kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

ロボットのような甲子園球児に見る、日本の教育の目的とその成果

甲子園の開会式で、プラカードを持った女性が熱中症で倒れたのですが、甲子園球児たちは、少しも騒がず無表情のまま突っ立っているという事がありました。普通の感情と良識を備えた人間なら、すぐに駆け寄って助けるとか、少なくとも心配そうな顔をして気にしたりするものですが、この連中はまるでロボットのようです。

 

似たようなことは、甲子園球児のみならず、学校で校長の話を聞く小学生や中学生でも見られるものです。そしてここに、日本の教育の真の狙いを垣間見ることができます。子供たちは、人間としての豊かな情を持ち、正しい良識を持つ大人になることを期待されているのではなく、ただ指示通りに動く兵隊や、ロボットのようになることを目指して教育されているのです。自分で考えるのではなく、ただ指導者に言われるがままに自動的に思考し、手足を動かし、ついには期待された通りに笑ったり、悲しんだりするわけです。

 

甲子園球児の画一性は、実に気味の悪いものです。監督や審判の言う事は、どんな理不尽なイジメのような指示であっても守らなければならない。プレーする以上は意味の無いスライディングひとつとっても常に全力。ピッチャーも出来るだけ、全力で全イニング投げきる。カットでファウルを続けたり、スローカーブを投げたり、女性の歓声を受けて喜んだりしたら、高校生らしくないふざけた連中だとして国民やメディアに非難されてしまいます。校歌は直立不動で最大の敬意をもって歌わなければならないし、負けたら大いに泣き叫び、甲子園の土を持って帰る。彼ら自身も、中身は空っぽでも、無垢で一生懸命な日本が理想とする高校生を、精一杯演じているのです。

 

何が正しくて、何が悪いかを考える人間は、日本には不要です。正義を守るのではなく、社会の秩序を守る人間のみが、日本では価値を持つのです。

 

日本は官僚独裁による全体主義国家であり、国民は国家の利益の為に、最大限の労働力供与を常に期待されています。さらに日本は外国からの脅威に常にさらされていると国民に教え、誇大妄想的な軍事的、経済的膨張を今に至るまで国家の最大の目標としているのです。

為政者はなぜ悪魔崇拝者となるのか

以下はフィクションです。

ほとんどの庶民が無神論者や唯物論者である一方で、皮肉なことに、為政者達は目に見えない存在を信じています。というのも、彼らはそういった存在と実際にコミュニケーションをとり、未来を教えてもらい、時に願い事を叶えてもらったりしているからです。

 

悪魔とはいっても、その実態は「この世の神」、ルシファーです。敬虔なクリスチャンも含めて、なぜ多くの為政者は悪魔崇拝者となってしまうのでしょうか。世界的な為政者のグループに入ると、特別な存在を教えてもらえます。そしてこの物理世界のそもそもの成り立ちを含めた驚愕の物語を知るのです。

 

クリスチャンにとっては「この世の神」から示される次の事柄が大きな意味を持つでしょう。

(1)この物理世界はルシファーが作ったものだった

(2)旧約聖書に書かれているほとんどの「神」の正体はルシファーだった

(3)イエスは処刑された後、地上に復活していない

(4)これからもこの世界でのイエスの復活や再臨はない

 

これを示されたクリスチャンは驚き、イエス・キリストに応えてもらえるように祈りますが、何も示されません。その一方でルシファーとはコミュニケーションをとることが可能であり、その存在の証拠も提示されます。その結果、高位のクリスチャンであっても絶望し、悪魔崇拝者となってしまうのです。

 

このような試みに遭わない、こころの貧しい(poor in sprit)人たち、悲しんでいる人たちは、確かに幸いかもしれません。

理性的存在である人間にとって不可欠な長期記憶はどこに存在するか

人間が理性的存在であるためには、長期記憶の存在が必要不可欠です。記憶があるから自分が何者であるかが自覚でき、客観的に自省し、未来の計画を立てて実行に移すことができるのです。

 

この長期記憶が何処に保存されているのかは、はっきりと分かっていません。海馬を損傷すると新たな長期記憶が不可能になることは知られていますが、脳の他の部分を切除したら、長期記憶の一部分がごっそり消えたり、曖昧になるという訳ではないのです。

 

さて魂が不滅だという前提で、長期記憶もまた不滅であるかどうかによって、肉体が再生した場合の我々の状態はまったく異なってきます。

 

(1)長期記憶が肉体と一緒に滅んでしまうものならば、魂は継続しても自分のアイデンティティを失ってしまいます。その場合、もし次の肉体を与えられても、前世の記憶を持たない輪廻転生ということになります。

 

(2)長期記憶が魂と同じように肉体とは別の世界に存在するならば、次の肉体を与えられた場合、自身の継続性についての認識があり、それは復活ということになります。

 

もし(1)が正しいとすると、我々は死ぬたびに、前世の記憶が無いだけで、別の生命に生まれ変わるという事を繰り返しているのかもしれません。次は人間とは限らず、来世はミミズやムシケラかもしれません(笑) この場合、物理世界をつかさどる上位の生命体によって、言わば、魂が都合よく使い回されているという事になります。下位の生命体の方が圧倒的に数が多いので、今この時点、我々が人間として生まれたことは非常に幸運なことと言えるでしょう。自暴自棄に生きたり、自殺してしまうのはもったいないことです。

 

もし(2)が正しいのであれば、復活というのがいずれありそうですが、そもそも物理世界が構築されて、今に至るまで大量の魂が無駄に払いだされているのは何故か、いつまで経っても復活の見込みが無いのは何故か、という疑問が湧いてきます。

 

上位の生命体の性質が「善」であるならば、救いの希望がある(2)が、正しいと言えそうです。そして長期記憶は物理的な脳に存在するのではなく、まったく別の世界にあるということになります。

物理世界における時間と、精神世界における時間

物理世界における時間と、精神世界における時間は、まったく別のものです。時間が止まった物理的な空間をイメージする事はできます。しかし時間の止まった自己というのは想像できません。このように、自己の本質は時間と不可分だと分かります。

 

さらに時間の方向について考えてみます。物理的な空間を考える場合、過去や未来の空間への移動というのは想像できなくもありません。しかし自己における時間を考えると、過去の自己、未来の自己への移動は何の益もないように思われるのです。

 

例えば、過去の自己へ戻るというのはどういうことでしょう。未熟な過去の自己に戻る事は退歩であり、何の意味もありません。また未来の自己へ瞬時に変化するというのは、すなわち、現在からその時点までの経験を経た自己になるという事であり、結果的に、いま現在から、そのまま、その時点まで時間をかけて経験を得るのと何の違いもありません。このように、自己とは時間軸にともなって常に変化していくものであり、またその時間は過去から未来へと一方向にだけ流れているのです。

 

この世界を構築した存在からすれば、空間が時間に伴い変化していく物理世界は、言わば精神世界をシミュレートしたものと言えるかもしれません。そして自己、すなわち魂は、この物理世界には存在していないのです。しかし多くの人はこれらを混同しているように思えます。

誤った巨大プロジェクトを止めることができない日本

以前も書きましたが、日本人は、最終兵器や巨大プロジェクトが大好きです。戦艦大和だとか、宇宙戦艦だとか、ガンダムだとか、最新鋭戦闘機だとか、何か最新テクノロジーを使った兵器がそのうち現われて、日本人を救ってくれると思っているのです。

 

先の大戦での真珠湾攻撃も結果的には成功しましたが、ギャンブルでした。緻密な計画ですが、硬直的で、何処かひとつの要素が破綻すれば、全てが無に帰すようなプロジェクトだったのです。

 

現代の日本も、無謀な大プロジェクトにとりつかれています。原発高速増殖炉を使ってプルトニウムを増産し、核兵器大国になるという野望。日本以外ではどこも取り組んでいない、「日本が世界に誇る(笑)」超伝導を利用したリニアモーターカー。日本だけが執着している燃料電池車を中心とする水素社会。莫大な予算をつぎ込み、高コストのロケットや軍艦、戦車、戦闘機などを民間企業に作らせて、軍需産業大国になろうとする目論見などなど…。

 

大局を見る頭が無いうえに、誰も責任をとる覚悟がない為、時代遅れになったり、見込みのないプロジェクトであると分かっても、国の行く末を左右するような戦略を変更することができないのです。大勢の利害関係者が絡んでいるから、今更止められないというのもあります。こんな日本に未来はあるのでしょうか。いや、このままでは無いでしょう。