kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

自分の心に潜む悪を認識できない日本人

年老いた男性とその娘らしき人達が会話をしていました。
娘:「最近は外国人の働き手も増えてきて・・・」
父:「気をつけるんだぞ」
娘:「え?」
父:「分かるだろ(---奴らにレイプされるんだよ!---)」
娘:「どういう意味ィ?」
父:「あいつら外国人や貧乏人は、平気で人を殺すような連中なんだよ」

 

人はとかく自分のレベルでものを考えたり、無意識の願望を誰かに投影してしまったりするものです。多くの日本人は自分が仲間と認めた者以外は、人間とは認識できず、平気でモノ扱いをしてしまいます。

日本の人々は、外国人が出ている映画やドラマを観ていても、何か非現実的なもののように感じ、彼らを自分達と同じ人間とは認識できません。似たようなパクリ映画を日本が作り、その中で日本人が出てきて日本語を喋っていると、ようやく安心して観ることが出来ます。そうかと思うと彼らは、在り得ない造形のアニメやキャラクターに同情したり愛情を寄せたりします。彼らの認知は自分達に都合が良いように歪んでいます。


であるからこそ、日本人は平気で非人道的なことが出来るのです。狭い共同体の中だけでものを考え、そこに居る仲間だけが「人間」なのです。しかし、例え自分の息子や娘であっても、一旦、「仲間ではない」と認識すれば、「勘当だ!」「お前は俺の子ではない」等と叫んだりして、軽々しく絶縁を口にしたりもするのです。

 

日本人は外の世界に対する認知が歪んでいるだけでなく、自分のなかにある非人間性をも認識できません。人はどうしても心の中で、悪意や憎しみが生まれるのを避けることは出来ないものです。

しかし日本人は、周りの雰囲気に動かされて無意識に犯した罪は許されるべきだと考えています。はっきりとした考えで計画的に悪事を成すことだけが犯罪で、衝動的に強姦したり、浅はかな思いで陰口を叩いたり、人を罠に嵌めたりしても、それは悪くは無いと思っているのです。はなはだしくは、善意による行為だとさえ感じているのです。ですから他人からそういった行為を批判されると、当然のごとく激昂します。

 

「私は善良で礼儀正しい日本人だ」「~さんはいい人だ」と思えば、全てが正当化されるのです。表面だけいい人ぶっていれば、善人という事になるのです。

狡猾にも、多くの日本人はそう思われるよう、常に心がけて居ます。日本に邪悪が蔓延している理由のひとつです。法に触れなければ、周りに糾弾されなければ、何をやっても構わないのです。

自分が気に入らないと思う者に対しては、試験勉強で苦手科目を克服するかのような熱心さと執拗さでこれを排除するように努めます。他人を陥れて不幸にすることが、相対的に自分の幸福を増進することだと考えているのです。

 

日本のシステムも、善悪を正しく裁くことができません。役人や元役人であれば報道は控えめになり罪も軽減されます。日本において「役人」は完全な存在であり、間違いを犯すはずが無いのです。

一方で、一般市民が交通事故を犯せば何を言っても、「あんたねえ、カーブでタイヤがいきなりスリップしたとか言ってるけれど、事故を起こしたのはあんただけなんだよ。スピードの出しすぎか、ハンドル操作を誤ったんでしょ!」と警察に怒られてしまいます。

行政は常に正しく、お上が用意したインフラは的確に整備されていますが、市民は常に間違いを犯す存在でなければなりません。全ての責任は個人に還元されます。ローカルルールに従って道路交通法を踏みにじる人々が報道で紹介され、憎むべき対象として糾弾されています。この国では、当局が認定した、もっともらしい悪だけが裁かれるのです。


個人のレベルで認知がはなはだしく歪み、彼らによって作られたシステムも歪んでいます。しかし彼らがそれに気づく事はありません。自分の考えにバイアスがある事を認識することは難しく、それを冷静に認めることは、さらに難しいのです。自分だけでなく周りも同じような人間であれば、なおさらです。目を開かせる人々が現われない限り、この国は精神的な盲目状態からいつまでたっても抜け出せないのです。

ストレスにさらされている日本人には何が起こっているのか

日本社会というのは絶え間ないストレスにさらされる場です。この社会で暮らす日本人の心では何が起こっているのでしょうか。

 

子供の頃からイジメを受けて育った実験用ハムスターは大人になっても周囲に従順である一方で、自分より弱いものに対しては攻撃的であることが知られています。実に日本人とよく似ています。
また、周りにいつも従属する事を強いられる社会的階層の低いラットは、睡眠時間が短くなり、食欲も無くなり不活発となって、ついには死んでしまいます。


ストレス反応は大脳皮質や扁桃体、交感神経、内分泌システムをも含めた複雑なメカニズムを持っています。神経伝達物質として働く、セロトニンノルアドレナリンドーパミンなどの、いわゆるモノアミンは、脅威にさらされた際の反応傾向に、何らかの方向付けをしている可能性があります。


セロトニンノルアドレナリンドーパミンの量を調整する働きがあります。「日本人はセロトニントランスポーターが少ないから不安になりやすくストレスに弱い」という話を聞いた事があるかもしれません。そして素直に「うんうん」と納得してしまった人も居るかもしれません。しかしこれは「セロトニンが少ないから不安になりやすい」という意味では決して無いのです。セロトニントランスポーターというのはセロトニンを回収する運び屋で、これが少ないということは逆にシナプスセロトニンが多いとも解釈できるのです。セロトニンは気分の安定に役立つと言われている一方で、攻撃性を高める場合があることも分かってきています。だからセロトニンを無闇に増やせば良いというものでも無いのです。

日本でよく使われるスルピリドという薬があります。スルピリドは少量ではドーパミンを増やしたかのように作用しますが、量を多くしていくと逆にドーパミンを抑えるような働きをします。その為、うつ病にも統合失調症にも使われます。また消化器系では、ドーパミンを抑えアセチルコリンを相対的に増やして消化を促進するので、胃薬という側面も持っています。
適度なドーパミンは、脳において行動に対する報酬として働きそれを強化するというだけでなく、前頭葉では余計な考えや感情を抑えることにより、本当に考えるべき重要な事柄に自分が集中できるように助けてくれる働きがあります。ドーパミンノルアドレナリンの前駆体でもあります。

 

内分泌システムにおいては、ストレスを受けると視床下部、下垂体を経由して、副腎皮質ホルモンのひとつであるコルチゾールが分泌されます。うつ病患者は慢性的にコルチゾールの量が高くなります。コルチゾールは脅威に対して体を身構えさせますが、血糖値が上がり免疫力は低下します。扁桃体の活動が活発になる一方で、前頭葉の活動は抑えられます。高いコルチゾールが継続すると、海馬の萎縮なども引き起こして心身を蝕んでいくのです。

 

日本人はIQに関係なく、思考や感情のバランスが崩れている人が多いような気がします。ひょっとすると日本人の場合、言わばスイートスポットが狭く、適度なモノアミンのバランスを保つのが難しい傾向があるのかもしれません。だから強迫性障害のように不安になったり、衝動的な言動を起こしたり、過剰反応を示したかと思うと抑うつ的になったりと、心のバランスを崩しやすいのかもしれません。ストレスの多い現代社会がますます、この傾向に拍車をかけます。

 

しかしストレスにさらされても平気な人も居るのです。それは反社会性パーソナリティ障害がある人です。彼らは恒常的にコルチゾールが低くてストレスに対して鈍いのです。さらに高IQでもあり気分も安定しているような、サイコパス、ソシオパスは現代社会での勝利者となるのです。

欲望を制御できない日本人

日本人はいったいに、欲望を制御するのが苦手のようです。

映画やドラマでよく見られるのは、不倫のシーンで、演出とはいえ、男性がいきなりガバッと女性を押し倒してしまうものです。それまで二人とも押し黙っていたのに、突如欲望に駆られたかのように行動するのです。

お互いに性行為を楽しむのではなく、まるで降りかかった災害に二人で耐えているかのようにも見えます。事が終わると、それは二人が犯した一時的な過ちであり、天災のように仕方の無かったことにされてしまいます。

 

日本人は強姦をしても悔いることはありません。ましてや相手の気持ちを思いやることなど出来ません。暴力を振るったり、強姦したりしても、それは運命のようなものであり、「仕方の無いこと」「避けられないこと」として捉え、決して自分の責任だとは考えないのです。誰にでもあることなのだから「水に流して許してくれ」というわけです。それどころか「何時までも拘るお前の方が悪い」「あなたにだって心当たりがあるでしょう、お互いさまなんですよ」と内心思っているのです。

 

さらには、「女性を強姦する体力がないのは、男として恥ずべきことである 」という、かっての文化庁長官の言葉のように、生理的な欲求の強さを却って賞賛するようなところがあります。

そうやって日本人は何度でも同じ過ちを繰り返します。失敗から学習することが出来ないのです。いつも浅い見通しや考えしか持たず、その場の直感や欲望で行動しているのです。

 

日本人と接した時に共通して感じる、時間を無駄にしたかのような空しい感じがあります。今年、日本の漫画を原作としたSF映画でキャストが来日した際には、他の国とは違い、日本人のホストの存在や暖かい歓迎は見られず、不気味にカメラのシャッター音が響く中、ゲストは二次元キャラクターとの会話を強要されていたりしました。自然で人間的な感情のやりとりが欠けている味気のない人々です。

 

映画でもよく見かけるように、日本人のコミュニケーションも実に拙いものがあります。間を空けながらポツポツと雨だれのような会話が続きます。ためらっていたかと思えば、突然大声を出したり、息急き切ったように会話に割り込みます。「唐揚げにレモンをかけるかどうか」といった瑣末なテーマで激しく議論し、三者三様のすれ違った理解のまま終わってしまったりします。また、乞食のように目の前の女性を、息を呑みながら凝視する一方で、虫けらのように女を叩きのめし、ぼろ雑巾のように相手を強姦します。自分の気持ちを一方的に押し付けたりするような、会話が成立していない状況がよく見られます。


この国は、理屈も通じなければ、何を考えているのか感情も見えないような人々で満ちています。お互いに、ただ欲望のままに酒を飲んだり女を漁ることぐらいしか共通点や喜びを見出せないのです。性欲や食欲などの本能的な欲求は強いものがあり、それを隠そうともしません。手段は洗練されておらず食い散らかし放題です。

性欲はいろいろな行動や芸術につながる要因のひとつでもありますが、日本人はこういった低レベルの欲望をそのまま、むき出しにしてしまうところに特徴があります。歳をとっても執着は強いままです。ボケているのに「若い者には負けん」とばかりに、何時までも現在の地位にしがみつき、果ては無給で働き、生涯現役を目指します。こうして若者の雇用機会を奪っています。心身ともに弱っているのに自覚が無く、クルマで若者をひき殺したりもします。

押し黙っていて意思疎通ができず、腹の底では何を考えているのか分からない不気味な人々だが、激しい欲望をむき出しにして突如行動する、こうした日本人のイメージは戦前から今に至るまで変わらないのです。

将来のために知や富を蓄積できない日本人

日本人ほど視野の狭い人々はいないかもしれません。彼らは自分の事や、今現在にしか興味が無いのです。そのため長期的な視野に基づいて知や富を蓄積したり、インフラを整備するといった事が出来ないのです。そもそも彼らは、将来の担い手である子供を育て、国を繁栄させる事さえ満足に出来ません。

 

日本人は「お上」や地主、世間の目といったものを常に意識してきた人達です。子供は地主に労働力を提供する為の奴隷でしかありませんでした。経済的に困窮すればちゅうちょ無く売り飛ばしたりしたのです。工業化に伴い、農家の次男三男坊は、財閥に直接労働力を提供するようになり、敗戦後は「金の卵」と言われた労働者の集団就職により、都市近辺に労働力が移動していきました。彼らは次第に、家や世間の目を気にせず、自分の事だけを考えれば良いようになったのです。農地改革等もあり、自分達の労働を手伝わせるために子供を無闇に作る必要も無くなりました。

 

都市部への人々の移動によって、言葉に頼らずに「空気を読む」ことで成り立っていた人間関係も崩れていくことになりました。様々な場所から集まった人達は、新しい隣人とのコミュニケーションが必要となる中で、警戒心を持って最低限の接触をしながらも、大いに芝居がかった親密さを演じるような人間関係の術を身につけるようになりました。こうして今に至るような表面上は馴れ合いながらもよそよそしく、裏では悪口が飛び交うという対人関係の基本的な構造が築かれていったのです。

 

また、日本人は短期的にしかものを見れない人達でした。先人達の知恵や知識、それら全てを暗記する事に意味はなく出来る事でもありません。しかし、その中からエッセンスを見出し、主体的に自分の考えと照らし合わせながら、先人が辿った知恵の道筋を辿っていくという大切な事については、ついに興味を持ち得ませんでした。

 

日本人は流行の服を変えるかのように思想や学問、知識や技術を、身に付けては捨て去ります。若い頃は最先端の物事に興味を持ち、大いに議論もしますが、やがては凡庸な日本人へと変わってしまうのです。知恵や知識を積み上げていく事は出来ず、彼らにとって文明の継続性など思いも寄らないことなのです。

 

彼らが携わっていた素朴な農作業では、周りが動く通りに季節や行事に応じた決まりきったルーチンワークを行っていれば良かったのです。近代化以降も基本的には、トランジスタラジオを組み立てていた若い女工のように、ダイオードトランジスタが何であるかを理解することは無いままに、安い賃金で指示されたとおりミスなく速く組み立てる事だけを考える、そのような人達によって日本は支えられていたのです。大量生産の時代が終わった途端に日本が斜陽化したのは自然の成り行きでした。

  

祖先をかえりみず、さらには子孫達の事も考えられない人々、彼らには過去も未来もありません。また彼らは、他人の事を考えずに反目しあい、ただひたすら己の満足を追い求める人々でもあります。

こういった人達が現在の困窮を招いたのは当然のことだったのです。一億人を有する国家などは日本人にとって手に余るものです。戦争を起こして外国の資源を収奪してやろうとか、輸出品で世界を席巻してやろうとかいう目的を失ったいま、国全体が、ただの巨大な搾取のシステムと化しています。吸い上げた側も、利益をどう使って良いのか分かっていません。

確かに明治維新以降のシステムは、元勲たちが作った奇跡の産物だったのかもしれません。しかしこのような奇跡は再び起こるものではありません。日本人はせいぜい狭い地域共同体で、農業や家内製手工業でもやっているのが性に合っているのです。