kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。

日本文化などこれっぽっちも大切に考えていない国

日本文化とよく言いますが、果たして日本文化とは何でしょうか。日本というのはその時の流行を節操なく取り入れてきた国です。常に何かの物まね、猿真似です。何かが流行れば、それまでの流行はすたれ、破壊され、新しいものが席巻して古いものは省みられません。

 

連綿と過去から受け継がれてこそ、その国の民族の文化と言えるのですが、この国は、文化などまったく大切に扱ってないように感じます。

西洋におけるギリシャ、ローマ文明への憧憬、そして受け継がれてきた学問、芸術に対する敬意、教育に対応するようなものがあるでしょうか。

 

海外のイベントでよくあるように太鼓をドンドコ鳴らしたり、琴をポロポロ鳴らしてお茶を飲んだりするのが日本文化なのでしょうか。あんなものを披露する時点で、日本文化と胸を張れるものが無いこと、そして文化への軽視と、こんなもので外人は喜ぶだろうという浅はかな考えが垣間見えます。

 

あるいは世界中で人気(笑)の日本のアニメやゲームなどでしょうか。ほとんどは低予算で作られた酷い代物で芸術性は無いと思います。ただし、サブカルであればあるほど、他の日本由来のものにはない独創性が見られます。しかしメジャーになろうとすると低賃金で酷使され結果的に低い完成度になってしまうのです。

 

日本のような法律を駆使して権力を行使する実務家たちが支配し民が抑圧されている国では、創造性は途絶え、模倣性が主たるものになります。共同体の維持に効果的な方法のみが節操なく外部から取り入れられるからです。そうった国では宗教的、迷信的なまやかしと軍隊的な性質が常に見られるようになります。

 

奴隷達が優秀で慈悲深いと信じ込んでいる役人の号令やスローガンに合わせて、彼らは一斉に右を向いたり左を向いたりしているのです。案外、役人が作った素晴らしく効果的な法律や作文が現代を代表する日本文化なのかもしれませんね(笑)。

ロケット打ち上げを無邪気に喜んでしまう日本人

小型ロケットの打ち上げに成功したと大喜びの日本ですが、最近では日本が国家的事業として何とか国民に喧伝できるもののひとつが、宇宙ロケットの打ち上げです。

 

ロケットの打ち上げなんて、今や最先端のハイテクでも何でもなく、パキスタンだって、ウクライナだって、北朝鮮だって打ち上げられます。

 

新興国の衛星打ち上げに提供するとのことですが、莫大なコストをかけて、新興国がお客様の「小型ロケット運送業」をやる先進国があるのでしょうか。本音としてミサイル打ち上げシステム受注につなげたいのは分かるのですが…。

 

当然ながらロケットは、中距離弾道ミサイルや大陸間弾道弾ミサイルの開発技術を磨くのが主目的で、おまけで衛星の打ち上げや、宇宙開発事業などがあるわけです。兵器開発がコスト度外視なのは結構ですがミサイルが雌雄を決する時代だとは思えません。下手すると持っていることが原因で叩き潰されたりします。

 

夢が大切という考えもありますが、どっかの小惑星からゴミクズを拾ってきて、それで宇宙の謎が解けるとか、宇宙のロマンだとか、そんなお遊びに膨大な国富をかけてどうするのかという話です。カネがあるならいざ知らず、日本はもはや貧乏国なのです。地上で飢えている人がいるのに星空ばかり見上げている場合ではありません。

大学の研究費が削られるなか、宇宙事業に膨大な予算をつぎ込む目的はあきらかです。

 

国威高揚のために小型ロケット打ち上げを朝のニュースで中継し、花火でも見たように喜ぶとか、この国はもはや北朝鮮とあまり変わりません。どうせならICBMの打ち上げにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。そうすれば北朝鮮やインドとも肩を並べられて、国民も歓喜するでしょう。いつの日か核ミサイル様が日本を救ってくれると信じて。

人気YouTuberは何を嗤ったのか

YouTubeが処分を発表した例のユーチューバーですが、彼はなぜ日本を嗤(わら)ったのでしょうか。もちろん彼のやっていることに対して怒り非難し行動を起こすのはいいのですが、嘲笑するにはそれなりの理由があったはずです。動画が削除されても、そう感じた人々がいたという事実は無くなりません。理由を考えることによって逆に我々が学べることもあるでしょう。

 

事の発端は、青木ヶ原樹海で自殺体を見つけて笑って冗談を言っている動画でした。これを冷静に振り返ってみましょう。世界でもっとも有名な自殺の場所として知られる「青木ヶ原樹海」というのがあって、そこに行ってみたところ、案の定、首吊り死体が見つかったといものです。

 

自殺で有名な国に、世界的な自殺の名所があって、そこに行くと首吊り死体がぶらさがっている。これがどんなに異常なことか考えてみてください。日本人なら樹海を知っているのは当たり前ですが、世界的にも1、2位を争う程有名な自殺の名所だということを知らない人は多いかもしれません。

 

さらに世界の自殺の名所は、大抵、滝や断崖絶壁、巨大な橋で、素人が簡単に投身した遺体を見つけられるものではありませんが、樹海は中に入って根気よく探せば、死体がぶらさがっていたり、転がっていたりします。いくら自殺が多いとはいえ、遺体がそのままになっているというのも異常ではないでしょうか。

 

自殺が多いということが分かっているのに、行政は何の対策もせず、惨めな死体がブラブラ吊るされたまま、回収されるということもない。ボランティアが積極的に何かしたり弔うこともない。遺族が探しに来るということもない、このような人間の尊厳に対する軽視や無関心が具現化されている場所が「樹海」なのです。

もとより人権軽視の国なので勝手に死んだ者などどうでも良いということでしょうか。電車が雪の中長時間止まっていても、何の対策も考えられなければ、中で苦しんでいる人達に対しても何も感じない、それと共通するような日本人の動きの悪さと冷たさを感じます。

 

要するに、(1)樹海が観光名所となっている、(2)日本人はすぐに死にたがる、あるいはそういった異常な環境に住んでいる、(3)自殺体がごろごろしていて、日本人はそれを気にもしていない、それが真実がどうかはともかくとして、そういった人間を軽視するおかしな日本人というイメージを嘲笑っていたのです。観光立国を目指す日本ですが、皮肉にも「樹海」が日本らしい観光名所のひとつとなっていたわけです。

日本はアフリカの最貧国のようになる

ブラッド・ダイヤモンド」という映画があります。アフリカのシエラレオネ共和国でダイヤモンド資源を巡って起きた内戦をテーマにしたものです。子供達は満足な教育も受けられず、それどころか少年達も自動小銃を持って殺戮を繰り広げます。

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日本は貧困化の一途を辿っています。人口も減っていますが、為政者にとっては国民からチューチュー利益を吸い上げる仕組みが、これから先も欲しいところです。

 

日本は既に内需が期待できず、下請け、末端労働者の質の低下や減少のため、技術力を生かしたモノづくりと輸出も期待できません。もちろん日本には輸出するような資源もありません。

 

ひとつの案として、日本を世界のプルトニウム製造、核燃料再処理工場にするというのがあります。原発インフラを利用して各国からの仕事を請け負うのです。さらに世界中で発生した核のゴミの廃棄施設を作りその管理を行うのもよいでしょう。

 

この先、地方自治や地方警察は崩壊していきますので、原発周辺には民間軍事会社から雇った傭兵を配置し、施設を守ることが必要です。また人々を徴用し、銃で脅しながら原発作業に駆り立てることもしなければなりません。

 

地方の治安は相当悪くなりますが、単純労働に従事する人間はいくら死んでも代わりがいますし、またカネ目当てで世界中から傭兵も集まってきますから、原発運用に困ることはありません。時々は土人(日本人)が面白半分に銃で撃たれたりしてしまうかもしれまんせが、日本人は駐留軍の下で人権侵害には寛容ですから大丈夫でしょう。

 

東京は選民が住む、一種の要塞都市になります。約4万人の「兵隊」から成る警視庁と朝霞や習志野自衛隊が守りますが、万が一、反政府軍に襲われるようなことがあっても、要人はヘリや飛行機、空母でいつでも脱出が可能です。富裕層や二流の役人もカネやコネ次第では助かるでしょう。

 

地方の物流はとまり、食糧は不足し、生活必需品にも事欠く毎日です。主な仕事は原発作業員か軍人、傭兵、警備員しかありません。安穏としている老人はすぐに死んでしまうでしょう。シエラレオネ共和国は世界でもっとも平均寿命が短い国ですが、そのうち日本もその座を巡って競うことになるかもしれません。人道支援を求めるユニセフの広告にも惨めな日本の子供が載る日が来るかもしれませんね(笑)。

www.youtube.com

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70億の人間の意識も、ひとつの意識が見ている夢に過ぎない

地球上で次々と新しい生命が生まれては、はかなく消えていくという事が繰り返されています。この命の軽さ、無駄とも言える命の払い出しには何か理由があるのでしょうか。人間の命には何らかの価値があると信じる人ならば一度は考える問題です。

 

ひとつの考え方ですが、無数の生命、魂、意識があるように見えても、実際にはひとつの意識が見ている夢のようなものに過ぎないのかもしれません。例えば、漫画家や小説家は物語を創作するにあたって様々な登場人物を作り上げます。Aというキャラクターに没頭したかと思えば、次にBというキャラクターに移っていきます。時に書き手は、まるで登場人物が勝手に生きて動いているように感じることがあります。この場合、書き手は常に自分が書き手であり、創作世界の作り手、いわば神であることを意識していますが、こういった作り手としての意識が無い場合も考えることができます。

 

天文学者であるフレッド・ホイルが書いたSF小説に「10月1日では遅すぎる」というものがあります。ここで意識と時間について、ひとつの見方が披露されています。Aという人物のファイル、Bという人物のファイルが予め用意されていて、意識というのはそれぞれのファイルにスポットライトが当たったときに自覚されるものでしかないというのです。

A、B、C・・・、A、B、C・・・とマルチタスクにおけるタイムスライスのように次々と意識が切り替わっていき、A、B、Cそれぞれは、割り当てられている間、自分の意識がずっと継続しており独立しているものだという確固たる自信を持っていますが、それはひとつの意識(CPU)が見ている幻想に過ぎないのです。

 

またAという人物において、若年期のある頃、壮年期のある頃、老年期のある頃、そしてさらに平行したまた別の世界、といったファイルが用意されていますが、必ずしもそれらのファイルを順に見ているわけでもないのです。まったくランダムに、老年期を過ごしたかと思えば、次は若年期の世界を見ているのかもしれないのです。あるいは、老年期だけ数万回も繰り返し見ているかもしれません。それでも当人はそのたびごとに、その世界において新鮮な経験をしているのです。

ここでは過去から未来に一方向に流れる時間というもの自体が否定されています。処理が割り当てられている瞬間、そのファイルの世界においては過去があり、未来の展望があり、時間が一方向に進んでいるようにしか見えないのですが、それは予めそこに書かれていた物語にしか過ぎないのです。意識の範囲は、常にそのファイル内に限られているからです。

 

時に死の局面のファイルを開いてしまうかもしれませんが、次にはまた壮年期のファイルを開いて、人生を楽しんでいるかもしれません。つまり、世界がこういった仕組みであるならば、死さえも重要な問題ではなくなってしまいます。このシステムでは世界を見守る統括者、絶対的存在というものがありません。

 

もしかすると遠い昔に、上位の生命体が生きるのに飽いて、様々な夢を永遠に見続けていたいと考え、このシステムを作り上げたあと長い眠りについたのかもしれません。それであれば、この世界が滅茶苦茶で何でもありなのも、まったく救いがないというのも、有り得ることです。

確かに夢というのは、目的があり、筋が通って、一方向に進んでいるよりは、混乱し滅茶苦茶であったほうが面白いものですから(笑)。