kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

無感動な日本人の行く先にあるもの

日本人を特徴付けるもののひとつに無感動があります。現実から一歩引いたところで物事を眺め無感動であることを良しとする傾向です。

人々は、甲子園のような限られた場所でだけ、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだり笑ったり泣いたりすることが集団単位で許されます。個人が感極まって感情を露にすると、冷笑されたり、非難がましい目で見られたり、「こいつは頭がおかしいのではないか?」と思われたりします。


日本では、死ぬ時でさえ泰然自若としていることが立派であるとされます。周りもその人の死を平然として見守ります。以下は森鴎外の「阿部一族」からです。
"自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。" "弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。"


日本は上下関係の厳しい、いわゆる「タテ社会」です。目上の者に対しては「私はあなたの奴隷です」とばかりに屈服しなければなりません。逆に目下ならば、どんな傲慢な事をしても許されます。中身は関係ありません。地位が大事なのです。社長や部長も能力があるというより、それらしく振る舞うのが上手い人達です。「お笑い」は日本の社会の縮図です。強いものが弱いものを苛めたり叩いたり飛び蹴りを食らわしたりします。日本人はここからモラルを学びます。人々は現実の世界でも、自分より弱い者を探しだして、嘲笑ったり攻撃を仕掛ける機会を狙っています。

 

日本のようにひとつの階層によって全てが決まってしまう社会では、上下を争う闘いの中で負け、打ちのめされる機会も多くなります。勝利者は、その階層では一人しか許されないのです。打ちのめされるのが嫌なら、無感動になるしかありません。序列が激しい社会では、無感動や諦めは必須の鎧であり、武器でもあります。そもそも初めから期待しなければ喪失感を味わう事もありません。

かくして期待もせず喜びもせず悲しむ事も無いような、無情を常とするような人間が出来上がります。感情を表さずに淡々と生き、淡々と相手を攻撃し打ちのめし、淡々と死ぬような人間が理想なのです。普段は何事にも冷笑する一方で、身を守る事には汲々として、決して手を抜かない人達です。アドバイスを装いながらも相手を地獄に突き落とそうと試みる人々です。真善美のような目に見えない普遍的価値の為に一生懸命努力する事は、幼い子供がやる様な恥ずかしい事とされ、いかに最小の力で、他人より上に立てるかという現実的な施策が重要とされます。

 

日常はそうであっても、しかし、非日常では抑え込まれていた欲望が爆発してしまいます。普段は冷静に振る舞っていても、酒が入ったり性的なサービスを享受する場では途端にだらしが無くなるのです。

またこういった社会では、人々の視野が極端に狭いのも特徴です。自分が住む狭い範囲の上下関係だけ見ていれば、自分は王様のままで居られます。その球体の中に収まって居れば傷つくこともありません。そのために彼らの現実に対する認識は著しく歪んでしまうのです。「世界が絶賛」「世界で人気」「世界が驚く」「世界が注目」という言葉につい酔いしれてしまいます。

意味するものと、意味されるものとの解離が進み、彼らは記号を表面的に操作するだけで満足してしまいます。真の共感は無く、「おもてなし」「思いやり」「寄り添う」等の言葉だけが、空しく辺りを漂っています。人の気持ちに全く思い至らないので、「コスト削減」という言葉の下に、人をモノのように使い捨てにしたりします。改革を叫ぶ声に対しては「理想だけ言われてもねえ・・・」とうそぶき、権威に寄り添うことに余念がありません。


こういった社会において、現実を見つめる繊細な人々は、負けてしまうとアルコールに溺れたり自殺したり、あるいは、ひたすら何か弱い者を攻撃し続けるようになります。

一方で多くの人々は、表面上、絶対的な上下関係を平静な様子で遵守しながらも、彼らの中で行き場を失ったどす黒い欲望や悪意、嫉妬が、裏でうごめいて発散する機会を伺っています。その欲望や悪意を上手くコントロールする人が現れれば、簡単に集団を爆発的な行動へと駆ることができるのです。

カネに振り回され短期的な見方しかできなくなった日本人

「健康で文化的な最低限度の生活」を営むのに、この国では一体いくら必要になるでしょうか?
 
人々は生活費に加えて、高い税金を払っています。ひねくれた見方をすれば、人々は生まれきたことへの代償として、数千万円以上のカネを死ぬまで払い続ける定めにあるとも言えます。所得税都道府県民税と市町村民税、健康保険税、固定資産税、国民年金保険、雇用保険、二重三重に課税される消費税などです。貨幣価値を考えれば、かってない程の重税を現代の庶民は背負わされているとも言えるかもしれません。
息をするだけでは生きていけませんから、さらに、家賃や食費、移動費、受信料、ガス代、水道料金、電気代、通信費がかかります。クルマを取得すれば自動車取得税自動車税自動車重量税自動車保険、ガソリン代、修理費用が必要です。死によってのみ、人々はやっとこの負債から逃れることができます。
 
「生きてるだけで丸儲け」というポジティブな見方もできます。しかし人生の終盤でも果たしてそんな事を言って居られるのでしょうか。「人生とはこんなものだったのか」という思いで死んでいく人達も大勢居るのです。背負っていくもの以上に、人生が楽しいものだと感じられれば、その生は、その人にとって意味あるものとなるでしょう。
 
この国の人々は自分の生活だけでなく、他人の事を異常に気にします。彼らは社会保証を得ようと試みる人々を罵倒したり、白い目で見たり、執拗な嫌がらせをしたりします。それでは、そういった人々が慎ましく弱者らしくしていれば援助をするのかと思いきや、何もしないのです。口先だけで「大変だねえ・・・」などと言いますがそれだけです。弱者のクセに都合よくカネを貰う奴がいると聞けば彼らは全力でこれを妨害しようとします。
 
こういった人達にとって、「日本スゴイ!、俺もすごい!」というマスターベーションは必要なのかもしれません。確かに躁的防衛も必要です。気持ちは分かります。しかし彼らはどうしても他人が気になります。「日本が嫌いなら出ていけ!」「在日や外人は出ていけ!」「学校が嫌なら辞めればいい」「親の言う事が聞けないなら家を出ていけ!」と彼らは言います。頭の足りない人達の言う事は、いつも判で押したように同じです。
ちょっとでも何かを指摘すると日本が嫌いな人になってしまうのでしょうか? 否です。仮に日本を嫌いだとしても直ちに日本を出ていかなければならないのでしょうか? 断じて否です。
それでは日本を良くしようとしている人々の口を封じようとする彼らは日本を愛していると言えるでしょうか? 「日本大好き!」と自称するが、その実、自分とは異なる他の人々を差別し、暴言や実力行使によってシステムを破壊しようと試みる人達が、そうでは無い人々を追い出す権利があるでしょうか?
 
頭が足りないだけでなく頑固でもあるという者は、どうしようもありません。ほおっておけば自然に治るとか、叩いてみれば良くなるというものではないのです。悪くなるばかりです。視野が狭く、短期的なものの見方しかできず、古い価値体系に固執し、それを守るために妄想を作り出してそれに酔い、傲慢で人の言う事を聞き入れない攻撃的な人々です。彼らは理非善悪を弁識できるかどうかも疑わしい人達です。幸いにしてSNSの発達により、こういった者達を容易に判別できるようになりました。
 
人々が生活するにあたっては、自分の中に感じられる可能性が希望を生みます。そして希望が活力を生み出します。人の幸せは、常に変動していく環境の中で如何に自分の身の回りに幾つもの安定したシステムを構築するかにかかっています。相互作用によって、カネや愛情が安定して巡り廻り、その中で、人々が自分の技を用いて、自分のやりたい事ができ、その事に意味を見出せるような環境です。このシステムが脅威にさらされたり壊れたりした時に、人は不安を感じます。
 
何か既存のシステムに便乗するのが一番楽なやり方ですが、それだけでは社会は停滞してしまいます。既存の枠組みの中で新しいシステムに挑戦できるような仕組みも必要です。人は水と同じで何かに向かって常に動いていないと淀んでしまいます。
 
人間は、物事の背後に、構造や仕組みやメカニズムを見出だして、それを利用する能力を持っています。しかし日本人は、こういった能力が弱いのかもしれません。目先の短期的な利益に振り回されずに、多様性を許容し、その中から絶えず新しいシステムを作りあげていく人々が、これからの世界でも生き残っていくのです。
 
"損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。"  "彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。~あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗して行くより外には何の事実も認められなかった。~「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。"
夏目漱石 「道草」

日本人と犯罪

日本人は時々「一部の心無い人達が、こんな悪い事をしている」と言います。自分もそうなる可能性があるという自覚が無いのです。

 

日本は統計上は犯罪が少ない国となっています。確かに絵に描いたような凶悪犯は少ない気がします。しかし表面には現れない悪意を其処かしこに見出すことが出来ます。人々はネットで面白い言い回しを見つけると、その覚えたての言葉で誰かを罵倒してみたくなります。物陰からエアガンを誰かに向けて発砲するかのように、匿名で攻撃する機会を狙っています。

 

日本人は、情性欠如や自信欠如といった特徴を持った人々なのかもしれません。冷たい心を持っていますが、自信が無いので、通常は犯罪を実行できず、言われるがままに奴隷のような行動を繰り返しています。しかし、いざ状況が許せば、集団で一斉に悪辣な行為へと向かって突っ走るのです。しかもその集団行動は執拗で徹底的です。自発性に欠けているという点で一見、意思欠如者のようにも見えますが、そういった持久力には長けています。

 

また日本人には時に、犯罪を起こすことで助けを求めるような独特の行動が見られます。ベッタリと依存しながらも、いざそれが破綻すると破滅的な攻撃へと移ってしまうのです。自分の子供に手をかけておきながらも、実は、周囲に「助けてくれ」と心の中でずっと言い続けていたのです。

 

同じように、日本人の表と裏の意図が異なる例として、受動的攻撃性というのがあります。本当は不満を持ち、相手を恨んでいるのですが、直接文句を言ったり、相手を攻撃する代わりとして、サボタージュやモノに当たることで不満を表明するのです。自分が上の立場になると、周りから徐々に締め上げていくような陰湿な手段を用います。

 

日本人は自分の内に秘めた攻撃性を実現してくれる誰かが登場すると喜び、陰で応援します。学校のクラスなどでも進んで悪ガキを演じるような子供がいます。普通の人達が避ける「悪」を具現しながら、実のところ、そういった役割を担う者を本心では望んでいる事を、彼は巧みに見抜いています。「本音では俺に賛成なんだろ?」「本当は俺のことが羨ましいんだろ?」というわけです。日本社会では大人になっても、メディアなどで、突飛な発言をしたり悪ぶったりして得意気になっている人達がいます。一見逆説的な事を言っているようでありながら、その実、本人は安全なところに居るのです。

 

こういった悪い行為をとがめられると日本人はまるで子供のような言い訳をします(中和の技術)。
(1)「皆がやっているからそれに乗っかっただけだ、俺は悪くない」(2)「誰も傷つけてない、ただ本当のことを言ったまでだ」(3)「そもそもこんな事を言われるような奴が悪いんだ」(4)「俺たちを非難するあいつは~人に違いない」(5)「これは日本のためなんだ」 などと言うのです。彼らは悪いことをしながらも、いつでも安全地帯に引き返せる場所に居ることを望んでいます。

 

日本人は法に触れないぎりぎりの場所で悪い事をするのが大好きです。自分の中にしっかりとした道徳を持っていないため、自分を律することができません。それでいながら、計画を練って事を実行する陰湿さと執念深さを持ち合わせています。しかし、いざどうにもならないとなると、爆発的、衝動的な行為に走ります。しかしそれは自分の弱さの表明や助けを求める行為でもあり、誰かが自分を止めて罰してくれるのを待っているのです。

陰湿な攻撃性を内に秘めた日本人

日本のように上下関係にうるさく、過度に抑圧された社会では、表には出ない陰湿な企てや行為が発生し勝ちです。
 
以下は夏目漱石の「我輩は猫である」から、実業家の「奥様」が、初対面の苦沙弥先生に対し極めて攻撃的で失礼な態度でものを尋ねに行ったものの、先生が恐縮して居なかったために逆恨みをし、その家の連中が先生に対してイジメを企てている場面です。
「あの教師あ、うちの旦那の名を知らないのかね」と飯焚(めしたき)が云う。 ~「金田さんでも恐れねえかな、厄介な唐変木だ。~構あ事あねえ、みんなで威嚇かしてやろうじゃねえか」 ~「何でも大勢であいつの垣根の傍へ行って悪口をさんざんいってやるんだね」~「そうしたらきっと恐れ入るよ」~「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」 
日本人は既に慣れ親しんだ人だとこちらが思っていても、「一緒に笑うべきか、あるいは、よそよそしく知らん振りをするべきか?」と、常に距離を測りながら人と接しているような、不審な行動を見せることがあります。互いの間で上下関係がはっきりと定まるまで、このおかしな挙動が続きます。
 
日本人は子供に対して、例えば、白米をちょっとでも残すと「お百姓さんに怒られる!」「目がつぶれるぞ!」と図に乗って攻撃する事があります。普段は「先生のいう事を黙って聞け!」「芸人ごときが医者に向かって!」と強者の側に立って他人を攻撃する人々ですが、場合によっては逆に弱者の側に立ち、攻撃を続けると同時に善人面をしたりします。ニュートラルな出来事について上から怒鳴りつけながら、相手に罪悪感を抱かせるという卑劣なやり方です。
 
外国から商談で客が来日すると、最初の通訳は下っ端にやらせます。ところが、話がまとまりかけたと思われる頃に、突然、もっとも偉い日本側の人物がもったいをつけながら英語で説教めいたことを外人に対して語ることがあります。まるで「俺だって英語ぐらいできるんだ」「俺はお前らよりもずっと偉いんだぞ」と言わんばかりです。外人は赤い顔をますます赤くして屈辱に耐えています。これは日本人に共通して見られる習慣らしく、映画「ブラックレイン」や「ガンホー」でも似たような場面を見る事ができます。
 
日本は今でも階級社会であり、人々は「あいつは俺より上か下か?」と推し量りながら行動しています。自分が下にあって抑圧されているのはやはり面白く無いため、誰か下の者を見つけては、うっぷんを晴らす機会を求めています。 

現代人がいかなる処、いかなる場合にもいかに甚しく優越を争おうとしているかは、路地裏の鮓屋(すしや)に於いても直に之を見ることができる。 彼等は店の内が込んでいると見るや、忽ち鋭い眼付になって、空席を見出すと共に人込みを押分けて驀進(ばくしん)する。物をあつらえるにも人に先じようとして大声を揚げ、卓子を叩き、杖で床を突いて、給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ち切れず立って料理場を窺き、直接料理人に命令するものもある。日曜日に物見遊山に出掛け汽車の中の空席を奪取ろうがためには、プラットフームから女子供を突落す事を辞さないのも、こういう人達である。

 永井荷風 『濹東綺譚

 
昔の日本人は、自分の至らなさを省みる謙虚さや心の余裕が多少はありましたが、今や自分の愚かさを公にしつつ相手をこき下ろす最低の人々となってしまいました。そして今日も、「どうやったら法や社会のルールに触れずに、自分より下であるはずの者に対して攻撃できるか? 復讐する事ができるか?」という陰湿な計画を練っているのです。
 日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。~あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。~ところがこっちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩(さかねじ)を食わして来る。~つまりは向うから手を出しておいて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩のように、見傚されてしまう。~そこで仕方がないから、こっちも向うの筆法を用いて捕まえられないで、手の付けようのない返報をしなくてはならなくなる。

 夏目漱石『坊ちゃん

日本人と自殺

自殺について、仮に、<生活圏>、<決意の度合い>、<冷静さ>、<他人との関わり>という4つの軸を用いて考えてみます。

 

飛込みは、通常、生活圏内かそれに近い場所で行われるものです。その凄惨さ、公共の交通機関を麻痺させてしまうこと、場合によっては賠償金請求などで残された家族にも迷惑をかけてしまうにも関わらず、この手段を選ぶのは本人の精神状態にほとんど余裕が無い事を示しています。焦燥感を抱き「早くこの生き地獄から逃れたい」「精神的苦痛を一刻も早く確実に無くしてしまいたい」という思いに囚われているのです。ですから、場所の選定や、他人、実行後の事については、全く考えられない状態なのです。

 

これに対して自○の名所などで*のうとする場合は、未だ余裕があると思われます。生活圏の外にまで出て旅をする体力、精神の余力が多少あるという事です。行ってはみたものの、やはり*に切れなかったという場合も多いことでしょう。こういった場所に行くのは、決意に自信が無く、名所に行く事で、先に*んでいった大勢の人々に思いを馳せ、覚悟を得たいという試みでもあるのです。

 

首吊りは、生活圏の中の静かな場所で、確実に*にたいという場合に使われます。通常、自宅や職場などの見知った場所で、かつ、一人になれる場所で行う行為です。切羽詰った場合も、未だ多少余裕がある場合もあります。*に際して、他人に関与しようという考えはありません。

  

飛び降りは、生活圏の中で行われる場合には、衝動的、発作的なものです。自宅のベランダに出て、あるい屋上などで下を覗き込み、「ここから落ちれば楽になれるかもしれない」とつい思ってしまうのです。これが人通りの多い場所にあるビルや塔によじ登って飛び降りを試みる際には、「誰かに助けて欲しい、自分の苦しみを分かって欲しい」という表現である場合があります。

 

焼身自○は抗議的な意味合いが強い方法です。かなりの苦痛を伴いますが他人に与える衝撃度も大です。心に激しいものがあるが、それと同時に計画性と固い決意が感じられます。特に生活圏の外に出て、象徴的な場所で実行に移す場合、他人や社会に対する強烈なアピールとなります。

 

今の日本では、精神的な余裕が無い程に追い込まれている人が多く、さらに、確実に目的を果たそうという強い意志を持った人が増えているのかもしれません。他人との関係は減っていますが、いざ関わる場合には激烈な形をとる場合があります。

また日本人の場合、家族など、親しい(と本人が思っている)他人を巻き添えにするケースが、しばしばあります。

この理由のひとつとして、日本の社会においては、他人を巻き込む行為について、許容の度合いが大きいというのがあります。日本人に愛されている(?)忠臣蔵ですが、これは、職を失った役人が逆恨みをして、大勢の仲間を巻き込み、大義名分の下に大量○人を犯した上で切腹するという、悪質な犯罪を基にした物語です。日本では一家心中で、当人が生き残ってしまった場合でも大目に見られます。それなりのステータスがある人間が、家族や親しい仲間を巻き添えにするのは、美談とならないまでも、大いに情緒酌量の余地があると見られるのです。

  

一方で、一生懸命に生きて来た弱者が悲惨な状況へと追い詰められてしまったのは、全て自己責任の結果であるというのが、一般的な認識となっています。「他人に迷惑をかけずに、一人で*ねばいい」と言うのであれば、安んじて確実に命を絶つ事のできる、安楽死のシステムを整備するのが最善という事になってしまうのでは無いでしょうか?