kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。内容は逆説的、独断的な、空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。

成果が不確実で目的が曖昧な巨大プロジェクトが、国をひとつにまとめる

内閣府のプロジェクトでNTTが開発した「光計算機」、「量子ニューラルネットワーク」が、「世界初の常温量子コンピュータ」とプレスリリースされましたが、その命名に異論が出ていると報道されています。厚木通研のサイトでも担当研究員が、量子コンピュータの計算原理とは異なると書いているわけで、上が量子コンピュータと発表したのは意図的な誘導と言えます(しかもそれは国内向けだけで海外では量子コンピュータと発表はしていません。それなのに「日本は新しいものが受け入れられにくい(からこんな異論がでる)」というコメントが微笑ましいです)。

 

さて、本当に実現できるかどうかも分からない巨大なプロジェクトというのは国にとって便利なものです。「万里の長城」しかり、「廃炉」しかり、「超伝導リニア」しかり、「量子コンピュータ」しかりです。巨額の資金をつぎ込む理由ができて関係者はうるおいます。多くの人々に目標を与えて働かせることができますし、報道を見る人々も国との一体感を持つことができます。

 

明治維新後の日本では天皇の下で一体となって「富国強兵」のスローガンを実現するために人々が働かされ、日本を短期間で近代化するのに成功しましたが、「八紘一宇」は失敗しました。

 

戦後、日本は「加工貿易の国」であると国民は刷り込まれ、日本は安物の大量生産品の輸出に邁進し、さらに密集したウサギ小屋に住み満員電車での通勤や軍隊のような生活を繰り返しながらも「一億総中流」、「日本は特別だ」と教え込まれて満足していました。世界第2位の経済大国と自称するまでになりましたが、あえなく叩き潰されました。

 

抑圧的な政権の下にある奴隷というのは「共同生活」と見せかけの「平等」によって、国が与える厳しい訓練と強制に耐えることができます。苦しいが皆等しく頑張っていると、周りの姿を見て不満を抑えるのです。これによって国民の統一と自己犠牲的な精神が持続するのです。

 

科学は途方もない夢を与えて、それが科学者によってもう少しで実現できるという幻想を与えられる点においては、宗教と良く似ており、狂信的な全体主義国家に必要な宗教的、神秘的、オカルト的要素のひとつとなります。戦後の神道を欠いた日本において科学というのは、国家プロジェクトのスローガンのネタ元として都合が良かったのです。権力と秩序と服従の維持を目的とする実務家によって高度に中央集権化された全体主義国家において創造性は枯渇するので、亜流しか生み出せませんが、国体維持の手段に過ぎないのでそれで良いのです。

 

ただ現在では二極化によって、国民が信じてきた「平等」という神話が崩れてきました。情報の拡散もあいまって国民の間に不満が渦巻き、スローガンの胡散臭さや、それにまつわる権力者の不正に敏感になっているのです。

そのために国と人々は、より強力な国家的目標、外敵を今まで以上に必要としています。権威に従順で自由の精神が根付いていない人々は、より独裁的な指導者、極右的思想、全体主義によって再び統一されることを願うものなのです。

スパコン詐欺容疑事件に見る信者獲得の方法

日本人は科学に騙されやすい人達です。アインシュタインを神のようにあがめたり、カミオカンデを神殿のように見たり、国産ロケットごときで大騒ぎしたり、CERN加速器を必要以上に畏れたり、科学をまるで宗教のように捉えている人が多いように思われます。

 

だからなのでしょうか、単に特許利権の争いに過ぎなかったSTAP細胞を巡る騒動で陰謀と騒ぎ出したり、スパコン詐欺疑惑でも愛国的技術者が潰されてしまうと騒ぐ人達が現れています。

 

確かに科学の世界にも宗教的な要素を見つけることができます。助成金を獲得したやり方が本当に詐欺と言えるのか、出来がったスパコンがいかほどのものか、彼の持つビジョンが妥当なものか、政治との絡みはどうなのか、ということは別にして考えてみたいと思います。

 

コネや学歴の足りない者が、多くの人々を心酔させてカネを集めるには、単にプレゼンテーションが巧みだとか、口達者で詐欺師的な素養があったりするだけでは不十分で、カリスマ性を身にまとった宗教的な要素が必要です。

 

ここで宗教的要素といっているのは、現実とはかけ離れた夢のような未来を語り、それがあたかも、あと一歩で手に入るという幻想を人々に与える技術を持っていることです。裏付けとして、分かりやすい教義の存在も必要です。

 

「シンギュラリティ」というレイ・カーツワイルから借りた教義を使って「フリーエネルギー」、「不老不死」、「人工光合成」、「瑞穂の国を世界中に伝播」など夢のような話を熱意をもって語り、それが数十年もしないうちに訪れる、そしてそれはひたすら高速のスパコン開発によって到達できるという単純さと分かりやすさ、こういった「教え」を本にして出版したり、メディアに取り上げてもらうことで大衆の耳目を集め、熱心な信者を獲得できるのです。

 

そしてさらに脅威を及ぼす「敵」の存在が必要です。早くしないと中国に追い抜かれる、「2番では絶対ダメ」という脅威論が信者たちの熱意をいっそう高めるのです。科学者である前にカリスマであることが、ここまでのし上がった理由のひとつかもしれません。

 

しかし内閣府の審議会で上のようなことを力説してしまったのは拙かったと思います。役人は「こいつは本当に馬鹿なのかも」と思ったかもしれません。一般大衆向けの対談会ではないのですから、役人のシナリオ通りに無難な事を言っておくべきでした。悪事を共有できる仲間と思われるか、さもなければ、役人の手のひらの上で大人しく踊っているべきだったのです。

この国は天才など一切必要としていません。役人から見たら馬鹿と同じです。ごく少数の「優秀な」詐欺師と愚鈍な大衆がいれば良いのです。

社会的劣等者こそが未来を作る礎となる

現在、ネトウヨやその支持者は社会的劣等者が比較的多いようですが、そんな彼らにも希望と未来があります。というのも近未来の土台を作るものは、社会的劣等者に他ならないからです。

 

社会が変化する直前には、しばしば、中産階級の没落、あるいは新興階級の登場があります。こういった不満を持つ者、あるいは野望を持つ者達が社会を変えていくのです。

 

特に社会的劣等者は外国への脅威を感じて激しい憎悪に燃えています。強い日本を再び取り戻したいと願っています。この憎悪がエネルギーとなって大きな事を成し遂げるのです。

 

社会的劣等者は経済的にも社会的にも不安定な状態に置かれています。だからこそ保守的になり、安定を求めネトウヨとなります。しかし彼らの期待する強い日本がいつまでたっても実現しなかったとしたら?

 

日本は外国に対して毅然とした態度で外交を繰り広げているのでしょうか。強い日本経済を作り上げたでしょうか。万世一系天皇を敬っているでしょうか。臣下は誠実に職務を実行し腐敗から遠ざかっていますか? 真に独立した強い軍隊を整備したでしょうか。自分を含め周りの人達は豊かになったでしょうか。あるいは成し遂げたと言った事柄は、見かけだけ、口先だけで実態はその逆なのでしょうか?

 

国民は、強く毅然とした本物の実行力を備えた存在を必要としています。国を愛する者達は、いつも心から信じることのできる、カリスマ性と人徳と実力を備えた人を待ち望んでいるのです。

 

日本は脅威にされされており、愛国心を持つ同志がいます。日本を再興するのに必要なエネルギーは国民の中に満ち溢れているのです。輝かしい未来はすぐそこにあるのです。望めば手に入ります。導く者は、いつも社会の底辺から現れるのです。

日本人は、集団に埋没しているから残酷で無慈悲になれる

ほとんどの人は無意識のうちに、自由よりも束縛を求めるものです。集団に帰属し、その規律に従う存在であれば、自分で何かを決断せずにすみますし、結果に対する責任もとらなくて良いのです。

 

日本人は集団への帰属意識が強い民族ですが、そのために次のような弊害が出てきます。すなわち、集団の凝集性を高めるにあたって、集団の成員は、常に敵の存在を必要とするのです。

 

敵は一般的に、外国人があてがわれます。敵は自分達より劣った存在であるよりは、自分達を脅かす優れた点を持つ存在である方がはるかに憎みやすくなります。

集団に埋没し無私の存在となることによって、人は責任や罪の意識から逃れることができ、傲慢になり、安心して敵を攻撃してもよいという免罪符を得るのです。満たされざる社会的劣等者は外国人を激しく憎み、裕福な人達は自分よりも成功している同族を憎んで、その足を引っ張ります。匿名掲示板などを見れば、こういった様相を観察できます。

 

人はなぜ、他人を憎み、集団に属することによって、その傾向をさらに強めるのか。それは、憎悪というものが最も強い感情であり、人を強い行動に駆り立てるからです。残念ながら、愛が最後に勝つのではなく、憎悪が最終的に人を激しく動かすのです。憎悪によって人は仲間を求め、一体感を得て、そこに目的と意味を見つけ、未来の希望に向かって走り出すのです。この希望のためなら死をもいとわぬことがあるのです。

 

落ちぶれた士族、安定した生活を奪われた農民、現代では没落した中産階級、貧しい若者、こういった満たされざる欲求不満者のエネルギーを一定方向に上手くコントロールすることによって、国は大きなことを成し遂げることができるのです。

 

敵を求めるものは自ら、その相手に対して不当な仕打ちをして憎まれるようにします。そうすることによって「敵は我々を憎んでいる、だから我々が彼らを迫害するのは正しいことだ」とするのです。 

しかし外国からそれを眺めた場合、彼らは非常に狂信的で不気味な存在として映り、その行動は残酷で異常であり、脅威を与えるものとなるのです。

一人になれるのは神には無い人間の特権

人間は一人きりになりたいと思えば、たいていの人は、そうすることができます。部屋にこもったり、あるいは、どこか辺鄙なところに出かけて孤独を楽しむことができます。人間はこれを当たり前と考えますが、人間より上位に位置する高次の存在は、そのような事はできないのです。全知全能だからです。仲間同士、常にお互いの存在を知り得るし、何を行っているのかも筒抜けの状態なのです。仲間から身を隠したり、隠れて何かをするということはできません。

 

ところが物理世界に住む人間は、一人になることが可能な存在として設計されました。2人の人がいて、お互いの空間的距離が離れれば離れるほど、互いの姿や声は小さくなっていき、ついには存在を把握できなくなります。物影に隠れたり、壁を作れば、自分の姿を隠したり、声を遮断したりすることができます。

 

このようになっているからこそ、人間は安心してトイレで排泄をしたり、時に共同体から離れ旅に出て、気分を一新したりすることができるのです。全て理由があるのです(しかし近代の通信技術やセンサーの発達によって、人はそのプライバシーを保てなくなりつつあります。人は全知全能を求めて、自ら与えられた特権を放棄しているのです)。

 

人は孤独を求めると同時に、他人を求める存在でもあります。この2つの極の間でちょうどよい中庸の場所を探す、それが人に求められている課題なのです。光と影があり、善と悪がある。清潔と穢れがあり、愛と憎悪がある。成長と崩壊があり、規則どおりに動くものもあれば全く予測がつかないものがある。すべて意図的に作られたのです。

 

神々は完璧な世界、完璧な自分達に嫌気がさしたのかもしれません。高次の存在は、光や善だけで生きられますが、人間は光や善だけでは生きていくことができないように作られました。人は初めから矛盾する2つの極の間で悩み、さまようように、そして自分が下した決断によって裁かれるように運命を定められているのです。いや、あるいは、もてあそばれているのかもしれません(笑)