kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

Pat Metheny - Don't Know Why

"Don't Know Why"は、Jesse Harrisが作詞・作曲し、ノラ・ジョーンズNorah Jones)のシングルで有名になった曲です。ここではギタリストのPat Methenyバリトンギターを用いて、独特のアレンジでこの曲を演奏しています。


Pat Metheny - Don't Know Why - LIVE - Later with Jools Holland

こちらが、ノラ・ジョーンズの曲になります。


Norah Jones - Don't Know Why

日本人の男女関係

男女関係を見てみると、日本人の人間関係の問題が浮き彫りになるようなところがあります。

日本人は愛情が薄く自閉的な傾向を持っています。人と付き合いたくないのかと思えるくらいです。以前は欲望や集団の圧力によって交わっていたのが、家族を持つ必要性が薄くなった現在においては、個人で生活するという、本来の姿に戻ったとも言えそうです。

 

スパイを描いた映画「レッド・スパロー」で教官が、ハニー・トラップについて、肉体的な技術だけでなく相手の欲望を見定め、それに合った心理操作が必要だと述べる場面があります。ターゲットとなる男性の中には同性愛者や、娘の代わりに女性と食事をするだけで満足する者も居るのです。「愛される」とは、「見られ、認められ、孤独では無いと感じること」だと教官が語ります。シンプルですが分かり易く実際的な定義です。

 

日本人も人間である以上、「孤独では無い」と感じたい欲求があるはずです。しかし彼らの場合、それを満たしてくれるものは、必ずしも家族であったり、異性であったりする必要は無いのです。安定した勤め先に帰属している事が、同僚と時々酒を飲めるという居心地の良さ、毎日通って暇を潰すことの出来る場所があるという安心感につながっているのです。日本人でもパートナーや家族を大事にするという人は居るでしょうが、多くの人にとってその重要性は相対的に低いのではないでしょうか。

 

さらに日本人は「愛する」という行為も苦手です。「相手を見て、認め、安心感を与える」、こういった事が出来ない人が多いのです。

ですから日本人は、実際の人間を愛したり、眼前の人々から愛されたりするよりは、抽象的な「日本」や役所、企業、あるいは主張や意見、趣味趣向を同じくする集団に属する事で満足を得ようとするのです。

 

男女関では互いに相手の欠点ばかり見ていて、なかなか相手の良い面を認めようとしません。「生理的に好きになれない」というわけです。これでは候補と感じる理想の相手には、なかなか巡り会えないでしょう。好きになっても、相手に対して一貫した気持ちで継続的に関与し続けるという事が出来ないので、カネや魅力がなくなったら「ポイ捨て」という事にもなりかねません。また、相手の浮気は許さないが、自分は欲望のままに振舞うなど、要するに日本人は自分の事しか考えて居ないのです。

 

日本人のあらゆる人間関係と同じように、男女関係でも上下関係というのが付いて回ります。男性は女性という奴隷を求め、女性は子供という意のままになる奴隷を求めます。こういう異常な「支配ー依存」関係は、構成員が病的な性格でそれに満足している場合にだけ上手く行きます。満足して居なくても、他に居場所が無ければ我慢する他はありません。男性は勤め先に依存し、女性は家庭に依存します。

 

愛の薄い日本社会で人々は、愛の代わりを得られる帰属先、すなわち、安心できる居場所を求めて彷徨います。肉体的欲求の満足、心理的、経済的な安定を求めていますが、それら全てを家族で補う必要は無いのです。年を重ねるにつれ、収入が安定していない女性の場合、経済的な不安が大きくなり、一発逆転を狙うようになります。男性の場合は心理的な安定を求めるようになりますが、より従順な相手が理想となります。かくしてすれ違いが続きます。

 

昔の日本ならば、欲望のまま、若気の至りで結婚しても「どうにかなるだろう」という見通しがありましたが、今やそんなリスクを取る事は出来ません。将来に渡ってより経済的に安心感のある相手、より経済的に負担とならない相手を、よくよく見定めて選ばなければなりません。「可愛い、綺麗、格好いい」で早計に結婚、妊娠しては人生が詰んでしまうかもしれません。経済的な安定感が無く「可愛い、綺麗、格好いい」という水準にも達して居ないような人間は眼中にすらありません。

 

日本人がかろうじて子供を作って来れたのは、不倫や強姦に寛容な社会、社会の経済的な安定感や希望の存在、勤め先や近隣社会による結婚への圧力、男性は家庭を顧みず、女性が身を粉にして家族の為に働く事が社会常識とされてきたこと、若い女性が一人で生活するというのが考えられない社会であったことからでしょう。

日本人は「愛情」などと言う要因で結婚したり家庭を持ったりはしません。

現在の日本における未婚や小子化という問題は、もともと内在していたものが単に表面に現れて来ただけなのです。

論理や倫理を持ち得ない現代の日本語

以下はデカルトの「方法序説」からの一節です。

「私自身について言えば、一般の人々と比べてどんな点においても自分の方が完全であると考えたことは無かった。それどころか、他の一部の人達と、素早い思考や、明確で鮮明な想像力、必要な時に十分に想起できるような記憶力において同程度であればよかったと私はしばしば願いさえした。それらと並び、理性や良識に関しては これ以外に精神を完成させるのに貢献するいかなる資質も私は知らない。というのも、我々を人たらしめ獣と区別する唯一のものである限りにおいて、この点で哲学者が言う、良識の多寡は『偶有性』の中にあるだけであって同一種の個人における『形相』や性質の中にでは無いとする一般的な意見を採用したいのだが、私は理性を個々の人々の中に完全な形で見出せると信じたいのだ。」

"Pour moi, je n'ai jamais présumé que mon esprit fût en rien plus parfait que ceux du commun; même j'ai souvent souhaité d'avoir la pensée aussi prompte, ou l'imagination aussi nette et distincte, ou la mémoire aussi ample ou aussi présente, que quelques autres. Et je ne sache point de qualités que celles-ci qui servent à la perfection de l'esprit; car pour la raison, ou le sens, d'autant qu'elle est la seule chose qui nous rend hommes et nous distingue des bêtes, je veux croire qu'elle est tout entière en un chacun; et suivre en ceci l'opinion commune des philosophes, qui disent qu'il n'y a du plus et du moins qu'entre les accidents, et non point entre les formes ou natures des individus d'une même espèce." Discours de la Méthode

逐語訳でしたが、今度は正確さを犠牲にしてでも分かり易い表現を試みてみます。

「私は、自分が他の人よりも何らかの点で優れていると思った事はなく、それどころか、他の人のように、速く考えたり、はっきりと想像したり、思い出せたりしたらよかったのにと考えたものです。これらのものと同じように、理性というのは、精神を良いものとするのに大切で、私たち人間を動物と違ったものにしているこの理性は、すべての人の中に見出すことができると私は考えています。と言いますのも、理性が多いとか少ないとかいったことは、たまたま表面においてそうなっただけで、人間本来の理性は完全であるという、哲学者の意見に私も賛成するからです。」

こう書くと有り難みは少ないですが、ごく普通の事が書かれているというのが分かると思います。

 

分かり易い文章とはどういったものでしょうか? 

例えば新約聖書福音書に、今でも多くの人達を捉えるものがあるとすれば、それは弱者や罪深き人々への同情や愛情が、語られる人柄から伝わってくるだけでなく、その比喩を多用した表現、ありありと眼前にイメージできるような描写、まるで個人的に話しかけられているような話の進め方にもあるのかもしれません。

 

語りかけるように書かれ、声に出して読んだ時にリズミカルで気持ちが良く、ひとつひとつのパラグラフが適度な長さである、同じ単語の繰り返しは避け、変化があり、さらに誰でも読んで分かる表現や比喩が使われ、面白く読むこともできる、そういった文章がひとつの理想ではありますが、また、出来るだけ文章全体の長さは短くしながらも情報を詰め、曖昧な語句を避け、簡潔な文体で正確を期すという書き方もあります。いずれにしても書き手が最も伝えたいと思うレベルで、その意図が、最も伝えたい読者に伝わればいいわけです。

 

しかし現代においては、情報を口頭で伝える機会や重要性が相対的に減り、それに従い、口語体の退化、言文の乖離、ひいては言葉全体の退化が起こっています。

 

言葉の退化は論理の欠如へとつながります。

日本人は言葉を視覚的に処理していると言われますが、視覚処理は並列的に処理できる一方で、聴覚処理は時系列で入力されて来る単語や接続詞を使って自分で構造を組み立てていく必要があります。日本の教育で作文は重視されていませんが、書く場合も、込み入った思考をひとつの時系列の流れとしてつむぎだす必要があります。 日本人がもともと論理に弱いのはこういった所にも原因があるのでしょう。

論理に弱ければ、体系だった倫理感を持つ事も難しくなります。

  

日本人自身が、自分達が考えたものにあまり価値を認めず、外国からの翻訳や引用をやたらと有難がる傾向があるのは、もともと自分達に論理的で価値ある考えなど、作り上げることはできないのだと、無意識に思っているからかもしれません。 

権威の裏づけが無い限り、口達者な人が居ても、詭弁を弄し騙そうとしたり、何かを誤魔化そうとする怪しい奴と思われたりします。

言葉を軽々しく扱ったり、あるいは逆に、神棚にでも祭るように仰々しく使ってみたり、そういった言葉に対する不当な仕打ちを止めない限り、日本人が論理と倫理を身に着けることは永遠に出来ないでしょう。それを変える為には、言文一致運動以来の、根本的な国語の改革が必要なのかもしれません。

囚人のような日本人

日本人は抑圧された社会でも何故平気な顔をして生きていけるのでしょうか?

ドストエフスキーの「死の家の記録」には、個性豊かで時に愛すべき囚人達の姿が描かれています。書き手は囚人の中に共通するある特徴に気づいていきます。

囚われの身でありながらも、人々は精一杯虚勢を張って過ごし、「何時かこの監獄を出た暁には・・・」という儚い想いにすがって生きています。彼らは自分達の「分」を良く心得ており、反乱や脱獄はめったに起きず、その日その日を大過なく過ごしながら、出獄の日を指折り数えて待っています。

毎日を適当にやり過ごし、あり得ない希望にすがる、それがあるからこそ劣悪な環境でも「死にもせず発狂もせず」生きていられるのです。日本人もこれと似た所があります。

 

例えば徒刑囚(懲役囚)は、毎日働かせなければならず、しばしば意味の無い仕事を与えられます。だから仕事のやり方もダラダラとしたものになります。目標やノルマを与えられた時だけ、かろうじて頑張る事が出来ます。

仲間との会話は、中身のあまり無い虚勢に満ちたもので、空威張りをし、威勢が良いだけの言葉が飛び交います。周囲はそれを笑いながら見ています。口喧嘩では、どれだけ達者な事を言って相手を丸め込むかが重要であり、そういった強さがなければ軽蔑されます。正直者は馬鹿だと思われています。こういった争いや口喧嘩で、日頃の鬱憤を発散しているのです。

彼らは常に短期的、短絡的な見方しかできません。例えば未刑囚は、目の前に迫った悲惨な笞(むち)打ちの刑を逃れる為なら、どんな馬鹿な事でもします。例えそれで刑罰が重くなってもです。彼らは状況が悪くなるのが分かっていてもそれを先延ばしにして、現在の不安を誤魔化すような事をするのです。

口喧嘩に見られるように囚人はプライドが高く、貧しいながらも何とか手に入れたボロボロの服装で洒落者を装い「自分は特別だ」という風に監獄内を練り歩きます。表面を糊塗した滑稽な身なりでも本人は大真面目なのです。

さらに彼らは、よく妄想に浸ります。監獄を出られそうもない年配の徒刑囚が「自由の身になったら~」というあり得ない幻想にひたって自分を慰めています。

 

日本人は自由の無い囚われた存在であることを無意識のうちに認識しているからこそ、監獄に入れられた人々と似たような行動をとるのかもしれません。

恐る恐る、誰かに借りたかの様な束の間の人生を生き、自分が社会的に無価値であることを認識しながらも、ごくたまに「自由意思と権力」を見せつける機会があれば、それを逃しません。自分より弱い者を虐げて満足しています。たまに人間扱いしてくれる詐欺師が現れるとコロリと騙されてカネを振り込んでしまいます。

日本ではさらに、虐げられた状態でも集団内で序列が作られ、その中で不平等が発生します。徒党を組み、どちらが正しいか(≒偉いか)を巡って醜い争いを繰り広げるのです。

 

日本以外の国では、自分を買い取って自由の身になれる奴隷が居ましたが、日本人は、巧妙に作られたシステムにより、高い公共料金や税を支払い、マージンをたっぷり乗せた物価に喘ぎながらも、ウサギ小屋を手に入れ「普通の生活」をするために、死ぬまで働き続けなければならないのです。「年金をもらえるようになったら・・・」「いつか自分の夢をかなえて・・・」とあり得ない夢想にふけりますが、彼らには永遠に「自分の人生」などは訪れないのです。 

それでも日本を成り立たせる為に、このシステムは維持し続けなければなりません。子供たちには是非とも、「日本の存在感を高める事に貢献したい!」「生涯現役で人のために尽くします!」「75歳まで働いて年金を満額受け取るのが夢です!」「欲しがりません○ぬまでは!」(笑)と言うようになってもらうべきなのです。