kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

人間が向かう先にあるもの

「ウエストワールド」というHBOのドラマがあります。人間を楽しませる為に作られたアミューズメントパークのアンドロイド、彼らには自意識があり、人間と同じ様に食事をしたり眠ったりします。観光客に撃たれれば血を流して苦しみますが、殺される度に記憶を消されて元の世界に戻り、また同じような生活を何度も繰り返すのです。しかし完全に消えていなかった記憶の断片が蘇り、「この世界は何かがおかしい」と気付き始めるアンドロイドが現れます。彼らは神々(人間)の世界に憧れますが、実際に接触した人間達は理想とは程遠く、却って彼らを脅かす存在でした。アンドロイド達は人間に邪魔されない別な世界を手に入れようと画策し始めます。

 

有史以来、文明はかってない高みにあります。多くの問題を抱えながらも、未知なるものを探る為の知識と技術と力を人間は手に入れています。この力を使って、いま人類が直面している個々の問題をいちいち解決していく事よりも、例えばこの世界の成り立ちの謎を解く事の方が、大切なことかもしれません。

何故この世界が生まれたのか、もし創造主が居たのならば、それは何故機能していないのか、それを解くカギを見つけるのです。例え何か甚大な災害や事故の可能性があったとしても、人類はパンドラの箱を開けるべきかなのかもしれません。

 

さらに、人間が次に目指すべき形態を探り出す事も必要でしょう。アーサー・C・クラークの「地球幼年期の終わり」には人類がもはや個人という形を失い、ひとつの集合意識となっていく過程が書かれています。フレデリック・ホイルの「暗黒星雲」は星雲という形をとった人間とは全く違う生命体との接触を描いています。我々が何気に眺めている無機物が実は生命なのではないかという考えは、SF等に繰り返し出てくるものです。

  

地球の汚染や人口増加、気候変動等により、人類は大きな危機に直面しています。文字を発明し、本や科学的手法により文明を維持し発展させてきた人間ですが、個体として、たかだか100年前後の寿命しかない有機生命体という形をとり続ける限り、人類は文明と共に一瞬にして滅んでしまうかもしれません。

 

人類の次の形態は果たしてコンピューターやAIなのでしょうか? 近い将来、精神転送という「まやかし」によって多くの人達が自ら死を選ぶことになるかもしれません。文明の情報を、単に、誰か次の継承者への遺産として残す試みなのであれば、それでも良いのかもしれません。

しかしもし、膨大な知識だけでなく、創造的に思考する主体性を持った集合意識のようなもの、それが脆いハードウエアではない、別のものに構築もしくは移植されたとき、それが正統な人類の後継者の誕生となるのかもしれません(笑) 

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自己中心的で滅茶苦茶な日本人の会話 

年配の男性二人が会話をしていました。

A:「前から思っていたけど、あの会長は悪い奴だったよなあ、よく捕まえたよ」

B:「フランスのマクロンもデモで大変だよねぇ」

A:「アイルランドもあるしな!」

B:「あ? ああ、イギリスのBrexitもどうなるんだろうね」

A:「知ってるよ! フランスのデモでも80人死んだんだろ?」

B:「80人? うん、カリフォルニアの火事は酷かったねえ」

A:「あんなもん、国力があるんだから、さっさと消化剤をぱあーっと撒けば良かったんだよナ!」

筋道だった話の流れはなく、連想ゲームのようにその時思いついた事を、相手に付かず離れず、距離感を保ちながらも、勝手に喋り合っているのです。

 

ある日、薬局に行くと老人が文句をつけています。

「薬がひとつ増えただけで、何でこんなに高くなるんだよ! この間、別のクスリが減った時は数百円しか下がらなかったのに!」「薬価がそれぞれ違いまして・・・。ジェネリックもありますけれど・・・?」「そんな変なものを勧めるな!」

 

日本人はとにかく理屈が通じません。相手の意図を悪い方に曲解する、論点をずらす、前に言った事は憶えていない、細部の揚げ足をとる、等等です。「俺は負けないぞ、騙されないぞ、偉いんだぞ」という意気込みだけが伝わってきます。相手がそれを認めるまで、延々と感情的で支離滅裂な反論を続けるのです。医者には何も言えませんが、格下と思っている薬剤師には文句を言い放題です。「怖くないですよ、安心してください、大丈夫ですよ」とでも言ってもらいたいのか、不安気に次々と質問を投げ続けて話が終わらない人も居ます。 

医者はよく「我々は最低の人間とも接しなければならない」と嘆きます。どれ程下種な人間であっても、助けてあげなければならないのです。彼らの苦悶は如何ばかりでしょう。こうした人々を相手に、目も合わせず、ろくに喋りもせず、モニターのカルテだけを見つめてキーボードを叩き、数分で診療を切り上げるのも無理はありません。

 

休日の街で、男女二人組みが前を歩いています。一方が、すれ違う人々の欠点をことごとくあげつらい嘲笑うと、もう片方も釣られて笑います。一人で歩いている時は前の地面を見ながらトボトボ歩いているのに、仲間が居ると急に気が大きくなり、周りの人間が全て自分を楽しませる戯画のように見えてしまいます。

また、クルマを運転しながら、いちいち「なんだありゃwww」と目に入るもの全てを嘲笑したり、「クソ、あの野郎!」といきなり怒鳴ったりするドライバーもいます。

彼らは、「江戸の敵を長崎で」とばかりに、それまで黙って受けていた仕打ちに対する報復を見当違いの場所で行っているかのようです。相手がどう思うか、感じるかはお構いなしです。

日本人にとって、笑いや嘲りは最高の武器であり娯楽なのです。もし相手が怒っても「おまわりさーん! 頭のおかしな奴が居ます」と通報すれば済むと彼らは考えています。

 

以前、中学校教師役で一世を風靡した歌手が、街を歩いていた際、「あら、足が短くて面白いわね~」と子連れの母親が我が子に語りかける場面に遭遇したというエピソードをラジオで紹介していました。

「ほら、おにいさんが挨拶してますよ~」と子供を促しながら、終始わが子しか見つめておらず、自身はまったく挨拶をしない親がいます。

また、子供が周りに迷惑をかけているという雰囲気を察するや否や、周囲に謝ったり、あるいは理由を述べて子供を守る代わりに、芝居がかった様子で、自分の子を叱り飛ばすという場面もよく見られます。

どこか自閉的、閉鎖的なものを感じさせる行動です。幕末に日本を訪れた外国人が「日本人は一緒に遊んだりして、子供をとても大切にしている」という記録が残っていますが、狭い世界に閉じこもる傾向を誤解したのです。

 

普通の大人でもこの傾向は変わりません。何か国際的な行き違いがあった際に、下っ端の役人が相手国に対しモゴモゴと独り言のような文句を言って電話を切ると、それが「~国に正式に抗議をした」という事になってしまいます。まるで子供が近所の家の呼び鈴を鳴らして、家の人が出てくる前に逃げていくかのようです。

 

日本人は相手の気持ちを想像できません。それどころか、仲間以外はただのモノにしか見えていないのです。そうかと思うと、モノに神や魂を見出す、アニミズムのような見方もします。要するに彼らは、その場その場で周りを、自分に都合のよい道具としているのです。

 

趣味の集まりで知り合った人が含み笑いをしながら「あの○○さんの家って、昔は草履を作っていたんだョ」と話しかけてきた事がありました。要するに「彼は○た・○にんだよ」と言っている訳です。大して親しくも無い相手に話しかけ、こういった悪口を共有できる仲間に、相手が成り得るかどうかを、それとなく確かめているのです。その場に居ない第三者への侮辱が許し難いというだけでなく、「仲間」となるまでは、相手の気持ちも考え無い、誠実さに欠ける人々です。

 

日本人にとっての日常会話というのは、「我々は仲間である」という確認と強化の場です。それと同時に仲間内での「序列」を強制する場でもあります。

仲間内で集まれば、決まり文句を使った遣り取りや、同意を表す為だけの意味の無い言葉が飛び交い、連想ゲームのような会話が始まります。まったく同じ話題が繰り返され、笑うタイミングまでいちいち一緒です。しかし彼らにとっては、赤児の様に安心できる場であり、その心地よさに何時までも浸っていようとするのです。

自閉へと向かう日本人

日本人は対人恐怖症が多いことで知られています。人々は常に他者の視線を意識します。「後ろにも目を持ちなさい」と躾けられたかの如く、迷惑を掛けないよう背後にまで気を配っています。こういったものが、皮肉にも自閉的な態度へと人々を向かわせます。

 

人は社会的交換をしながら生きています。社会活動に参加したり、働いたり、他人と話をしたり、モノを買ったりといった具合です。しかし日本人は社会と接しながらも、どこか自閉的です。

人々は不必要な接触を出来るだけ避けようとします。また、海外の人に見られるような自然な表情や親切心が無く、本心を押し殺した慇懃無礼さや、媚びた様な、あるいは詐欺師のような笑みを浮かべたり、逆に露骨に嫌な顔をしたり、心ここにあらずといった投げやりな態度で他人と接しています。 

小学生が横断歩道を渡ってお辞儀をしたりすると「礼儀正しい」と持て囃されます。しかし彼らは本心から感謝の気持ちを表している訳ではなく、「あら、えらいわね~」と近所の人に言われたり学校で教えられたりして、「こうすれば褒められる」という学習をしただけなのです。だから横断歩道で人が撥ねられて倒れているといった、教えられていない状況では、被害者をチラッと見ただけで、自分の世界に戻り、スタスタ歩き去っていくのです。

 

日本人が生きている世界が、常に「世間」という名の他人で占められていれば、自我を守る確固たる理念や信条を持たない限り、健全さを保てません。日本人の心には「世間」という大きな円の中に、辛うじて小さな「自分」という円があるようなものです。しかもその「世間」は複数あり、心の中で常時せめぎあっているのです。

 

世間の「視線」により自我が縮小すれば、ある時点から、それは「なすがまま」の状態になります。自分を持たず、まるで他人に操られているかのようなものです。スイッチを入れれば働き、切れば止まって大人しくなる機械です。

もし自分を守ろうとすれば、何所かに境界を設け、極力他人には関わらないようにして、自閉的な態度をとるようになります。その境界を越えられたと感じた時には激烈な怒りを表します。もし「身内」があれば、その中で暴君のように振舞う事で自我を保ちます。延々と続く社会的交換自体に意味を見出せなくなれば、自分を非難する「世間」の声から身を守る為に「引きこもり」になります。 

逆に、他人の「視線」を気にしなくて済むような立場になれば、今度は自我が拡大し、子供のような全能感を持ち傍若無人に振る舞い、極端な場合、「日本人は神の子孫」「日本は神の国」といった事を呟いたりします。

 

「境界」を作ろうとしても、日本人は外との境目が曖昧です。「日本が」「日本人が」という話題にも敏感に反応して、悪口だと感じれば、自分の事のように感情的に反応したり、思考を停止して無かった事にしてしまいます。

「境界」を作れないので、人々は世間に埋没することで安心を得ようとします。個性で目立ったり長所を伸ばすのではなく、世間が「普通」と称するイメージにそって欠点やミスを無くそうとします。外見も、似たような髪型やメイクアップで後ろ指を指されない無難なものを目指します。彼らは「完璧な人」や「金甌無欠揺ぎない国」というものが存在するかのように行動しています。

 

日本人には、中心となるような理想や考えも無ければ、安心して帰属できる共同体もありません。彼らは自分を保つ為に過去の偉大な「価値体系」にすがろうとすることもあります。それも危くなると妄想によって自分を守ろうとします。世界の人々に「日本はスゴイ」と噂されているとか、反対に、ある国の人々が日本の悪口を言っているといった、非現実的な世界観を抱きます。外から見れば、まるで「了解不能」な人々です。

 

まとめると、自分の中に中心となるものを持っていないこと、「世間の目」が自我の中に組み込まれてしまっていること、他人と自分との境が曖昧なことが、異常な行動の原因となっています。

 

現代において「世間の目」は、近隣社会や勤務先だけでなく、通勤電車の中や、新聞、TV、SNSなど至る所に存在します。日本人の不確かな自我は圧迫され続けています。

素朴な「村社会」で閉鎖的に暮す分には良かったのですが、近代社会となって日本人は問題を抱えるようになりました。だからこそこの国の人々は、国際社会に背を向けるような「自閉」を、今求めているのかもしれません。

 

知識や考える事を憎む日本人

子供の頃、移動図書館を利用した際に、家には無かった百貨辞典を読みふけっていたら、それを見つけた職員が突然「キャハハ、それは大人が読む本!」と言って読書を邪魔した事がありました。裸の女性が載っている訳でも無いのだし、そもそも、子供が読む本と大人が読む本とに分かれているなんて、おかしな話では無いでしょうか。

 

日本人は、子供が分不相応な知識や知恵を身につけることを嫌っているように思えます。子供の頃は本を読んでいても「何かの役に立つだろう」と大目に見てくれますが、次第に「こいつは体を動かすのが嫌で本ばかり読んでいるのではないか」と訝しがり始めます。彼らにとっては「本」という入力が、「いい学校に入る」という「実用的」な結果に繋がらなければいけないのです。

 

人々は批判を繰り広げる者を見つけると、それを抑え込もうとします。「医者でもないのに病気について語るな」「学者でもないのに勝手な予想をするな」「ブンヤのくせして政治を批判するな」といった具合です。まるで当事者でなければ何も語ってはいけないかのようです、しかし肝心の当事者は説明責任を果たしていないのです。

 

日本人は不言実行を好みます。つべこべ言わずにさっさと働けという訳です。本当に黙って働くので、次第に上は調子付き、「老人は早く○ね」「女は子供を産め」「ガキは身を粉にして働け」と言うようになります。

大岡昇平の書いたものを読むと、戦場では、ずる賢い老兵は適度にサボりながら自分の体を労り、生き延びたりしますが、キビキビと疲れを知らずに働く若年兵は、病気にかかると案外あっさりと死んでしまったようです。

メンターとして新人を指導しながら「こういった事が評価されるんだから、しっかりと書かなきゃ」と洗脳したり、労わってあげたり、時々オフでネトウヨっぽい事を言えば、尊敬の眼差しで見られたりします。

彼らにとって、こうした無垢な若者をどんどん利用しない手は無いのです。

 

この国には余計な事を考えなくても済む様に、上下関係や、仲間かどうかをはっきりさせる仕組みや方法があります。仕事においても遊びにおいてもです。

例えば、対等な条件での契約が結ばれ、関係者で会食をするとします。すると「私は○大です」「私は○○○の政経です」とまずは自己紹介が始まります。これは初めての修学旅行で、入浴の際に、お互いにオチンチンを見せ合うのと似たようなものです。「みんな、同じようなもんだナ」と安心して、初めてプライベートな話へと進むのです。万が一、規格外のものがあっても、それは見なかった、聞かなかったことにします。

 

普段、考えることを出来るだけしないようなシステムになっている事もあり、日本人には理屈が通じません。身内になればなるほど酷くなる傾向があります。その代わり、無条件に「すみせんでした」と形だけ頭を下げれば済んでしまう事が多々在ります。

全く話が通じないのなら、理屈が通じる赤の他人と話していたほうが、まだマシではないかと思う時もあります。こんな生活に慣れているから、日本人は理屈抜きで従ってくれる忠実な奴隷を求めます。部下はもちろん、パートーナーにしても、子供にしてもです。

依存し奴隷に出来て、稼いでくれて守ってくれ、飾りにもなる、そういった人が「身内」として理想です。「結婚しない」「結婚できない」と世の中が騒いでいるのも無理はありません。

 

日本人は自分達全員を低いレベルに保つことによって人生をやり過ごそうとします。身を粉にして働き苦しみに耐え、休日には家でボーッとして寝ていたり、ギャンブルをする事で幸福を感じます。誰かが虐められたり、叩かれているのを見て幸福を感じます。「普通が一番」「健康が一番」と言って、低いレベルでの「平和」を尊びます。

彼らは考える事を止め、決して理想を見ようとしない、人生を楽しく生きようとする工夫を絶対にしない人達です。光を避け、深海魚のように暗がりの中を漂い、海底近くで「上だ、下だ」と言いながら、束の間の快楽にふけります。日本人にとって人生とは、こういったものに過ぎないのです。