kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

なぜ日本人の口は大便臭いのか

日本人に、男女を問わず口が臭い人が多いのは海外でも有名です。悪名高き日本人の口臭は、特にウンコ臭いのです。その理由をいくつか考えてみます。

(1)日本人は大便の量が多い

(2)それにもかかわらず日本人は大便をあまりしない/できない

(3)日本人はおならを我慢する

(4)大便臭を口から撒き散らしていても日本では大目にみられる

以下、詳細に見ていきます。

 

(1)日本人は比較的、大便の量が多く、太平洋戦争中のエピソードですが、アメリカ軍は日本軍が残していった大便の量から兵士の数を見積もったところ、欧米人と比べて糞の量が多かった為、人数を多く見積もりすぎてしまったという笑い話があります。

大便の量が多いのは、食物繊維が多い無駄な食事をしているからです。大便の量が多いのは健康的であると言う人もいますが、溜まった糞を綺麗に排出するのと、大便の絶対量が多いことをはき違えてはいけません。

便の量が多いのは消化できなかった食事の残りカスの他に、死んだ細菌や細胞が多いという事も忘れてはいけません。大便の絶対量は必要最小限であるほうが体に負担もかかっておらず健康的なのです。

 

(2)日本人は睡眠時間が短く、かつ朝に余裕が無い人が多いので、朝の排便(Morning Dump)量が十分でなかったり、あるいは、しないで便秘になったりする人が多いのです。便秘がちの人は口臭もウンチ臭くなります。

 

(3)日本人はおならを恥と考え、必死に我慢します。出なかったおならは、血液に取り込まれ、口から大便臭となって出ていきます。

 

(4)日本では性別や外見に関係なく臭い息をする人が多く、それがあまりにも当たり前なので、指摘をしたり、あからさまに嫌がったりしないようにお互いに気遣っているようにもみえます。

 

最後に、口だけでなく、体全体から大便臭を漂わせている人がいますが、クソの切れが悪く、排便後によく抜かないため、肛門周りにこびりついた汚れが体臭とあいまって悪臭を放っているのかもしれません。

とりあえず外人観光客誘致の前に、日本人はきちんと排便管理をした方が良さそうですね(笑)

人は自分の「いま」の行動を直接決定することは出来ない

人間というのは、実は、自分の「今」の行動を左右することはできません。生理学者、ベンジャミン・リベットの実験の知見がそれを示しています。人の行動は自身が意識する0.5秒前に無意識のうちに始まってしまっており、自己はそれを追認しているに過ぎないのです。

 

自分の思考も、己が意図して行っているように感じますが、多くは「自動思考」(Automatic Thinking)に過ぎません。会話する時を考えてみてください。スラスラ喋れるのは自分の意志が介入していないときです。いちいち意志が邪魔したら、それは吃音症という障害となり、上手く会話することができなくなります。行動と同じく、思考や感情も、自分の意志によって起動されているのではなく、我々は追認しているだけなのです。

 

追認とは言っても、自分の「いま」の行為(実は0.5秒前ですが)を常に注意深く観察している必要があります。集中はするが、余計なことはしないという意味です。「今」に集中するのは、自分の思考、感情、行動が好き勝手なことをしないための監視をするためであり、そのために、次に述べるような「是非」の判定を行います。

 

自己は、自分の「過去」の思考や行動、感情に対し、「是」とするか、「否」とするかによって、自分の「未来」の思考、行動、感情に影響を及ぼせます。直接それらを左右し決定することは出来ないのですが、自分の意図した方向への蓋然性を高めることができるのです。簡単に言えば、常日頃の自分の考えが、自分の「行動」を決めていくのです。自己は、自由意志のまったく無い、ただの観察者ではないのです。

 

「思考は現実になる」とか、言霊だとか、ポジティブシンキングとか、「事故を見ると自分も事故を起こしてしまう」とか、「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」という考えは、意志と、思考、感情、行動との間の上のような関係について、直観的に気づいた人々が述べてきたことです。

 

さて、洗脳というのは自己を麻痺させることを狙ったものです。多くの知覚刺激や情報を与えられることによって、人は他人によって作られた思考、感情に流され、自分の意志による判定を行うことも出来なくなっていきます。そうすると、自分の考えや感情の様に思っていても、実はそのほとんどは他人によって植え付けられたものとなり、さらに、それらが自分の行動を左右します。つまり、己自身に変わり、洗脳者があなたの行動を支配するようになるわけです。

「依存」する国民と「寄生」する政府

情緒不安定性人格障害者とサイコパスは、ある種の共生関係を結ぶことがあります。一方は誰かに依存したい、そして一方は誰かを支配し利用したい、その両者の望みが合致して、このような関係になります。

 

「依存」と「寄生」という関係は、精神病質者だけでなく、男と女の間でもよく見られます。さらには日本国民と、国との間も、依存と寄生の関係と言えるかもしれません。

 

精神的に未熟で独立していない日本人は、誰かに「依存」せずにはいられないのです。それが、グループ内での馴れ合い、逆にグループ間の対立や、個人への排斥となって表れます。一方、国は、企業や詐欺グループ、社会システムを通して、そういった人々を上手く利用し、骨の髄までしゃぶっていきます。

 

日本の愚民は、中国や韓国と比べて衰退していく自国、苦しくなる一方の生活を見て、中国や韓国を口汚くののしります。その一方で「世界に誇る日本の~」と言わなければ、彼らの不安定な情緒と不確かな自我が崩壊してしまうのです。幼稚なので、本当の敵は他にいるのに何もできず、周りに八つ当たりをして「俺たち、スゲー!」などと、言っているのです。

 

戦前、政府は日本を家族のようなものだと例えて、国民や植民地の人々をたぶらかし、国体を守ってきました。今でも多くの国民は、政府を母性的なものと捉えています。政府は、かよわい国民を庇護し、面倒を見てくれるものだという幻想に浸っているのです。だから「ミサイルくるくる!」と脅かされれば、言われた通りに頭を抱えて地面に這いつくばり、とっくに破綻して75歳になっても貰えないであろう年金をあてにして、大人しく年金保険を支払っています。

 

国がTV番組や御用学者を通して、「自然」災害や、戦争の予兆、老後の貧困と孤独、暗い未来などの、「恐怖」と「不安」を煽ることによって、人々は「強い日本」を具現化してくれそうな、独裁的で強い指導者を求めるようになります。自分達を利用し、食い尽くす存在だと、薄々わかっていても、彼らは求めざるを得ないのです。

残業規制のしわ寄せを受ける下請け企業

SNSで、現政権になってから労基の対策等により、大手の残業時間が減っているという書き込みを見たことがあります。

 

大企業における残業規制が厳しくなっているのは確かです。もともと日本での給料というのは、ボーナスや残業込みで、初めて人並みの暮らしができるようなものでした。大手の企業では、安価な社食や社宅、寮が完備されているうえに、基本給が高く、各種手当があり、さらにダラダラ残業することで給料を増やすことができました。問題になるほど過労状態にある社員、中間管理職は、虐められているか、便利な奴だからという理由で体よく使われている、賢いとは言えない人達です。

 

過重労働対策は何を目的としているかというと、会社側のコスト削減であるのは明らかです。ただし大手企業だと、仮に残業が廃止されても、給料増額があるから未だいいのです。また、長時間に渡って会社に縛られたくないという人には朗報でしょう。

 

大手企業としてはコストを抑えながらも生産性は大幅にアップしたい、そうして利益率を上げ、内部留保を増やしたいのです。しかし機械化やITに頼っても限界があります。どうするのか。言うまでもなく、そのしわ寄せは、下請け企業にいくのです。

 

下請け会社との契約は、働いた時間分、お金が貰える準委任契約ではなく、金額固定で、完成責任、瑕疵担保責任がある請負契約が増えています。しかもどんどん値切られています。要するに、下請けは安い金で雇われ、高いリスクを自ら背負い、仕事を完遂するまで働き続けないといけないのです。

 

大手の兄ちゃんやお姉さんが過労や過重労働で自殺すれば、それはニュースバリューがありますが、下請けのオッサンや、非正規雇用フリーランス、留学生や実習生などが、いくら死んだところで噂にもなりません。

 

「お国のために、死ぬまで働け」、これが下層民に向けられた指導者様からのお言葉なのです。

日本人は、その人の「行動」ではなく「属性」で判断する

当たり前ですが大成する人は、それなりの才能(gift)が備わっているものです。そもそも我々が産まれてから、その国の言葉を難なく喋れるようになるのも、頭の中にその原型がプリセットされているから可能なのです。

 

ところが多くの日本人は、自分の中にあるセンスや才能や良識を信じて頼ることができず、すべて他人から教わるものだと思っているのです。だから自分で新しいことを発見したり、独自のものを生み出すことが出来ずに、猿真似ばかりしています。

 

他人から学ぶものだと信じているから、ただの凡庸な人間を、「先生」や「師匠」と言ってあがめたりします。彼らの言うことを鵜呑みにして信じ込み、シゴキやイジメにも耐えているのです。メディアは、成功したアスリートなどに「努力をしたからここまで来れた」と言わせ、努力すれば夢は叶うものだという儚い幻想を庶民に与えています。

 

このような日本人は、才能ある人物を認めることができません。その代わりに、どこの学校を出たかとか、誰に師事したかということで評価するのです。

 

日本人は人を「行動」ではなく、その人の「属性」によって判断します。言い換えると、いま、その人が何の価値を生み出しているか、ではなく、どういう立場の存在であるかが重要だということです。価値を生み出している人間は、日本ではただの搾取される労働者であり、属性を備えた人間は偉そうな事を喋るだけで、あがめられる存在です。

 

日本で誰かを社会的に抹殺したいと思ったならば、問題となった「行動」を否定するだけでなく、メディアを使った徹底的な人格攻撃キャンペーンを繰り広げます。こうして、その人の「属性」を無価値にするのです。

 

こういった「属性」を身に着けそこなった人、失った人は、もはや日本では挽回のチャンスはなく、底辺を這い回る人生を送らないといけないのです。