kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。内容は逆説的、独断的な、空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。

煽り運転への対処法に見る日本人の愚かさ

煽り運転のあげく、クルマを停止させられたらどうするか、その対処法がSNSや各サイトに載っていますが、本当にこれらが適切な対処方法なのでしょうか。問題点を挙げてみましょう。

 

(1)「クルマを止めさせられそうになったら、安全な左側に寄る」なんてことができるでしょうか? 向こうは無理やり停止させようとしているのです。そんな都合の良い場所に止めさせてくれるわけがありません。

 

(2)ドアをロックし、窓を閉めて、ハザードを炊かなければならないのですが、こういった思いがけない緊急時に、これだけの事が短時間で冷静に出来る人が、どれほど居るでしょうか。件の事故でさえ、夜間なのにハザードを炊く心の余裕すらなかったのです。ドアを開けられたり、窓に腕を突っ込まれたら、もうアウトです。無理やり排除したらあなたが加害者になる危険性さえあります。

 

(3)警察が来るまでクルマの中で待つということですが、警察はすぐに来てくれるのでしょうか。そもそも事件でも事故でもなく、ただクルマが2台、路上に止まったというだけのことです。法律違反の明確な証拠は現場では検証不可能です。警察だって暇ではないのです。少なくとも「相手がクルマを壊しています。」とでも言わなければ、来てくれる可能性は全くないでしょう。(「対処法」を発信しているのが、警察ではなく、クルマ雑誌関係者であったり、元警官の話だったりすることに注意してください。警察は何も公的な見解を述べていません。煽られて止められたぐらいで、警察は対応できないと暗に言っているのです。)

 

(4)警察は来てくれない、通りすがりのクルマからは「邪魔だ!」と言われクラクショを鳴らされたり、意図的に無視される。相手からは、降りて話をするように迫られる。諦める様子はない。どうしますか? いつまでもクルマに閉じこもっていても、らちがあきません。事故の危険性も高まります。結局はあなたが何らかの行動を起こすしかないのです。

 

(5)クルマに籠っているあいだ、相手に対して「謝る」、「絶対に謝らない」、「無視する」など様々なことが言われています。どれが良いかは状況や、その後、どう対処するつもりなのかによって変わってきます。結局は自分で考えて行動するしかないのです。

 

日本人は自分でものを考えるのが苦手なので、こういった情報に安易に飛びついてしまいます。警察に頼れば何とかしてくれるという幻想も抱いています。

 

この件に関して、どうすべきかというのは状況によって変わってきます。いずれにせよ自分で行動を起こして解決するしかありません。場合によっては、相手のクルマに接触してでも逃げた方が良い場合もあるでしょう。もちろんあなたは加害者になりますが、事件、事故になるので、警察が来てくれるかもしれません(笑) 不満かもしれませんが、それが自己責任の社会というものです。

仮想世界で生活する事にはどういうメリットがあるか

ゴーグル型の端末を使い、仮想現実で遊ぶようなことが最近では身近になってきました。それでは我々が、映画「マトリックス」のように、圧倒的なリアル感を持って仮想世界の中で暮らすことは果たして可能でしょうか。そしてそれを作り上げることは、我々にとって、どういうメリットがあるのでしょうか。

 

(1)現実世界と同じほどの精緻な世界を作り上げる必要はない(であれば膨大な計算能力を必要とせず、実現可能性は高まる)

(2)この世界での長期記憶を切り離すことができれば、現実を忘れ、まさに新しい世界で「生まれ変わる」ことができる

(3)この世界において、健康的、経済的、精神的、法的な問題で、暮らすのが難しい人々を送り込むことができる

(4)自発的な者だけでなく、刑罰として対象者を仮想世界に送り込むことも考えられる

(5)仮想世界に送り込まれた人間は、もはやこの世界で政権に反抗したり、犯罪などの面倒を起こすことがない

(6)精神的、身体的、環境的なパラメータを、個人ごとに調整できるのが望ましい(ある人間は成功が約束されたものとして、そしてある人間は刑罰として苦しい人生を体験させる)

(7)アバターは、必ずしも人間のような存在である必要はなく、特別な能力をもった超人であったり、場合によっては、言葉を話すこともできないケモノや虫けらでも良い

(8)この世界での長期記憶を保ち、超人のようなアバターを持てれば、仮想世界において「神々」として振る舞い、人々を支配して楽しむことができる

(9)対象者は、この世界において必要最低限の生命維持装置を使って生かしておけば良く、コスト削減につながり、環境にも優しい

 

こうして挙げていくと、我々がいるこの世界も、上位の生命体によって作られたシミュレーション世界である可能性はあります。そういった世界がいくつもあって、その意味では多元宇宙というのはあり得るかもしれません。

 

死んだ後、もしかすると我々は高次の世界で目が覚めて、そこでの記憶を取り戻すことができるのかもしれません。しかしそこもまた、高次の生命体によって作られた仮想世界なのかもしれません。そして、その上の世界もまた…、と永遠に続くわけです。映画「インセプション」のようですね(笑)

旧約聖書の神を信じる人達の目的

旧約聖書の神を信じる人達にとっての、この世の目的を考えてみましょう。この世界に人がいる目的、それは実に簡潔に聖書のなかに記されています。

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)

 

混沌とした、この地上に秩序をもたらし、全てを征服し支配すること、それが人間が作られた目的なのです。旧約聖書の神は、秩序と正義の為なら、戦争や大量虐殺をも厭わない神です。

 

新約聖書に記されている「愛の神」とは大分イメージが違いますが、彼らにとってキリストは異端です。旧約で語られている長い歴史に比べて、キリストが活躍したのは、ほんの数年にすぎません。またキリストはユダヤ人の主流派からは否定され、結果、その教えは異邦人の宗教となりました。そして迫害を経てローマ帝国の国教となり、その後、世界中に広まっていきました。

 

旧約聖書の神を信奉する彼らからすると、地上を支配するという、人間に課せられた目的を果たしたあと、人間は呪いをとかれ、ようやく次のステージに行けるのです。そのとき、ノアの洪水以降、姿を見せなくなった神々が公に現れ、人間は新しい形態を与えられて、また次の新しいゲームが始まるのです。あるいは、この物理世界が映画「マトリックス」のような仮想世界のようなものだとしたら、人々は、この制約の多い世界を抜け出し、高次の世界でようやく目覚めることができるのかもしれません。

 

彼らにとって、かりそめに過ぎないこの世界での戦争や人命などは小さなものに過ぎません。それよりも、地上を支配するという目的を早く果たさなければならないのです。それを実現した人間はそれだけ多くの報酬を神々から得られます。もし、人間達が神の定めた目的にそむき、別な方向へと動きだした時は、「ノアの洪水」のような、大規模な自然災害による世界のリセットがもたらされるのです。世界中で頻繁に起こっている災害や艱難は、時間切れが近いことを、神々が人々に暗示しているのかもしれません。だから急がねばならないのです。

なぜ日本の大企業は凋落しているのか

このところ、日本の大企業が凋落の度合いを強めていっています。その理由を構成員の思考様式や組織の点から考えてみたいと思います。

 

日本の組織というのは、使い古された言葉ですが「縦社会」であり、表面上は厳格な階層組織となっています。この秩序を乱す者は悪であり、懲罰を受けます。秩序さえ守っていれば、間違っていようが、法律に触れようが問題なかったのです。

 

日本の一般的な社員に求められているのは、効率よく仕事ができることではなく、毎日、決まった時間に来て、上司の命令にすぐに反応できるよう長時間席に座っていることです。そして上の命令には、間違っていても従わなければなりません。

 

仮にあるプロジェクトが発足して、そのプロジェクトマネージャがどれほど頭がおかしくて、間違った命令を連発していたとしても、大人しく黙って従っていれば良いのです。それが賢明な社員というものです。ここで正義感に燃えたり、正論を振りかざして上の権威にたてつく人間は、どんなに仕事が出来ようが、排除され左遷されていきます。プロジェクトが成功するかどうかは重要ではないのです。仮に失敗してもそれはリーダーの責任なので、黙って従った社員は自分を守ることができます。

 

ただし、これは原則であって、失敗の責任を現場の担当者になすりつけて、詰め腹を切らせることがあります。また企業規模が小さくなるにつれて、こんなことは言ってられなくなります。失敗を見過ごしていたら、納品ができず、会社自体が倒産するかもしれないからです。ですから末端の下請け業者は真面目に、自分で考えて働きます。

 

日本では素人がアサインされて経営をやっていたり、責任あるリーダーの地位についていたりします。日本は「上に行けば行くほど、バカが出てくる」といいますが、それは当たり前なのです。専門的な教育を受けず、現場や末端で実際にどう動いているかをまったく把握していないような人間がその椅子に座っているからです。

 

戦後の経済成長では、アメリカの庇護のもと、大企業の「信用力」による無限とも言えるような資金調達力と、利潤を考慮しなくて良い市場拡大を第一と考える経営、安い労働力とアメリカの広大な市場に頼った、ほぼダンピングとも言える大量生産品の輸出攻勢によって、束の間の繁栄を得ることができました。大企業にまともな能力がなくても、末端の企業や作業員が安い賃金で必死で働いてきたおかげで、日本はかろうじて、まともな製品を作ることができました。もっとも、それはほとんどが高級品ではなく、大衆向けの安物コピーではありましたが。

 

しかしそういった時代は終わりました。企業は、銀行への返済の為、株主の利益の為に利潤を第一に考えなければなりません。当たり前です。日本の労働者の単価は安いとは言えなくなりました。人口減少で頭数も足りません。下請け企業は法的にも、経済的にも、社会的にも不安定な位置におかれ、まともなものを作る余裕はなくなりましたし、日本市場の縮小、オフショアや海外調達、海外進出で、仕事自体も減っています。大企業はコスト削減で生き延びても、スピーディで的確な企画力、経営統合力を欠いていますので海外勢に太刀打ちできません。

 

このように、個々人はもともと優秀でもなく、非効率な組織であった日本企業が、そのアドバンテージを失って凋落しているのは、当たり前なのです。