kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

新しい天と地の変わり様に戸惑う人々

イエスが言う「この世の終わり」において、この物理世界は一瞬で新しくされます。しかしクリスチャンでさえも、その新しい天と地(Sky and Earth)の変わり様に驚く人々がいるかもしれません。いくつか思いつくものを挙げてみます。

(1)男女の性別はなくなる。当然、性行為というものはない。家族や、子供、親といった区別も存在しなくなる

(2)人種の差はなくなり、人間はそのあるべき形に戻る。それは今とは相当違ったものと思われる(例えば宇宙人グレイのような姿)

(3)山や広大な海は無くなり平坦な土地が続く。四季の変化もなくなる。太陽が直接照りつけることはなく、青い空や雲はなくなり、雨が降ることもない

(4)広大な宇宙や星々は消え去る。地球こそが人間が住むべき唯一の場所である

(5)おそらく地球の外側ではなく、地球内部の空洞に住むことになる。地球内部に光体が存在し、それが太陽の代わりとなる

(6)エントロピー増大の法則はなくなる。物質の自然崩壊や老化は無くなる。暖かいものは暖かいまま、冷たいものは冷たいままである

(7)電気や火を用いることはなくなる。肉を食べることはもはやない。火を使った料理を作ることもない

(8)学問における真理の追及や、大事業など、人が過度の問題解決や仕事に追われることは、もはやない

(9)人間が自分の無意識や欲望の矛盾に振り回されたり、悩まされることはもはやない。ハトのように単純で純真になり、悪を思いつくこともできなくなる

(10)人間が科学技術や真理を追求したり、それを利用したりすることはない。そのような欲求も能力もなくなる。

(11)温暖な気候が永遠に続き、人は裸で、好きな時に木の実を食べ、好きなことをする。ハトのように気ままな生活をおくることになる。

(12)人間や他の生命体の内部構造はずっと単純でシンプルなものになる。人間は棍棒一本で簡単に破壊されるような存在ではなくなる

(13)遺伝子レベルでの人々の個性はなくなり、人々は基本的に同じ顔、同じ姿になる。人間同士の差別や誤解はなくなる

(14)動植物を含めて死はなくなる。排泄もなくなる。汚らしい腐敗もない。昆虫やバクテリアも存在しなくなる

(15)多すぎる動植物は大幅にその種類を制限される。生殖や成長もないので、もはや新しい形態の動植物が生まれることもない

(16)気候や自然がその姿をかってに変えていく事はない。永遠に安定して変わらない世界が続いていく

(17)進歩や向上、努力や成長、「カイゼン」といった、永遠に人に負担を強いる考えは打ち捨てられる

現在の物理世界のありように満足している人々は、不満を感じる内容かもしれません。退屈な世界だと思う人もいるかもしれません。しかしこの世にうんざりしている人は、新しい天と地を喜んで迎え入れるでしょう。

この世は真剣に生きるに値しない

カイジ」という漫画に、「この世を空想か何かのように考えて、真剣に生きようとしない人間が多い」と登場人物が語るシーンがあります。しかし真実は逆です。この世は天界(異次元)の住人から見れば、仮想世界そのものです。

なぜ行き当たりばったりで出会った男女の性行為で、簡単に一つの生命が生まれてしまうのか。なぜこう脆くも人は死んでしまうのか。もしこの世界以外に天界の住人が居るのなら、何故このようなことが許されているのか不思議です。その理由のひとつは、この世における生命が仮初めに過ぎないからです。

まるで一生懸命に生きるのが良いことであるかのような風潮がありますが、自分のレベルに応じて適当に生きるのが楽で良いのです。でないとカネや名誉、業績や、多くの友人といったポイント集めに、いつのまにか夢中になってしまいます。あるいは、良いことを沢山すれば救われるのでしょうか。しかし良いことを沢山するのにはカネが要ります。結局同じことです。

先ほどの漫画「カイジ」で、「人は死ぬ時に、この世が空想などではなく真実であることを悟って後悔する」とありますが、これまた逆です。人は死ぬ時に、この世が夢幻のようなものであったことを悟るのです。豊臣秀吉が「つゆとおち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」とまさに述べたようにです。

日本人は考える事が出来ないから心を病んだり自殺したりする

人間は身の回りで起こる出来事の矛盾や、無意識から来る葛藤を解決しながら生きていかなければなりません。これらを適切に解決しないで無意識へと抑圧したりすると、異常行動や身体症状となって表面に現れるのです。

日本人はこの正常な「解決」手段が苦手な人々です。上の人の言う通りに動く事はできますが、自分で考えて解決する事が苦手な人達です。その代りに例えば、無かったことにしようという「原始的否認」や、考えないで無意識に押し込む「抑圧」がよく使われます。その結果心に異常を感じても、外に発散する勇気はないので、最後には自殺しかないのです。

日本の年間自殺者数が3万人というのは大きい数字です。年間生まれてくる世代は100万くらいですから、3%以上です。有意です(笑) しかもこれは警察が自殺と認定した数なので、事故死や行方不明に分類されている人々を加えると10万人という話もあながち嘘ではないかもしれません。

戦場での軍人の死亡率は普通、3%もありません。湾岸戦争での米軍の死亡率は0.1%を切っています。日本がどれほど異常な国かわかるでしょうか。ただし命を粗末にする日本軍だけは別で30%くらいが日露戦争でも太平洋戦争でも死んでいます(笑)

日本人は長い歴史の中で命を粗末に扱われ淘汰されていった結果、不安遺伝子と呼ばれるSSタイプを持つ人間が多く生き残ってきた国です。特にバイタリティーに溢れた戦国時代を経た後の徳川260年の平和統治(笑)によって、大胆な考えをする人間達が子孫を残せなかったのは想像に難くありません。

こうしてみると、若者にとっては日本の社会にいて自殺してしまうよりも、外国の戦場に駆けつける方が、健康的で死ぬ確率も少ないのかもしれません(笑)

未熟な日本人は洗脳されやすく、簡単に思考停止する

マッカーサーが称したように、日本人は未熟な子供のような精神状態を持った人間です。人の話をよく聞き、静かであまり喋らないので、大人びて賢いのかと思いきや、実はただの馬鹿なのです。

以前にも述べたように、日本人は都合の悪いことが起こった時に原始的な防衛機制をよく使います。

福岡で道路が広範囲に陥没するという、後進国並みの情けないインフラ事故が起こっても、すぐに「死人が出なかったのは素晴らしい、さすが日本だ」だとか、「復旧の速さに世界が驚いている」、「復旧後の強度は30倍だ」とかいう、おかしなツイートでネットが溢れかえりました。

東北で地震が起きて、震度5程度で簡単に原発故障が起きても、すぐに「このくらいの電源喪失は問題ない。こんな事でデマを煽っている奴がいる!」というようなツイートが、またまたネットを席巻しました。

仕掛け人のみならず、拡散している日本人どもが本当にそう信じているのだから救いようがありません。自分にとって不都合な客観的事実を何としても無視するのは、「原始的否認」という行為です。否定するだけでなく、それを言った人間を過度に攻撃するのは「原始的投影」という幼稚な行為です。何か起こった時に何も自分で考えられずに、上が言う事を鵜呑みにしてしまうのは「退行」という現象です。

もっともこういう頭の悪い幼稚な人間が日本には多いから、商売で儲けられる訳で、そういった意味では悪くはないのです。連中はケツの毛までむしられても、何をされているか最後まで気が付かないでしょう。

クルマを運転する事は高コストでハイリスクな行為となる

クルマを運転するというのは当たり前ですが、今でもかなりの危険を伴う行為です。しかしこれから状況はさらに悪くなっていきます。理由を挙げてみます。

(1)クルマが非常に複雑なシステムと化しており、長く乗れるものでは無くなっている。中古で乗るというのはかなり危険であると同時に維持費がかさむものとなる。クルマは新車で買って数年で手放すものである。

(2)一部の保険会社を除いて、あれこれ理由をつけて保険金の支払いを渋るケースが多くなっている。

(3)さまざまなハイテク事故防止システムがオプションで搭載されるようになる。これが無い場合、保険でペナルティを課せられる場合がある。

(4)自動運転技術が普及する。手動で運転して事故を起こした場合、保険によって厳しいペナルティが課せられる。

(5)貧乏人が増え、無保険で乗っている人間が増えている。

(6)日本人の品性が下がり、事故当事者がごねて交渉が長引くようになった。

(7)警察がハイテクを駆使し、現場に厳しいノルマを課して、違反者検挙に血眼になっている。

(8)過失運転でも大きく報道され、厳しく罰せられるようになった(クルマというのは必要悪という認識であり、過失致死であれば罰金で済んだり、重過失や累犯であっても数年で出てくるものだった。ただし民事は別)

慎重な人間は自分では運転せず、他人に運転させるものです。それでも自分で運転しようとするのは、これからは趣味の世界であり、それなりの覚悟とカネのある人がやる行為となっていきます。生活の為にやむなくクルマを運転しなければならないというのは、ハイリスクでコストがかかる行為です。ですから、これからは地方や郊外ではなく公共機関やインフラが発達している都会で生活するというのは、その意味でも賢明な事なのです。