ネットを見たほうがいい」と熱心に語りかけ、「ついでに」といった調子で住所も聞き出そうとしていました。

彼らは思考停止状態にあるので、TVの洗脳から解けても、今度は別のものを無批判に信じ込んでしまうのです。


日本人の自負とは異なり、日本は今まで大した事を全く成し遂げていません。

真珠湾の奇襲攻撃は、素知らぬ顔で和平交渉を続けて宣戦布告をギリギリまで遅らせることで得た成功でした。朝鮮出兵豊臣秀吉の妄想から生まれた狂気です。日本が大陸の支配者になってどうしようと言うのでしょうか。東アジアの自由な交易を実現するため? 日本人はチンギス・ハーンにはなれません。功を挙げた者に新しい土地を与えるため? バカバカしい限りです。朝鮮も明も、まさか後先を考えずに日本人が総力をあげて攻め込んで来るとは夢にも思っていなかったはずです。

明治維新は、農業国をむりやり工業国に変える為の革命でした。本質は何も変わっていません。江戸時代は厳格な階級制度を前提として、農民を搾取することで成り立っていた社会です。それが工場労働者を搾取する社会に変わっただけです。

 

太平洋戦争に負けて、しばらくの間はそういった社会構造を維持する力が弱まりました。しかし現在、再びもとに戻ろうとしています。

日本人には、自我や主義や思考力がありません。無条件で新しいものを受け入れてしまう傾向や、勝つためには自分たちの命さえ顧みない傾向、これらが有利に働くことがあるというだけです。


本来ならば新しい考えを受け入れるというのは、自らの血を流すような行為です。つまり今まで作り上げてきた人格をいったん解体して再び統合する過程が必要です。矛盾を受け入れるための葛藤があり、人格統合には時間がかかります。

ところが日本人は獣に近い存在なので、浅く表面的なものだけを見境なく受け入れてしまうのです。けれども結局は表面的なものでしかないので、いつか底の浅さが露呈します。その頃には、新しいものを統合して我が身とした他国に負けることになるのです。

 

日本人が「普通」としているものが如何に異常であるか。この事に気づかなければなりません。日本においては「普通」になるのが一番難しいのです。

そうであるならば、わざわざ茨の道を歩む必要はありません。異端となることで、他の日本人から易々と抜きん出ることができるのです。

ちくま日本文学017 森鷗外 (ちくま文庫)

意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論

WHOLE BRAIN(ホール・ブレイン) 心が軽くなる「脳」の動かし方

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

異常者しか生き残れない日本社会

日本は異常な国です。そんな中で生き残れるのは異常者しかありません。弱者にとっては過酷な社会です。弱者が徹底的に虐げられる場所だからです。しかしそんな弱者であっても、生き残る為にさまざまな工夫をしているのです。

 

誰かが書いたこんなブログ記事が少し前に話題になりました。社内でのパワハラ被害者である新人を、中堅社員である書き手が守ってその面倒を見たところ、結果として大変な目に遭ってしまったという内容です。

その新人は、マメにいろいろな事を訊いてくるのだそうです。しかしそのうちに彼が何度も同じことを訊いてくる事に気が付きました。しかも嫌がらせのように、外出する5分前に質問をしてくるのだそうです。

それでいて仕事は何時まで経っても覚えず、成果も上げられません。言い訳はするのですが、そこに巧みにウソが織り込まれています。怒りたいのですが、そうすると今度は自分がパワハラの加害者として通報されかねません。書き手は窮地に追い込まれます。

 

この新人は、両親に精神的虐待を受けて育ったと思われます。しかし幼児にとっては絶対的権力者である親に、逆らうことはできません。だから、自分を抑圧して内に籠もる代わりに、そんな状況であっても、積極的に親に関わろうとします。

けれども、その方法が歪(いびつ)なのです。問いかけをしながらも、相手を困らせようとするのです。表面的には権力者に従順ですが、それとなく反抗します。これを無意識のうちに行っているのです。

また、親の期待通りに成果を上げてしまうと、それは親に勝ちを譲ってしまうことになります。そのために、わざと期待以下の成績しか残しません。責められれば、あれこれと言い訳を繰り返します。つまり表面的には被害者であるという体(てい)を保ちながら、社会に復讐しているのです。

 

本人は、まさか自分がそんな事を意図しているとは夢にも思っていないはずです。人間というのは、感情を抑圧しても無意識はいつの間にか解決方法を探り、奇怪な方法で自分を満足させようとするのです。意識はそれに対してもっともらしい説明をつけて、「自分は正常である」と自身を納得させるのです。

 

このような人々は、被害妄想、演技性人格障害などが複雑に入り混じったような「モンスター」です。もし彼が人生の何処かで、自身でそれに気付くことがあれば、劇的に治る場合もあるでしょう。

しかしこの手の人は、誰かに言われても、それに納得して自分を変えることは絶対にありません。彼らが結婚して子供をもうければ、今度は彼ら自身が加害者となります。

 

実はこのタイプの人間は日本人に多いのです。これほど極端ではありませんが、私もこういったタイプの新人に関わったことがあります。命令には素直に従い、周りに同調して同じ答えを返します。それでいて心は冷めており決して本心から納得はしていません。表面的にしか理解していないので良くミスが発生します。その点を指摘すると巧みに本当と嘘をないまぜにした言い訳を繰り返します。そうしなければ社会的に生き残れなかったのです。

 

被害者を装う日本人は多くいます。というより「本当に被害を受けているのだ」という妄想を信じ込んでいます。彼らにとって、自分の意にそわない他人は全て敵です。

その反面で、彼らは生活保護を受けているような弱者や老人を忌み嫌います。彼らは、被害者であると同時に加害者でもあるのです。彼らは精神的虐待を受けたという自覚がありません。

その代わりに、自分を同時に「強者である」と信じ込もうとして、虚しい努力を重ねています。社会保障を享受しているような人間は「甘えている」のであり「税金をかすめ取ろうとするとんでもない奴だ」と考えています。彼らの内面は実に病的です。

 

日本では弱者は生きていけません。日本では、弱者になった途端に誰からも虐げられ、それでいて文句も言えない存在へと成り下がるのです。被災地域の人々を見てみてください。弱者として、しおらしくしている限りは「存在しない人間」として扱ってくれます。しかしちょっとでも人権を主張するような事があれば、徹底的に叩かれるのです。つまり「つけあがるな」ということです。

しかし自分が年老いたり障害を負ったり世間様に顔向けができなくなったりして弱者となった時には、彼ら自身が日本人によって痛めつけられるのです。それが苦痛でその前に自殺してしまう人さえいます。

 

日本人にとっては、自身が弱者であっても、ギリギリまでそれを認めるわけには行かないのです。同じ弱者を守るどころか、弱者を虐めることで自分の心の均衡を保っているからです。弱者がいきがって強者のフリをし、自分より下の弱者を虐めるという構図です。

日本人のほとんどが差別主義者であるゆえんです。すべてを自分より「上か下か」で判断します。外人、在外邦人、障害者、同性愛者、貧乏人、低学歴や田舎者、女性・老人・子供は、自分より下でなければ困るのです。

 

その一方で彼らは、隙あらば「誰かに寄生しよう」と考えています。寄生しながらも相手を強く憎んでいます。「早く死んでしまえ」とさえ思っています。強いものに媚びながらも、狡猾に盗んだりサボったり誤魔化したり裏で悪口を言ったりするのです。彼らこそが、忌み嫌っている弱者そのものであり寄生虫なのです。

 

日本人の多くは、治療が必要な精神病質者です。親から子供へと受け継がれる異常な教育方法を変えない限り、日本人は変わりません。差別が前提となっている息が詰まるような序列社会も原因のひとつです。遺伝的にもなんらかの異常があるのかもしれません。

 

日本人のまずい点は「社会や自分達がいかに異常であるか」を自覚していないところにあります。まずはそこに気付くことから始めなければなりません。先に述べたように、自分で気づかない限り、絶対に自分を変えられないのです。

みずから本を読み、学習し向上しようという意思がなければ、日本人はいつまで経っても異常者のままなのです。

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高卒レベルの日本人 ‐差別を維持する為の教育システム‐

日本は低学歴で知られている国です。新入社員はほとんどが学士です。学士とはいっても、大学で勉強をしていないので中身は高卒と同じです。実のところ、表面的で中身の無い教育は日本のシステムを維持するためにあるのです。

 

日本は世界と異なり修士や博士という学歴に重きを置いていません。才能ある若者を評して「末は博士か大臣か」と言ったのは明治時代初期までの話です。もし現在「あの人はPh.D.をお持ちなんですよ」と言われたら、一般人は「へぇー、それでどこにお勤めなんですか?」と訊き返すことでしょう。下手をすると何をしているのか分からない奇人変人と思われかねません。高学歴が風俗嬢になったりヒモになったりするのは、日本だけでしょう。

 

日本では、大学院に進むのは「日本の社会の仕組み」を学べなかった愚か者であり落ちこぼれです。日本でも世界に合わせて修士や博士に進めるプロセスが整っていますが、それはあくまで表面的な話です。日本では当然ながら学校名が大事です。有名大学を出て学卒で有名企業や官公庁に入るのがエリートです。外務省のように大学を中退して入省する場合もありました。必要であれば、そこから国や会社のカネで修士や博士をとり箔を付けるのです。

 

日本では序列が必要です。日本人は他人を値踏みする人々です。対象を客観化できず常に自分の身をそこに投影して「上か下か」を感情的に判断する人達です。彼らは他人を評価する基準を必要としています。というのも序列が明確でないと、他人とどう接していいのか分からないからです。そのためにあらゆるものが序列化されています。これは彼らにとって客観的事実に近いものです。

 

高校時代に同じクラスの女性が「一次試験の結果が少し悪かったので東大ではなくて京大にしようと思います」とサバサバした表情で担任に話していました。ショックだったでしょうが、どうすべきか悩む必要はありません。京大に行けばいいのです。

東大と京大では、場所も違えば、校風もかなり異なります。目指しているものも違います。それなのに序列に従い「1番が駄目なら2番目」と考えてしまうのが日本人です。「入りやすいから理2を受けよう」「今年の倍率が低くなりそうな大学にしよう」と考える人もいます。自分の成績に応じて効率的に出来るだけ高い序列を目指そうとするのです。

上に挙げた女生徒とは異なり、筑波大学には落ちましたが早稲田の政経に合格した知人は終始にこやかでした。大学ブランドでは早稲田のほうが序列は上だからです。

何を学ぶのかは全く重要ではなく、序列の高い大学に入るのが最終的な目的と化しているのです。

 

「社会に出れば学歴ではなくて実力の世界」と言われます。しかしやはり大企業では学歴がものを言います。一般的に金融系なら東大、京大、一橋、早慶でないと上に昇って行くのは困難です。大学が同じであれば有名高出身者が有利です。会社間のざっくばらんな付き合いで学校名を名乗るのは当たり前なので、格下と看做されている大学名ではバツの悪い思いをすることになります。そもそも私立は早慶しか採用しない会社も多くあります。

 

ちなみに有名大学出身ではあっても、日本での学者の立場はなんと低いことでしょう。見かけの地位は高いことになっていますが、それは官公庁や民間に認められたからです。体制に楯突くような学者は地位を得られません。学者は役人にアゴで使われるだけではありません。民間の研究所に在籍するMARCHクラスの研究員に使われて謝礼を貰うような立場なのです。学者が官公庁や民間のトップになるのは不可能ですが、役人や会社員が学者になるのは遥かに簡単です。

 

このように、社会的地位が高く有名校出身のブランドを持っていることが、日本では重要です。もちろん日本の大学ブランドなどは世界で通用しません。でも日本ではそれが大変な力を持つのです。役人になれば匿名性を維持したまま大きな権力を手にすることができます。無謬でありかつ無責任でいられます。老後も安泰です。誰からも頭を下げられます。

 

日本では役人に法学部出身者が占める割合が多かったことも問題でした。日本の法学というのは要するに権力者のための実学です。民を抽象化して、それらを「どのような仕組みで効率的に治めるか」という実学です。人々を血の通った生きた人間として眺めることはありません。「よらしむべし知らしむべからず 」という江戸時代の儒教的価値観と大差ないのです。法学部を目指す人間というのはこういうものです。

法曹界でも司法修習で成績が良かったものは検事として採用され、愚直に言われた事に従う者は判事として採用されます。その他どうでもいい大勢は弁護士となります。

 

民を統べる仕組みは大切です。体制側から見れば、日本人というのは「手や足を動かしたくない。何なら頭も動かしたくない」という怠け者です。そういった連中を統率し上手く動かす仕組みが必要なのです。

だから日本では、人々が考える必要がないように、序列や多数決、「空気」が重要視されます。人々は序列に従い上の者を崇め奉り、下のものを蔑みます。上の者に褒められると天にも昇る気持ちです。子供も「空気」を読み、多勢に従うことでこれらの序列を内面化していきます。こうして一人前の日本人が誕生します。

 

日本人というのは即物的な人間です。眼の前にぶら下げられた人参しか目に入りません。多くの人々は有名大学に入ることが目的化しています。そこから何をしようという志がありません。

日本の社会は「序列が高い大学に入れる人間であれば、何でもこなせる」という前提に立っています。教育は人材選別の手段でしかありません。教育によって人を陶冶するという考えがないのです。つまり「優れた人材は生まれつき優れていたのであり、教育などはむしろ邪魔なものだ」という考えです。教育を受け「資格を取得してスキルアップ」などというのは下々の人間がやることです。

役所だけでなく普通の企業においても、高等教育などはむしろ弊害だという考えが長く続きました。有名大学に入った真っ更な状態の学生を、自分の会社のカラーに染め上げていくのです。

 

ただし日本ではトップ企業であればあるほど自由です。たとえば総合商社ではその年のもっとも優れた人材が集まる傾向にあります。入ればかなり自由に仕事を任せてもらえます。彼らは自発的に学び成長し会社に貢献してくれます。コストのかかる研修制度が整っていますが、組織が人に教育を施すという感じではありません。もちろん怠けることだって出来ます。


日本人は勤勉で教育熱心だと言われていましたが、実態はまったく違います。上の例のように、結局は個人の精神力や頑張りが頼みです。システム化や組織化がなされていません。そもそも西洋から来た学問なんて誰も重要視していないのです。実学にあたる部分がカネになるから受け入れているだけです。

電機や化学、工学、ITといった分野では西洋由来の知識は必須です。しかし日本では理系の人材というのはランクが下がります。給与は低く拘束時間も長めです。つまり理系の学問をおさめてそれを実際に活用している技術者や研究者は下賤の民と見られているのです。実際、冴えない服や作業服、汚れた白衣に身を包んでいます。

一方でエリートを生み出すはずの文系教育過程では大したことを教えていません。法学、政治、経済、経営といったものです。マンモス大学では卒論が無いところさえあります。結局のところそれらは実学であり、実際にやってみなければ分からないという側面があるからです。社会学や人文系の学問に至っては、女性や酔狂者の為の学問と思われています。

 

こうして今日も日本は、高卒レベルの人材が有徳の士として迎えられて国や企業の将来を担うことになるのです。

 

教育は大切です。人間というのは、気をつけないと容易に暗黒時代の野人へと戻ってしまいます。人間の脳は数十万年前と大差ないのです。そうした人間を文明人へと変えるのが教育なのです。国を興隆させ成長させるのも教育の力です。

しかしながら日本人は未だに教育を、小手先の技術習得や、人材選別の道具としてしか考えていないのです。これでは国の未来が無いのも当然です。

けれども日本の社会を維持するには、人々は暗愚のままに捨て置いた方が良いのです。上は何をやっても許されるが、下は何をやっても決して許されない社会です。上にとってはユートピア、下にとってはディストピアです。

 

なぜ日本の教育はこのようになってしまったのでしょうか?

日本というのは「差別」が前提となっている社会です。「人間には貴賤がある」という事です。社会構造がそうなっていますし、日本人の価値観にも気持ちよく合致します。歴史を振り返れば明らかです。人々は常に「上か下か」と他人を値踏みします。そうしてその差別がまるで存在しないかのように振る舞います。見かけの序列と本当の序列は異なります。これらの原則を忘れてはいけません。

この「差別」を固定化するために「学問」や「教育」というのはまことに都合の良い道具だったのです。日本の教育や学問というのは、実にこの「差別」を根底とした社会を維持強化するためにあるのです。それらは本当の学問や教育とは異なる換骨奪胎のまがいものです。

 

こういった社会が行き着く先は、誰でも容易に想像がつくことでしょう。日本は低学歴の国であり、尚且つ奇妙な価値観に囚われたカルト集団です。意思疎通が不可能な人々です。日本は急速に他の世界とは全く異なる国と化しつつあります。

そして遂には、鎖国をするか、あるいは世界に無謀な戦いを挑むかのどちらかになるしかないのです。

「空気」の研究 (文春文庫)

高学歴難民 (講談社現代新書)

資本主義の矛盾を正すシステムの不在

資本主義は格差を助長するシステムです。国境を超えて富を蓄える人々がいる一方で、貧困にあえぐ人達もいます。格差とそれを巡る争いは絶えることがありません。この不完全なシステムを正していく仕組みが必要です。日本ではそれが働いていないのです。


トランプ氏はかなり誤解されてきた人物です。彼の登場も上に述べたような文脈で捉えなければなりません。アメリカは世界最大の経済大国でありながら、グローバル化によって貧しい人々も大勢いる国です。彼らの希望の星となっているのがトランプなのです。


グレタ・トゥーンベリさんのような環境活動家や、ジェンダー平等を謳う人達、グローバリスト、軍産複合体の関係者がトランプ氏を忌み嫌うのは分かります。けれども、そうでは無い人があれこれ悪口を言っている状況には首をかしげざるを得ません。単に感情的な印象論を語っているきらいはないでしょうか。


確かにトランプ氏の考えは「アメリカさえ良ければいい」というものです。この点はぶれていません。同時に「グローバル世界」「環境」「持続可能な社会」はどうでも良いということでもあります。それよりも大統領となって「貧困や治安の悪さで苦しんでいるアメリカ国民を何とかしたい」というわけです。

 

諸外国にとっては迷惑な話です。アメリカが孤立主義をとれば、米国相手に貿易をしている企業は困ります。米国の威光にすがっている属国も不安になってしまいます。アメリカに続いて他の国々も孤立主義をとれば、世界経済は滞り、再び世界大戦が起こるかもしれません。


とはいえ、少なくとも貧しい庶民が安心できるような社会が実現することになるでしょう。独裁者となってしまうかもしれませんが、国民は彼にすがる他はありません。米国の株価も、トランプ氏が大統領に就任した直後は下がるかもしれませんが、その後は順調に上がっていくでしょう。

何よりも戦争に膨大なカネが流れる仕組みにストップがかかります。わざわざ世界の紛争地域をつついて回るような事もなくなります。大量虐殺に我慢がならない人々はトランプを支持すべきではないでしょうか。


彼が類稀な傑出した人物であるのは否定できないでしょう。人格に問題があり、差別主義者であるかもしれません。しかし重要な点では間違えていません。どれだけ悪しざまに言われようが傷つかないタフな心臓を持ち、何度破産しても蘇ります。収監や暗殺の危険性をも顧みません。行動力や交渉力は、ずば抜けています。

 

資本主義と格差拡大は切っても切れません。資本主義は搾取する側と搾取される側が存在しないと成立しないシステムだからです。不平等の存在が前提であり、それをさらに拡大させる仕組みだからです。敗者がいるからこそ、勝者が相対的な幸福を得られるシステムなのです。

それでも、もし民主主義の仕組みがうまく機能していれば、民の声を国政に反映させて不平等を正して行くことができるのです。腐敗政治家は追放され、税制が適切に改正され、富の再分配が行われます。

 

しかしそのような国とは異なり、民主主義が機能していない国があります。それどころか資本主義さえ上手くいっていません。悪夢としかいいようがありません。それが日本という国です。泥棒や殺人者が政治を執り行っていても、法の下で裁くどころか、辞めさせることさえできないのです。

 

トランプは完璧な指導者ではありません。また彼であってもやれる事は限られます。民主主義のシステムだって、そもそも不完全なものです。

それでも彼らが自分たちの指導者を自分たちで決められることに、羨ましさを感じてしまうのです。

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