kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

人気YouTuberは日本の何を嗤ったのか、そこから学べるもの

YouTubeが処分を発表した例のユーチューバーですが、彼はなぜ日本を嗤(わら)ったのでしょうか。もちろん彼のやっていることに対して怒り非難し行動を起こすのはいいのですが、嘲笑するにはそれなりの理由があったはずです。動画が削除されても、そう感じた人々がいたという事実は無くなりません。理由を考えることによって逆に我々が学べることもあるでしょう。

 

事の発端は、青木ヶ原樹海で自殺体を見つけて笑って冗談を言っている動画でした。これを冷静に振り返ってみましょう。世界でもっとも有名な自殺の場所として知られる「青木ヶ原樹海」というのがあって、そこに行ってみたところ、案の定、首吊り死体が見つかったといものです。

 

自殺で有名な国に、世界的な自殺の名所があって、そこに行くと首吊り死体がぶらさがっている。これがどんなに異常なことか考えてみてください。日本人なら樹海を知っているのは当たり前ですが、世界的にも1、2位を争う程有名な自殺の名所だということを知らない人は多いかもしれません。

 

さらに世界の自殺の名所は、大抵、滝や断崖絶壁、巨大な橋で、素人が簡単に投身した遺体を見つけられるものではありませんが、樹海は中に入って根気よく探せば、死体がぶらさがっていたり、転がっていたりします。いくら自殺が多いとはいえ、遺体がそのままになっているというのも異常ではないでしょうか。

 

自殺が多いということが分かっているのに、行政は何の対策もせず、惨めな死体がブラブラ吊るされたまま、回収されるということもない。ボランティアが積極的に何かしたり弔うこともない。遺族が探しに来るということもない、このような人間の尊厳に対する軽視や無関心が具現化されている場所が「樹海」なのです。

もとより人権軽視の国なので勝手に死んだ者などどうでも良いということでしょうか。電車が雪の中長時間止まっていても、何の対策も考えられなければ、中で苦しんでいる人達に対しても何も感じない、それと共通するような日本人の動きの悪さと冷たさを感じます。

 

要するに、(1)樹海が観光名所となっている、(2)日本人はすぐに死にたがる、あるいはそういった異常な環境に住んでいる、(3)自殺体がごろごろしていて、日本人はそれを気にもしていない、それが真実がどうかはともかくとして、そういった人間を軽視するおかしな日本人というイメージを嘲笑っていたのです。観光立国を目指す日本ですが、皮肉にも「樹海」が日本らしい観光名所のひとつとなっていたわけです。

日本はアフリカの最貧国のようになる

ブラッド・ダイヤモンド」という映画があります。アフリカのシエラレオネ共和国でダイヤモンド資源を巡って起きた内戦をテーマにしたものです。子供達は満足な教育も受けられず、それどころか少年達も自動小銃を持って殺戮を繰り広げます。

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日本は貧困化の一途を辿っています。人口も減っていますが、為政者にとっては国民からチューチュー利益を吸い上げる仕組みが、これから先も欲しいところです。

 

日本は既に内需が期待できず、下請け、末端労働者の質の低下や減少のため、技術力を生かしたモノづくりと輸出も期待できません。もちろん日本には輸出するような資源もありません。

 

ひとつの案として、日本を世界のプルトニウム製造、核燃料再処理工場にするというのがあります。原発インフラを利用して各国からの仕事を請け負うのです。さらに世界中で発生した核のゴミの廃棄施設を作りその管理を行うのもよいでしょう。

 

この先、地方自治や地方警察は崩壊していきますので、原発周辺には民間軍事会社から雇った傭兵を配置し、施設を守ることが必要です。また人々を徴用し、銃で脅しながら原発作業に駆り立てることもしなければなりません。

 

地方の治安は相当悪くなりますが、単純労働に従事する人間はいくら死んでも代わりがいますし、またカネ目当てで世界中から傭兵も集まってきますから、原発運用に困ることはありません。時々は土人(日本人)が面白半分に銃で撃たれたりしてしまうかもしれまんせが、日本人は駐留軍の下で人権侵害には寛容ですから大丈夫でしょう。

 

東京は選民が住む、一種の要塞都市になります。約4万人の「兵隊」から成る警視庁と朝霞や習志野自衛隊が守りますが、万が一、反政府軍に襲われるようなことがあっても、要人はヘリや飛行機、空母でいつでも脱出が可能です。富裕層や二流の役人もカネやコネ次第では助かるでしょう。

 

地方の物流はとまり、食糧は不足し、生活必需品にも事欠く毎日です。主な仕事は原発作業員か軍人、傭兵、警備員しかありません。安穏としている老人はすぐに死んでしまうでしょう。シエラレオネ共和国は世界でもっとも平均寿命が短い国ですが、そのうち日本もその座を巡って競うことになるかもしれません。人道支援を求めるユニセフの広告にも惨めな日本の子供が載る日が来るかもしれませんね(笑)。

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70億の人間の意識も、ひとつの意識が見ている夢に過ぎない、という考え方で世界を見る

地球上で次々と新しい生命が生まれては、はかなく消えていくという事が繰り返されています。この命の軽さ、無駄とも言える命の払い出しには何か理由があるのでしょうか。人間の命には何らかの価値があると信じる人ならば一度は考える問題です。

 

ひとつの考え方ですが、無数の生命、魂、意識があるように見えても、実際にはひとつの意識が見ている夢のようなものに過ぎないのかもしれません。例えば、漫画家や小説家は物語を創作するにあたって様々な登場人物を作り上げます。Aというキャラクターに没頭したかと思えば、次にBというキャラクターに移っていきます。時に書き手は、まるで登場人物が勝手に生きて動いているように感じることがあります。この場合、書き手は常に自分が書き手であり、創作世界の作り手、いわば神であることを意識していますが、こういった作り手としての意識が無い場合も考えることができます。

 

天文学者であるフレッド・ホイルが書いたSF小説に「10月1日では遅すぎる」というものがあります。ここで意識と時間について、ひとつの見方が披露されています。Aという人物のファイル、Bという人物のファイルが予め用意されていて、意識というのはそれぞれのファイルにスポットライトが当たったときに自覚されるものでしかないというのです。

A、B、C・・・、A、B、C・・・とマルチタスクにおけるタイムスライスのように次々と意識が切り替わっていき、A、B、Cそれぞれは、割り当てられている間、自分の意識がずっと継続しており独立しているものだという確固たる自信を持っていますが、それはひとつの意識(CPU)が見ている幻想に過ぎないのです。

 

またAという人物において、若年期のある頃、壮年期のある頃、老年期のある頃、そしてさらに平行したまた別の世界、といったファイルが用意されていますが、必ずしもそれらのファイルを順に見ているわけでもないのです。まったくランダムに、老年期を過ごしたかと思えば、次は若年期の世界を見ているのかもしれないのです。あるいは、老年期だけ数万回も繰り返し見ているかもしれません。それでも当人はそのたびごとに、その世界において新鮮な経験をしているのです。

ここでは過去から未来に一方向に流れる時間というもの自体が否定されています。処理が割り当てられている瞬間、そのファイルの世界においては過去があり、未来の展望があり、時間が一方向に進んでいるようにしか見えないのですが、それは予めそこに書かれていた物語にしか過ぎないのです。意識の範囲は、常にそのファイル内に限られているからです。

 

時に死の局面のファイルを開いてしまうかもしれませんが、次にはまた壮年期のファイルを開いて、人生を楽しんでいるかもしれません。つまり、世界がこういった仕組みであるならば、死さえも重要な問題ではなくなってしまいます。このシステムでは世界を見守る統括者、絶対的存在というものがありません。

 

もしかすると遠い昔に、上位の生命体が生きるのに飽いて、様々な夢を永遠に見続けていたいと考え、このシステムを作り上げたあと長い眠りについたのかもしれません。それであれば、この世界が滅茶苦茶で何でもありなのも、まったく救いがないというのも、有り得ることです。

確かに夢というのは、目的があり、筋が通って、一方向に進んでいるよりは、混乱し滅茶苦茶であったほうが面白いものですから(笑)。

集団で意味のない避難訓練をする日本人の愚かさ

日本人は意味の無い避難訓練や防災訓練が大好きです。日本の避難訓練というのは、まったく現実的ではなく、どこか儀式めいた、軍隊的な雰囲気があるのが特徴です。

 

日本のどこに居ても必ず遭遇する、あのサイレン音とナレーションを聞くたびにゲンナリする人も居るのではないでしょうか。あるいは何も考えたことのない人の方が多いのかもしれません。

 

統一と自己犠牲が必要な所では、日常生活が宗教化、軍事化されると述べたのは、エリック・ホッファーですが、日本の避難訓練というのは、自己を無にして共同体の統一性を確認するための儀式的行為であり、同時にそれを成員に叩き込むための軍事教練と言えるかもしれません。ですから実際に、訓練が効果的であるかどうか、現実に即しているかなどは省みられることはないのです。

 

上の指示があるまで、何があろうとじっとして動かない、指示があって初めて、強度の不足した無意味なヘルメットを皆で被り、調和を乱さず集団で規律正しくゆっくりと行動する、そして広場に並ばされ、儀式めいたスピーチで終了する、といった具合です。奴隷達が上の意向をくみ取って、真面目にこのような馬鹿げた行為を成し遂げる姿には驚嘆するものがあります。さすがカミカゼ・アタックやバンザイ・アタックを行った国民です。

 

避難訓練と言っても、何の事はない、これは何ひとつ自分では考えるな、黙って上のいう事をきけ、という訓練なのです。さらに上の連中も自分で決断できない愚か者なので、いざ災害に遭遇した際には悲劇的な結果になります。3.11の時は、津波が迫っているなか、子供達は学校の広場に長い間立たせられた後、波に飲み込まれて死んでしまったのです。

 

そんな教訓を人々は深く考えることもなく、今日も日本の至る所で、サイレンが鳴り響く中、頭を抱えてうずくまる訓練が繰り返されているのです。何も文句を言わない、何も考えない、ただ毎日を言われるがままに生きていく、そんな奴隷であることに安心しきった彼らの末路は悲惨なものになるでしょう。

奴隷に対する麻酔剤として作用する、ゆるキャラたち

日本には幼稚な「ゆるキャラ」や、「カワイイ」キャラクターが満ち溢れています。熱心なアニメヲタクはそれほど多くはないものの、巷で見かけるマスコットや、「魔法少女~」(笑)などは割と多くの人々に受け入れられているように思います。

 

日本人がユーモラスで明るい国民だから、こういったものが蔓延しているのではありません。これらは、日本人が幼稚なものを好むことに加え、こういったマスコットが、深刻なこと、真面目なことを包み隠す役割を担っていることから来ます。

 

日本人は子供によくウソをつきます。ルーズ・ベネディクトも指摘していますが、昔、日本では親が子供を甘やかす一方で、言うことを聞かないと「おまえはウチの子ではありません」と脅す習慣がありました。子供を感情的に翻弄して支配下に置くのです。

 

また日本人は、表面的に相手を傷つけないという理由の為に平気でウソをつきます。日本人はウソをつき、ウソをつかれることに子供のころから慣らされています。奴隷達は普通の感覚ではとても暮らしていけないようなディストピアに暮らしているからこそ、自分にも周りにもウソをつき続けなければいけないのです。

 

それゆえ、心地よい世界であるかのような幻想を子供に与える馬鹿げたストーリーや想像上のキャラクターを彼らは歓迎します。現実を誤魔化してくれるような幼稚なたわごとを自ら信用しょうとします。大人向けにTVでは御用学者や、医者、弁護士、大学生、政治家がたわいもないバラエティ番組に出演し、噛んで含めるような司会の解説とともに「日本は素晴らしい国である、権威ある私たちを信用するように」というメッセージを送っています。

 

こうして真面目に取り組まなければいけない事柄や、厳しい現実が「ゆるキャラ」や幼稚な寸劇で誤魔化され緩和されます。それは強制されているというより、奴隷たちが自ら求めていることでもあるのです。