kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

クルマを運転する事は高コストでハイリスクな行為となる

クルマを運転するというのは当たり前ですが、今でもかなりの危険を伴う行為です。しかしこれから状況はさらに悪くなっていきます。理由を挙げてみます。

(1)クルマが非常に複雑なシステムと化しており、長く乗れるものでは無くなっている。中古で乗るというのはかなり危険であると同時に維持費がかさむものとなる。クルマは新車で買って数年で手放すものである。

(2)一部の保険会社を除いて、あれこれ理由をつけて保険金の支払いを渋るケースが多くなっている。

(3)さまざまなハイテク事故防止システムがオプションで搭載されるようになる。これが無い場合、保険でペナルティを課せられる場合がある。

(4)自動運転技術が普及する。手動で運転して事故を起こした場合、保険によって厳しいペナルティが課せられる。

(5)貧乏人が増え、無保険で乗っている人間が増えている。

(6)日本人の品性が下がり、事故当事者がごねて交渉が長引くようになった。

(7)警察がハイテクを駆使し、現場に厳しいノルマを課して、違反者検挙に血眼になっている。

(8)過失運転でも大きく報道され、厳しく罰せられるようになった(クルマというのは必要悪という認識であり、過失致死であれば罰金で済んだり、重過失や累犯であっても数年で出てくるものだった。ただし民事は別)

慎重な人間は自分では運転せず、他人に運転させるものです。それでも自分で運転しようとするのは、これからは趣味の世界であり、それなりの覚悟とカネのある人がやる行為となっていきます。生活の為にやむなくクルマを運転しなければならないというのは、ハイリスクでコストがかかる行為です。ですから、これからは地方や郊外ではなく公共機関やインフラが発達している都会で生活するというのは、その意味でも賢明な事なのです。

そして日本は病人だらけの先進国となった

日本における、一般庶民の食事の貧しさには驚くものがあります。何が「世界に誇る和食文化」ですか(笑) カップ麺やペットボトル飲料に代表されるような、ゴミ食品をほとんどの日本人どもは食わされているのです。

精製された炭水化物・砂糖に、精製塩、化学調味料、そして化学的に抽出された植物性油脂などなど、天然成分はひとつもありません。カネを払って、こんな化学薬品というか毒物を、毎日食っているのです。そしてそれをどうやら旨いと思っている。

貧乏人はまともな肉や魚、そして本当の砂糖や天然塩、バターやクリーム、新鮮な野菜も食べられないのです。買えるのは、まがい物の化学合成品だけです。

そもそも日本人が大好きな白いご飯や麺、あんなものは嗜好品、お菓子に近いものです。あれを主食と称して沢山食っている所からして間違っています。肉や魚など良質なタンパクはほんの少ししかありません。さらに政府やメディアが後押ししている化学合成の毒物食品、これで大勢の人間が病にかかって、くたばっているのに、誰も知らんぷりです。

なぜ日本だけ突出して認知症やボケ老人が多い国になったのか、分かっていながら手を打たない。それどころかまともな老人からも免許をとりあげ、邪魔者扱いをしようとする勢いです。地方の小型店舗を潰して、大型ショッピングセンターを建てさせたのは誰だったのか。地方ではクルマが無ければ生活できないのです。大手コンビニチェーンは、これまた酷いリサクル食材を使っています。これほど人命を軽視している国は世界にそうそうありません。

しかしこの事を指摘しても、日本人は何のことか理解できない、それどころか、自分が良いと思っているものをけなされて不快に思うのです。まさに豚に真珠です。

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。(マタイ書7:6)

ルシファーの「終わり来る来る」詐欺と、本当の終わり

近々、聖書の黙示録に書かれているような、恐ろしいこの世の終わりが来るのでしょうか。第三次世界大戦や天災、地震、疫病が世界的に起こって多くの人々が死ぬのでしょうか。そして正しい人だけが携挙(天に挙げられる)されるのでしょうか。

ルシファーがこの物理世界を粉々に破壊するというのはあまり考えられないことです。というのもルシファーはこの箱庭世界が大好きだからです。この世界でうごめく人々を愛しているのです。

もうすぐ第三次世界大戦が来そうだとか、金融危機、経済危機が来るだとか、NWOイルミナティ人工知能による支配だとか、地球温暖化だとか、大地震が来るとか、様々な可能性が語られますが、これらは一種のショックドクトリンです。人々を疲弊させ、堕落させ、最終的に「終わりなんか来ないんだ」と思わせるのが目的です。しかし終わりは来ます。それも突然にです。ですが破壊的なものではありません。

イエスはこう述べています。

ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。(マタイ24:27)

しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。(マタイ24:29)


稲妻は光です。光が東から西に閃くのは、ほんの一瞬です。この物理世界は天界の住人からすれば、コンピューターの中のシミュレーションゲームのような世界です。OSを予め入れ替え、データのバックアップをとり、この世界のありようを変えるのは、コンピューターのリセットと同じで、ゲーム内の住人の意識からすればほんの一瞬の出来事にすぎないのです。

その時、世界のありようは全く変わってしまうと思われます。太陽や月、星々は無くなり、山々や海も消え去ってしまうかもしれません。何故ならノアの洪水前はこれらのものは地上からすると無いものだったからです。エデンの園時代は、さらに世界の様子や人間の形状さえも異なっていたと思われるからです。全く変わってしまった新しい天と地(Sky and Earth)を見て、多くの人々はその時震えて艱難と裁きを待つことでしょう。

人間は矛盾を解決するためにウソをつく

人間は人生において様々な問題を解決することを求められています。外部の問題だけでなく、人間には無意識があり、問題に対して適切な解決をしなければいろいろな異常行動や身体症状となって自分を困らせます。

矛盾や葛藤を経験する時、人々は防衛機制で自分の心を守ろうとします。すなわち、人間は事実を自分の都合の良いストーリーに作り変えて記憶してしまうのです。これが人々がウソをつく理由のひとつです。

これを見事に映像で表現したのが、黒澤明監督の「羅生門」です。ひとつの事件が4人の証人によって、まったく違う話として語られます。法廷における損得勘定からではなく、それぞれの心理的葛藤の解決の結果として、証人それぞれのストーリーが出来上がったのです。

このようにウソをつくのは、人間が「問題を解決する」という試練を人生において課せられているが故に、いわば必然といえるような行為なのです。

ルシファーは人間に問題の解決とバランス感覚を求めている

誤解されていますがルシファーは悪の権化ではありません。この物理世界で善と悪を創ったのはルシファーですが、彼は人間が悪の誘惑、また過度な偽善者となる誘惑に打ち勝って絶妙なバランス感覚を持って物事を解決していく事を求めているのです。

問題は、これがすこぶる難しく、人間にはほとんど不可能なことです。いや地上にアバターとして降りてきた多くの御使い達でさえ不可能だったのです。

ルシファーがこの物理世界を作り変えた時、多くの御使いが彼に賛同し協力をしました。御使い達でさえ、物理世界で人間が善悪を巡って戦い最終的に善が勝利をおさめるというプロジェクトは悪くはないものに見えたのです。

社会において、家族のなかで、あるいは天災や事故で人々は、様々な問題に直面します。また感情や無意識が我々に矛盾と葛藤をもたらします。これらはルシファーから人間に与えられた人生の課題なのです。物事や心理には原因と結果がある。この問題を解決せよと、ルシファーは常に問いかけているのです。

ルシファーはカインを心理的葛藤状況に置いたうえで、こう問いかけました。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:6)

ルシファーは自ら悪を成すことはありません。配下の御使い達も、善の神と悪の神を演じているだけです。ノアの洪水後に役割を失って、やさぐれてしまった御使い連中は「悪霊」と呼ばれています。ルシファーが狡猾なのは、御使いや人間をそそのかして、罪を犯させていることです。サイコパスと同じでそそのかすだけなら良心は痛まないのです。

身の回りで起こる様々な問題の解決や、仕事での日々の進歩や「カイゼン」、科学の究明に夢中になると、ルシファーの仕掛けた罠にはまる恐れがあります。あわれな人間にとって懸命な問題解決方法は「許容(あきらめ)」と「許し」です。