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kurukuru89’s blog

たった一人の原始キリスト教信者が、気の向くまま森羅万象について語ります

日本の復興において駆逐される日本人

ユダヤ系の作家、アイザック・アシモフSF小説に「銀河帝国の興亡」というのがあります。巨大な銀河帝国の崩壊を予測した科学者が、文明が衰退した後でも、できるだけ速やかに第2の銀河帝国が再建されるよう、2つのファウンデーション(土台)を密かに作っておきます。

 

第一ファウンデーションは、動乱の影響を避けるために、銀河の辺境に作り、第二ファウンデーションは、銀河帝国の中心だった都市に密かに設けられました。

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イスラエルの民は幾多の動乱を経て、自国を消失しましたが、いつか再会する時の為に、お互いの風習を守り抜くことを約束して世界に散っていきました。

 

そのいくつかは最果ての極東にたどり着き、その風習を守ってきました。聖書の預言ではイスラエルの民は再び一つとなり、多くの祝福を得て世界を治めることになっています。

 

その祝福される国こそが日本である、というのが日ユ同祖論のひとつの主張です。しかし現在のイスラエルから見るとちょっと違います。イスラエルはアミシャーブを通して世界に散った同胞(失われた10支族)を探し、その帰還を手伝っていますが、日本に関してはそういった話を聞きません。考えられる理由は次の通りです。(ユダヤ人にはきちんとした定義があるので、ここでは便宜上イスラエル人と呼びます)

 

(1)日本にイスラエル人の子孫はいない

(2)イスラエル人の子孫はいるが、あえて帰ろうとしない(例えば支配層に位置するため)

(3)日本にはイスラエル人の子孫が多いため別の方法を考えている

 

もし理由(3)が正しい(失われた10支族(さらには2支族)も相当数居る)場合、次のユダ族とエフライム族についての予言に従って日本を再興させるにあたり、邪魔なものがあります。それは日本人そのものです。

 

その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。(エゼキエル37:22)

 

日本人は過去の出自を忘れているどころか、多くの人がユダヤの神もキリストも信じていない無神論者です。ユダヤ人にとっては、彼らを滅ぼし、代わりに中国系や朝鮮系の支配層とともに、現在のユダヤ人が入植して、新しい「日本人」として成り代わり、日本を再興して、現イスラエルと共に世界を治める場所とすればよいのです。ユダヤ人にとって、中東におけるパレスチナ人やイスラム教徒が邪魔であるように、日本人も邪魔であり駆逐する必要があるのです。

 

こうして世界の中心であるエルサレムを再び手にするイスラエルと、極東にある日本は一つとなり、先の預言が実現するのです。

減塩なんかしているから倒れたり調子が悪くなったりする

熱中症の季節になりましたが、あいもかわらずTVでは、「休憩」と「水分をとること」だけが強調されており、大事な塩分補給がほとんど人々に伝わっていません。

 

ちょっと調べれば、ネットのサイトに「塩分を適切にとること」というのも申し訳程度に載っていたりしますが、「日本人は塩分をとりすぎ」、「日本人は減塩」というTVメディアの言葉にかき消されています。

 

カップめんに入っているような、精製塩や化学調味料は要らないですが、自然塩は意識して毎日摂らないといけないぐらい、多くの人々にとって不足しているのです。

 

それなのに減塩給食や、コストカットで塩分控えめ(笑)な食事ばかりでは、日本の猛暑を乗り切れないでしょう。しかも使っている塩は精製塩です。

 

愚民御用達の医療紹介番組では、「減塩」を強調します。アナウンサーやタレントはアホ面をさらして、感心したように頷き、視聴者にもそれを求めます。

 

番組に出ている専門家は、科学、医療技術の進歩によって、この世から病人や病気がなくなる事を願っているのでしょうか。末端の人たちを除いて絶対にそうではありません。高給を食む彼らにとって、それは悪夢以外の何物でもありません。病気や病人は無くなって欲しくない、むしろ治療単価が高くなるような厄介な病気がどんどん増えて欲しいと思っているのです。

この世における問題解決能力の必要性

人間はこの世において、常時、なんらかの問題解決を迫られています。眼前で起こる様々な出来事、将来に予想される出来事、大きな問題から、小さな問題まで、押し寄せてくる問題を次々に解決して先に進んでいかなければなりません。

 

これを解決せずにおくと、トラブルに巻き込まれることはもちろん、自身の精神的な健康を損ない、異常行動や精神症状が現れるようになります。

 

問題解決ができなくなったり、それを放棄した結果が、引きこもりであり、ウツであり、自殺ということになります。

 

人生で求められる問題解決は大きく分けて2つあります。論理的な解決と、感情的な解決です。男性は主に論理的な矛盾を感じて、それを解決したがり、女性は感情的な不満の解決をしたがりますが、どちらも必要です。

 

自身の問題解決のみならず、他人の問題解決も上手に手伝ってあげられるような人間は、どこの世界に行っても重宝され、それなりの成功をおさめることができます。

 

「ミドルメン」という、インターネットでのカード決済仲介業で大儲けした人物を描いた映画で、この手の人間の例を見ることができます。仲裁の上手い若者が、その能力を活かし、殺しにまつわるマフィアとのトラブルや、検事からの起訴を、次々に交渉によって解決し成功していく様が描かれています。

 

論理的問題解決は、おもに一人になって考えるのが有効ですが、感情的な問題解決は他の人間との接触が不可欠です。問題の種類によって、適宜、解決方法を適切に選んでいく必要があるのです。問題解決の為の基準は自分のなかに確固たる理念を持ち、同時に他人の動向や意見により微調整することが必要です。

 

他人の問題解決を手伝う際には、男性か女性かによって、あるいはその時その人が何を求めているのかによって、論理的な解決なのか、感情的な解決なのか、最適な手段を選択しなければなりません。

 

日本は様々な問題の原因が巧妙に隠されており、また帰属集団によってルールが異なるため、解決が難しく、大多数の人にとって生きにくい社会です。多くの人たちは「抑圧」することによって、表面上我慢していますが、当然これは真の解決策ではありません。

 

ひるがえって、社会の上の方に行くと、今度はルールを決定し、いかようにも曲げられる側に立つので、問題解決は非常に容易です。彼らが実に気楽そうに見えるのはそういうことなのです。

ベートーヴェンの異色作、大フーガ(作品133)

ベートーヴェン弦楽四重奏曲、「大フーガ」(作品133)は、ベートーヴェン後期における異色の傑作です。ベートーヴェンはホモフォニー(和声音楽)を極めた作曲家でしたが、後期になるとそれはやり尽くしたとでも言うように、フーガのようなポリフォニー(多声音楽)に傾倒しだしました。

多声楽、特にフーガになると、どうしても和声という点からは外れる音が出てきますが、この「大フーガ」はもはや協和音や不協和音といった概念を超えてしまった、ベートーヴェンにおけるポリフォニーの極みに位置する作品です。

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曲の前半部分は各パートの弾く声部が、激しくぶつかりあい不協和を奏でますが、それまで聴いた事が無いような、暴力的で力強さに満ちた響きに圧倒されます。和声の点からは聞くに堪えない、しかし革新的なフーガで、聞き手を納得させてしまう曲です。

 

曲はマクロで見ると、大きく3つに分けられます。序奏から激しいフーガへと続く前半部分(0:05~5:00)、フーガで使われた主題をもとに多彩な変奏が続く中間部(5:00~11:25)、そして後半部(11:25~15:38)です。

 

前半部分では、楽器の順番や長さを変えながらフーガが何回も繰り返されます。中間部(5:00)は一転、穏やかになり、主題をもとにした甘い旋律を奏でますが、いろいろな形に変奏されていきます。特にトリルを中心とした演奏部分(8:32から10:20)は、スリリングで緊迫感があり、この曲の聴き所です。

 

そして後半部(11:25)に移り、コーダ(終結部)のような展開がありますが(11:25、12:57)、その度にはぐらかされます。その後穏やかな曲調(13:32)になって、またコーダと思わせたあと(13:52)、主題の断片が演奏され(14:18)、最後はこれほどの長い曲にしては、あっさりとしたコーダ(15:18)で曲を終了します。

 

終結部に向けて曲を盛り上げていくというのが、それまでのベートーヴェンであり、一般的にもそれが普通ですが、この曲は違うのです。それが、一聴すると竜頭蛇尾に聴こえる理由です。ただ個人的には、冒頭と同じ旋律が流れるあたり(14:51)で終わりに持っていった方が格好良かったかとは思います。

 

この曲の調は一応、変ロ長調ですが、冒頭の主題となる旋律も異様です。最初のド、ド#ー、シ♭ー、ラー、ドーですが、これでは主音がどこだか分かりません。次のレ、シ、ドで主音に納まりますが、通常の和音を構成しない音で作られた違和感を感じる旋律です。

 

半音が多く使われていますが、スムーズな転調を予想させるような音はわざと使われていません。当時の聞き手の期待を裏切るような異様な旋律だったのです。しかしベートーヴェンにとっては、今までも誰も聞いたことの無い新しい音楽を作ったという自信があったと思います。

 

理屈はともかくとしても、この曲には聞き手を圧倒する異様な雰囲気と力があります。単なるクラシック曲に留まらず、ジミ・ヘンドリックスの楽曲にも通じるようなパワーとカオスが感じられます。現代においても全く古臭さを感じさせない、ベートーヴェンの中でも重要な曲です。

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ベートーヴェン弦楽四重奏電子音楽とも相性がよいのです。こちらの方があるいは、曲の構造が分かりやすいかもしれません)

 

小さい頃からウソをつくことを教えられる日本人

ルース・ベネディクトの「菊と刀」に、こんなエピソードが載っています。日本人は自分の子供が悪さをすると、「あなたはウチの子じゃありません」と言って脅すというのです。今でもこんな事をしているのか分かりませんが、昔は似たような話はよくありました。

 

また、小学校低学年の道徳で、「物を大切にしましょう」というのを伝えるのに、モノを使っている間は、そのモノは「生きている」が、捨ててしまうと、それは「死んでしまう」のだと教えていたことがあります。こういうアニミズム的考えが、「兵士の命よりも三八式歩兵銃が大切だ」等の偶像崇拝につながっていくのです。

 

小学校の頃に、「日本人のなりたち」を書いた子供向けの図鑑に、日本人の顔は左右非対称だが、非対称の方が魅力があるのです、と書かれていたのには子供心にも驚きました。そんなわけがないでしょう(笑)

 

また日本は「四季がはっきりとしていて美しい国です」というのも、よく言われてきた欺瞞、誤誘導です。日本は夏は蒸し暑く、冬は乾いて芯から冷える、気候変動の激しい、酷い環境の国です。ハワイのように適度な湿度で一年中暖かい場所のほうが、若さを保ち長生きできるというのは常識です。しかし日本に限らず、為政者にとっては厳しい環境に留めておいたほうが、人々を働かせやすいのです。

 

他にも日本では、「日本人の腸は長いから」肉は合わないだとか、「日本人は農耕民族だから」協調性を大事にし、決定が遅いのは仕方がないとか、「日本人は勤勉で優秀だ」など、いくらでもこのような嘘の例があります。

 

日本が、このようなウソで満ち満ちているのは、古来より、この最果ての島国から人々が逃げないように繋ぎ止め、奴隷として使役する為の洗脳でした。

 

日本人は子供っぽい非論理的なウソをつかれることに、子供のころから慣らされてしまっており、馬鹿馬鹿しい単純なウソと明らかな真実との見分けがつかなくなっています。考えようとしないのです。

 

また「嘘も方便」とばかり、自らウソをつくことにも抵抗がありません。自分の周り全ての人を表面上満足させようとすると、どうしても何処かでウソをつかざるを得ません。日本ではそれでよしとされるのです。

 

このように日本人は偽りや偽証に対する罪の意識が無さすぎで、キリスト教国から見るとウソばかりつく、信用ならない人々に見えるのです。

ベートーヴェンの隠れた傑作、弦楽五重奏(作品137)

ベートーヴェンが1817年に書いた、「弦楽五重奏のためのフーガ」(Op.137)は、2分少々の小品ながらも味わい深い傑作です。

 

交響曲第8番」(1811年)と「交響曲第9番」(1824年)の間、そして「弦楽四重奏曲第11番(セリオーソ)」(1810年)と「弦楽四重奏曲第12番」(1825年)の間の、長い空白期間のちょうど中間あたりに作曲された曲です。

 

この作品は珍しく、弦楽器による五重奏で演奏されます。(1)第一ヴァイオリン、(2)第二ヴァイオリン、(3)第一ヴィオラ、(4)第二ヴィオラ、(5)チェロという構成です。

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曲は、短いながらもソナタ形式になっています。まずは典型的なフーガから始まります(0:06から)。(1)-(2)-(3)-(4)-(5)と5つの楽器で機械的な第一の主題が演奏されたあと、また第一の主題が繰り返されると思いきや、嘆きのような下降する短い第二の主題が、(1)-(2)-(3)の順で演奏されます(0:38から)。

 

そのあと、(1)-(5)-(4)で第一主題を思わせるような音型に続いて、曲は自然に無理なく展開部に入り(1:11から)、(1)、(2)の高音域パートと、(4)+(5)の低音域パートの間でフーガのかけ合いが行われます。

 

再現部では(1:41から)、第一主題が、最初よりもさらに高い音域で演奏されて、ドラマチックな感じを与えます。これが(1)-(2)-(3)-(4)-(4)+(5)と短い時間で弾き継がれた後、突然、全ての楽器がff(フォルティシモ「非常に強く」)で鳴り、ヴァイオリンが第一主題をもとにした、強い叫びを思わせる旋律を奏でます(1:56から)。

 

そしてすぐに終結部に移り(2:02から)、第一主題と第二主題、そして第一主題の断片が演奏されて、あきらめを感じさせるように静かに曲を終わります。短くても心を動かされるような劇的な構成になっています。

 

自由で複雑な形式、そして陰鬱さを加えていった後期作品群の先駆けとなるような、小品ながら構成感があり、劇的で強い感情も表現されている、後期ベートーヴェンの魅力が凝縮されたような作品です。

ベートーヴェンの英雄に見る心地よい革新性

言わずと知れた交響曲第3番「英雄」は、ベートーヴェンの書いた交響曲のなかでも最高の傑作です。一片の和音から発展させた壮大な第一楽章、軽妙なスケルッツオ、得意の変奏曲による最終楽章、いかにもベートーヴェンらしい魅力に溢れた曲です。

 

特に第一楽章ですが、提示部はE♭の和音の連打から始まり、また和音の執拗な連打で終わるという強烈な違和感(革新性)を感じさせながらも、楽章全体に統一感があり、しかも心地よいのです。

 

変ホ長調のドミソの主和音ですから、気持ちよく響くのは当たり前ですが、そればかりだと当然飽きてしまいます。和音の連打の後に現れる主題も、和音の構成音で出来ていて、全体を通してはっきりとしたメロディーのようなものもありません。しかしベートーヴェンはこれを延々といじくり回していながら、飽きさせないのです。

 

これを聴くとまるで、このまま永遠に、いつまでもこの音楽を続けることが出来るのではないかと思えてきます。そして気持ちよさのあまり、この調子でいつまでも続いて欲しいとさえ思ってしまうのです。何度繰り返し聴いても退屈しません。むしろ聴くたびによく出来ていると感心します。さらに、これほどの曲なのに、書き手の余裕さえも感じられるのです。

 

マクロで見るとソナタ形式ですが、展開部はもちろん、終結部まで主題をいじったものが繰り返し現れ、まるでロンド形式か変奏曲形式のようにも感じられてしまう、しかし飽きさせない。そして心地よい。ベートーヴェンの見事な手腕による傑作です。

www.youtube.com(最初の提示部は 0:31、2回目の提示部が 3:52、展開部は 7:08、再現部が 13:07、終結部は 16:43からです)