kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

社会的劣等者こそが未来を作る礎となる

現在、ネトウヨやその支持者は社会的劣等者が比較的多いようですが、そんな彼らにも希望と未来があります。というのも近未来の土台を作るものは、社会的劣等者に他ならないからです。

 

社会が変化する直前には、しばしば、中産階級の没落、あるいは新興階級の登場があります。こういった不満を持つ者、あるいは野望を持つ者達が社会を変えていくのです。

 

特に社会的劣等者は外国への脅威を感じて激しい憎悪に燃えています。強い日本を再び取り戻したいと願っています。この憎悪がエネルギーとなって大きな事を成し遂げるのです。

 

社会的劣等者は経済的にも社会的にも不安定な状態に置かれています。だからこそ保守的になり、安定を求めネトウヨとなります。しかし彼らの期待する強い日本がいつまでたっても実現しなかったとしたら?

 

日本は外国に対して毅然とした態度で外交を繰り広げているのでしょうか。強い日本経済を作り上げたでしょうか。万世一系天皇を敬っているでしょうか。臣下は誠実に職務を実行し腐敗から遠ざかっていますか? 真に独立した強い軍隊を整備したでしょうか。自分を含め周りの人達は豊かになったでしょうか。あるいは成し遂げたと言った事柄は、見かけだけ、口先だけで実態はその逆なのでしょうか?

 

国民は、強く毅然とした本物の実行力を備えた存在を必要としています。国を愛する者達は、いつも心から信じることのできる、カリスマ性と人徳と実力を備えた人を待ち望んでいるのです。

 

日本は脅威にされされており、愛国心を持つ同志がいます。日本を再興するのに必要なエネルギーは国民の中に満ち溢れているのです。輝かしい未来はすぐそこにあるのです。望めば手に入ります。導く者は、いつも社会の底辺から現れるのです。

日本人は、集団に埋没しているから残酷で無慈悲になれる

ほとんどの人は無意識のうちに、自由よりも束縛を求めるものです。集団に帰属し、その規律に従う存在であれば、自分で何かを決断せずにすみますし、結果に対する責任もとらなくて良いのです。

 

日本人は集団への帰属意識が強い民族ですが、そのために次のような弊害が出てきます。すなわち、集団の凝集性を高めるにあたって、集団の成員は、常に敵の存在を必要とするのです。

 

敵は一般的に、外国人があてがわれます。敵は自分達より劣った存在であるよりは、自分達を脅かす優れた点を持つ存在である方がはるかに憎みやすくなります。

集団に埋没し無私の存在となることによって、人は責任や罪の意識から逃れることができ、傲慢になり、安心して敵を攻撃してもよいという免罪符を得るのです。満たされざる社会的劣等者は外国人を激しく憎み、裕福な人達は自分よりも成功している同族を憎んで、その足を引っ張ります。匿名掲示板などを見れば、こういった様相を観察できます。

 

人はなぜ、他人を憎み、集団に属することによって、その傾向をさらに強めるのか。それは、憎悪というものが最も強い感情であり、人を強い行動に駆り立てるからです。残念ながら、愛が最後に勝つのではなく、憎悪が最終的に人を激しく動かすのです。憎悪によって人は仲間を求め、一体感を得て、そこに目的と意味を見つけ、未来の希望に向かって走り出すのです。この希望のためなら死をもいとわぬことがあるのです。

 

落ちぶれた士族、安定した生活を奪われた農民、現代では没落した中産階級、貧しい若者、こういった満たされざる欲求不満者のエネルギーを一定方向に上手くコントロールすることによって、国は大きなことを成し遂げることができるのです。

 

敵を求めるものは自ら、その相手に対して不当な仕打ちをして憎まれるようにします。そうすることによって「敵は我々を憎んでいる、だから我々が彼らを迫害するのは正しいことだ」とするのです。 

しかし外国からそれを眺めた場合、彼らは非常に狂信的で不気味な存在として映り、その行動は残酷で異常であり、脅威を与えるものとなるのです。

一人になれるのは神には無い人間の特権

人間は一人きりになりたいと思えば、たいていの人は、そうすることができます。部屋にこもったり、あるいは、どこか辺鄙なところに出かけて孤独を楽しむことができます。人間はこれを当たり前と考えますが、人間より上位に位置する高次の存在は、そのような事はできないのです。全知全能だからです。仲間同士、常にお互いの存在を知り得るし、何を行っているのかも筒抜けの状態なのです。仲間から身を隠したり、隠れて何かをするということはできません。

 

ところが物理世界に住む人間は、一人になることが可能な存在として設計されました。2人の人がいて、お互いの空間的距離が離れれば離れるほど、互いの姿や声は小さくなっていき、ついには存在を把握できなくなります。物影に隠れたり、壁を作れば、自分の姿を隠したり、声を遮断したりすることができます。

 

このようになっているからこそ、人間は安心してトイレで排泄をしたり、時に共同体から離れ旅に出て、気分を一新したりすることができるのです。全て理由があるのです(しかし近代の通信技術やセンサーの発達によって、人はそのプライバシーを保てなくなりつつあります。人は全知全能を求めて、自ら与えられた特権を放棄しているのです)。

 

人は孤独を求めると同時に、他人を求める存在でもあります。この2つの極の間でちょうどよい中庸の場所を探す、それが人に求められている課題なのです。光と影があり、善と悪がある。清潔と穢れがあり、愛と憎悪がある。成長と崩壊があり、規則どおりに動くものもあれば全く予測がつかないものがある。すべて意図的に作られたのです。

 

神々は完璧な世界、完璧な自分達に嫌気がさしたのかもしれません。高次の存在は、光や善だけで生きられますが、人間は光や善だけでは生きていくことができないように作られました。人は初めから矛盾する2つの極の間で悩み、さまようように、そして自分が下した決断によって裁かれるように運命を定められているのです。いや、あるいは、もてあそばれているのかもしれません(笑)

彼らが望んでいるのは人口削減ではない

この世界を司っている人達は人口削減を望んでいるわけではありません。聖書は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と命じているからです。ですから地球が人を養えるギリギリの線まで人を増やすことはあっても、その逆は考えにくいのです。わざわざ意図的に世界大戦を起こす気もないのです。もちろん「地を従わせよ」という命令を果たすことに失敗した場合には、再び、ノアの洪水のときのように世界がリセットされる可能性がありますが、それは「この世の神」の仕事です(ちなみに「この世の神」と「サタン」は同一の存在です。「この世の神」と旧約聖書の神がしばしば同じではないのかというのは、ひとつの解釈です)。

 

では戦争や人口削減がまったく無いかというと、そういう訳ではありません。ユダヤ人の敵であり続けた、イシュマエルの子孫であるアラブ人は、断絶すべき相手です。また日本が人口削減の対象となっている事も疑いの余地はありません。

 

ですから常に中東や極東で戦争の火種がくすぶっているのは偶然ではありません。局地的に戦争が起こって、ある民族がほぼ絶滅するというのは在り得る話です。極東危機におけるターゲットは、中国でも北朝鮮でも韓国でもなく、日本です。

 

中東、極東以外では、ロシアがイスラエルやアメリカと敵対していますが、彼らとの戦争はあまりにもリスクが高すぎます。それこそ世界大戦になってしまいます。広大なロシアの領土を占領することも並大抵ではありません。それよりもプーチンを暗殺するか、その失脚を待った方がはるかに現実的です。だから局地的な小競り合いはあっても、全面戦争は無いでしょう。

 

さて、アラブ人がユダヤの敵であるのは分かりますが、日本人を絶滅させる理由は何でしょう。日ユ同祖論者は、日本人こそが正当なユダヤ人だからと言います。その可能性もあるかもしれません。しかし最大の理由は日本人が過去にアメリカ、すなわちユダヤに弓を引いたという事実でしょう。しかも相当に手こずらせた。その時に絶滅できれば良かったのですが、世界はそのようなジェノサイドを許さない社会となっていました。ですから周到に長期間にわたり計画を進めてきて、今ようやく成果が実りつつあるということなのです。大衆洗脳に長け集団で狂信的なことを行う日本は世界の脅威なのです。その日本もこれから、戦争、貧困、飢餓、病、そして放って置いても自然減によって、国の体を成さなくなっていくのです。

表面上謝ればいいと思っている、誠実さに欠ける日本人

つくばエクスプレス」の列車が20秒早く出発したことを謝罪したことがニュースになりました。これは日本人の2つの側面を表しています。

 

ひとつは、他人の細かいところをいちいち指摘し糾弾するという傾向が日本人にはあること、もうひとつは、それに応じて、大げさに深々と頭を下げて謝るという習慣があることです。

 

日本人というのは未熟であり真の意味で独立していない人達で、そういった自己を肯定できない不安定な者は過度に他人を気にします。他人を気にするという心の傾向は、必要以上に他人につきまとい依存するか、あるいは、どうでも良いことで他人を攻撃するという行動となって、表面化します。

 

細かいことで文句をつけてくる、頭のおかしい日本人をなだめる為に、礼儀正しく表面上だけ謝るという文化が発展しました。しかし日本人は表面上は礼儀正しくても、まったく誠意を欠いている無礼な人達です。

 

そして、より重大で社会的影響の大きな問題や事件であればあるほど、日本人は誰も責任をとろうとせず、謝ろうともしません。またそれが社会全体で許されてしまうという、特殊な社会でもあるのです。権力者の都合のよいように責任の所在が曖昧にされてしまうというのは、何処でも起こり得ることですが、日本では、さらにその権力者を擁護する多くの社会的劣等者が存在するのです。これが日本人が馬鹿だと言われるゆえんでもあります。

 

心から反省しておらず、責任者が本気で改善しようという心構えがないため(改善策は下に丸投げ)、何が本質的に問題でどう対処すべきなのかが分からないまま、結局、日本人というのはいつまで経っても同じ間違いを繰り返し続ける、組織として学習能力のない集団なのです。

 

つくばエクスプレス」のニュースを報ずるニューヨーク・タイムズも、回復運転が困難なダイヤで大事故を起こした福知山線脱線事故から、何も学んでいない日本人を皮肉る文章で記事を締めくくっています。