kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールであり、日本の発展に寄与する事を目的とします。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています)これらを通して人間に共通する問題をも探り散文的に表現していきます。

相手が委縮していないと怒りだす日本人

日本人の多くは自分より下のものが萎縮しているのを見ることで、自分を保っているようなところがあります。

 

ある受刑者が刑務官の前でふざけたら、それまで良くしてくれた刑務官の態度が急に厳しくなったという事がありました。彼は自分のボスに境界線を超えて馴れ馴れしくしてしまったのです。そうすると、どんなに慈悲深く見えた人物であっても「俺はお前の仲間でも友達でもない、それなのに舐めやがって」と日本人は怒り出すわけです。

 

日本人が外国人観光客に対して抱くある種の反感のひとつは、彼らの天真爛漫さ、リラックスした様子に起因するものです。「自分達は委縮して常に周りを気にしながら生きているのに、こいつらは」というわけです。

 

以前ある授業で、教師が突然「留学生のXXXさんが発表したいことがあるそうです」と宣言したことがありました。するとXXXさんが、拙い発音でたどたどしく短歌を詠み始め、こうした晒し者のような扱いを受けた後、今までさんざん無視してきた周りの連中が割れんばかりの拍手を一斉にしたのです。それから数ヶ月もたたない内に、その留学生は「すみません、すみません」と肩を落として道を横切る萎縮した日本人のようになってしまいました。日本の共同体に受け入れられるにはこのような屈辱的な通過儀礼が必要だったのです。

 

それでは、いつも委縮していれば日本社会で上手くやっていけるかというと、そういうわけでもありません。例えば若い人や女性で多いのですが駅などでよく人にぶつかってしまう人がいます。舌打ちをされたり肩をあからさまにぶつけられている人もいます。視線をまったく合わせないと、相手は「こいつは俺より格下だ」あるいは「自分を無視している」という様に判断して途端に相手を邪慳に扱うのです。下手に出るとつけあがるのが日本人です。

 

慣れた通勤者が歩いている様を観察すると、彼らは肩を落とし俯き加減で歩きながらも、時々盗み見るように相手に鋭く視線を送り、目が合うとさっと視線をそらすという事を繰り返しています。

 

ところが例えば賃貸オフィスビルに、そこの社員と間違われるような恰好で入ってみると、目上の日本人の態度があきらかに変わることがあります。彼らの態度は明らかに尊大になり睨み付けるように相手を見ることがあるのです。

 

外では相手の立場が判断できません、向こうはひょっとすると取引先やお客様かもしれませんし、大きな影響力を持っている人かもしれません、だから迂闊に尊大な態度はとれないのですが、ある一定のエリアになると、そこでは自分は重要な人間であるという意識があるために本性を現し、急に態度が大きくなってしまうのです。

 

このように日本人の多くは相手との相対関係によって委縮したり尊大になったりを繰り返している節操のない人達なのです。彼らは人と会う時も、挨拶すべきか、あるいは無視すべきか、注意深く判断しています。誠実な心を持って人と接するということが出来ないのです。

 

日本には「対人恐怖症」という独特の疾患があることで有名です。先生や目上のものに対して目を合わせてはいけない、意見していはいけない、委縮し恐れおののいて恭順の意を示さなければならないと小さい頃から躾けられていることが、対人恐怖症になってしまう原因のひとつとなっている可能性があります。日本人は精神安定剤睡眠薬に使われることの多いベンゾジアゼピンの消費量や中毒者も群を抜いて多いのです。

 

多くの日本人は組織の中で緊張し委縮していなければならないので、笑う時まで一緒です。ゲラゲラ一斉に笑ってリラックスするのです。集団でいるとき赤の他人をダシにして笑うというのも日本人に良く見られる悪い傾向です。

 

日本人は目上の人や偉い人が何か言うと、それがとんでもない発言であってもすぐさま同調し、あろうことか自分の仲間や友でさえ平気で裏切ります。ネットやオピニオン雑誌、トーク番組で見たり聞いたりしたことを真に受けてしまい深く考えもせずに自分の意見とします。反対に自分より格下だと思っている人がどんなにまともな事を発言しても、粗を探して貶めることに彼らは一生懸命となるのです。日本人には真の友達や仲間などはおらず、簡単に相手を裏切り、互いに争い合っています。

 

彼らは強い者を探してなびく葦のような存在です。アメリカが強いと見れば、節操もなくそちらになびき、アメリカ様が手を引き中国が強くなりそうだとなると、途端に手の平を返して媚を売ります。体も倭人なら、心も倭人です。

 

このように日本人は集団の秩序や和を保つ為の行動の絶対基準を作ることが出来ず、相対的で曖昧な基準でいつも行動しているので、彼らはモラルの欠片も誠実さもなく、どんな醜いことでもやってのける人達となってしまったのです。

この世は不安定だから、全てが存在し活動が生まれる 

宇宙のエネルギーの総和はゼロという考え方があります。物質と反物質が接触し消滅するとエネルギーが生じ、それとそれ以外のエネルギーを足したものと、いわば負のエネルギーとも言える重力がちょうど相殺するというわけです。

 

この宇宙は不安定な状態だからこそ存在していると言えるかもしれません。無の安定した状態から正のエネルギーと負のエネルギーが分けられ、正のエネルギーは粒子と反粒子となって物質を形作りました。無から何かが生まれたというのは奇妙な考えに思えますが、相殺されるからこそ、幾らでも大きなエネルギーや質量がこの宇宙で存在し得るというわけです。

 

人が作ったコンピューターの世界においても、電圧の差により2つの状態(これを0と1とラベリングして考えます)を生み出し、これによって人間が認識する多くのものを表現し2進法で計算を行うことによって、さまざまなシミュレーションが可能となっています。

 

この世界は複雑ですが、正と負というように、原則として2元論的なものを多く見かけることができます。

例えば人は男と女に分かれているから、互いを求めて行動します。人はエネルギー原である食糧と分かたれているから、食べ物を求めて常に動き回らなければなりません。睡眠と覚醒があり、昼と夜があるから人は働いたり休んだりするのです。夏は冷たいものを求めて、冬は暖かい物を求めて人はあれこれ活動します。善と悪という概念が分かれているからこそ、人はその間の適当なバランスを求めて思考し行動します。あるいは究極の自由、究極の秩序を求め、人はその間で永遠に彷徨い続けるのです。

 

宇宙全体は生まれてこの方、無秩序へと向かって動いています。人はこの無秩序のなかのごく一部分で、つかの間の秩序ある世界を構築しようともがいている存在なのかもしれません。

例え人間がいくらそのような世界を作ろうと活動しても、それは宇宙全体のエントロピーを増大させることにしかならず、またそれとは関係なく、宇宙は終焉を迎えます。

終焉自体は遠い未来のこととは言え、人間は自分の見える限られた範囲内でしか最善を尽くすことができず、また永遠に得られない答えを求めてさまよい歩き、結局は消えていく小さな存在なのです。

共感を目的とし、自分の意志や考えを表明することに重きを置かない日本語

日本人は奇妙なうなずきをすることがあります。例えばニュース番組で若者が未来の希望を語る映像が出た後、アナウンサー達が微笑みを浮かべながら一斉に頷くのです。あるいは映画で主人公が恋人を思い浮かべ決意の表情で頷くこともあります。日本人ならば意味は何となく分かるはずです。

 

これは相手の感情、意向や存在を是認したという仕草なのです。ラジオなどを聴いていても、語り手の一方が何かを喋ると、必ずもう一方が同意の言葉を述べます。そんなに意見や感情が一致するはずは無いのですが、延々と同意し合って建設的な議論は決して始まりません。

 

日本の会話においてはまず「あなたを是認しました、仲間として認めました」という合図が何より大切なのです。その後は「わたしはあなたと同じことを感じています」という関係維持の為の、言葉や仕草がグループの成員である限り繰り返されることになります。

 

そもそも日本語のような主語や動詞の地位が低い言語においては、自分の論理や考えを伝えることは主たる目的ではないのです。極端な話、ただ単語を並べるだけで文は完結してしまうのです。

例えば目の前の風景を様々な単語を並べて描写し「いとをかし」等と言う、つまりある環境において、それに当てはまる言葉を探し出して表明する、そうすると相手は「彼は確かに自分と同じことを感じている」あるいは「この環境においてはこういう言葉を充てるのだな」と即座に理解し同意を示すのです。

俳句というのはまさに日本語表現のひとつの極みと言えるでしょう。

 

発せられた言葉はその場にいる全員に同意されることを前提としていますから、主語などどうでも良いのです。

また言葉を当て嵌めて皆で共感し安心することが目的なので、それで自分がどうこうするという意志を示す必要が無く動詞もそれほど重要でないのです。

 

このように言語が未発達なのに比べて、日本では単語の種類だけはやたらと多いのです。新語や造語が日々現れます。あるグループの内輪では独特の隠語が使われます。その隠語の意味を知らなければその成員となることはできません。

言葉によって共感を強要するのとは逆に、容易には推察できない微妙な隠語を用いることによって、相手が仲間か敵かを判別し隔てることができるのです。

ですから流暢に日本語を操る外人は嫌われます。たどたどしく語り、時々滑稽な間違いを犯して笑われる道化ぐらいが日本人にとってちょうど良い、束の間の客人なのです。

 

仲間かどうかを区別する方法だけでなく、上下関係を厳格に維持するやり方も、言葉の使い方を通して観察する事ができます。下の人間は上の言う事はどんな支離滅裂なものでも同意しなければいけないし、上の者は是認されることを当然と考えます。下の人間は言葉を返すことも無く、ただひたすら「空気を読む」「察する」ことを日々重要な役目と認識するようになります。

 

日本人の仕事ぶりを眺めると、下請けの技術者でも無い限り、彼らは眼前の仕事に集中などしていません。机に座っても360度周囲に気をつけています。偉い人が近くにいないか、他の人が今何をやっているか、周囲でどのような会話が行われているか、どのタイミングで会話に参加すべきか、あるいはそ知らぬ顔をして黙っているべきか、はたまた、そろそろ帰っても良い雰囲気か、ダラダラ仕事をしながら、そういったことに抜け目無く注意を配っているのです。

 

こうして見ると日本語というのがいかに日本人の習性を反映した言葉なのかということが良く分かります。

ただ当たり障りのない言葉をサラダのように混ぜ合わせて共感を得ることが目的のツールであり、意味や論理、考え方、自分の意思などはどうでも良いのです。日本ではロゴスという概念は存在したことがないのです。

ですから日本の社会が滅茶苦茶で世界に大きな迷惑をかけてきたのも当然です。蟻は言葉が無くても集団で大それたことを行います。

西洋文明社会の一員のように振る舞い、自分でもそう思っているのですが、彼らの頭は未開の人間や言葉を持たない獣に近く文明人などでは決してないのです。

詐欺の才能に長けている日本人

日本人に独創性はあまりありませんが、詐欺の才能には非常にたけています。日本ほど詐欺師が多く、詐欺行為が国中に蔓延し、詐欺による被害額が極めて多い国は珍しいかもしれません。

 

先物取引は日本で始めて生まれました。主食であり実質上貨幣でもある米を投機の対象とし、さらには現物だけでなく未来に収穫できるであろう穀物までもその対象とすることによって、大量の資金が相場に流れ込むことになりました。商人は余剰穀物で金儲けが出来るようになり、投機筋を買い向かわせることによって未来の損失を回避することも可能になったのです。

しかし大勢の消費者は価格高騰や流通量減少に直面することになり、飢饉の発生等と共に米騒動や打ちこわしへと繋がっていきます。

 

日本では消費にまつわる多くが詐欺のようなものだったりします。実質的な間接税をかけられた高い生活必需品、公共交通機関や通行料金、頻繁な車検や、曖昧な交通ルールによる反則金制度、ETC、STBなど、この国ではいかに愚民どもからカネをむしりとるかということに皆が懸命です。

住宅購入費用は異様に高く人生のほとんどをその借金返済にあてなければなりません。しかも数十年でボロボロになり資産価値もなくなってしまうのです。

日本人は人を欺くようなネーミングも平気で行います。粗末な木造長屋がアパートと呼ばれ、コンクリート製の穴倉がマンションと呼ばれます。

大量生産のショボイ「贅沢品」だけが、この国では比較的リーズナブルに買えますが、多くの国民はそれをもって「日本は生活水準が高く便利で進んだ国だ」と喜んでいます。

 

経済が上向き人々に多少とも財産ができると、カネに目がくらんだ彼らをカモとする詐欺も多くなります。

 

戦後すぐに有名な「光クラブ事件」があり、1953年には早くも政界を巻き込んだ「保全経済会事件」が起こりピークを迎えます。自転車操業による高配当投資詐欺が当時も沢山あったのです。田舎の人々がわざわざ上京して現金を面白いように預けていきました。何に投資しているかも分からないのに単に高配当というだけで飛びついたのです。

 

日本では人にウソをつく行為を恥と思わぬこと、そして弱者を食い物にすることが許されており、上手くいくとなれば皆が一斉に同じ事をする傾向を持っていること、さらには被害にあっても大人しい国民性と、万が一問題になっても迅速に機能しない警察と司法などにより、詐欺が蔓延しているのです。

 

経済が下向き財産が減っても相変わらず一発逆転を夢見て貧しい庶民が博打のような相場に打ってでます。

昔ながらの罫線法とあまり変わらないテクニカル分析の本を読みながら、ネットの情報を元に勘で一か八かの賭けをしているのです。建玉はディーラーに丸見えです。

昔は裁定取引(サヤ取り、ストラドル)をする人は心臓病で早死にすると言われたことがありました。24時間相場を気にしなければいけないからです。今では素人が外国為替の博打をやっています。しかも高いレバレッジでです。

日本人は世界一相場に疎いと言われながら、世界で最も巨額の資金を個人がつぎ込んでいます。

 

日本人は高名な人でも平気でウソをつき相手を騙すことで有名です。外国人監督を解任し世界大会の手柄だけ横取りしようとか、いまや日本のずるがしこさと誠実さの欠片もない表面だけの二枚舌は世界に知れ渡っています。

「日本は平和を愛する民族だ」などと言っても誰も信用しません。そのような唾棄すべき輩は利用するだけ利用しカネをむしりとってやろうと思うのです。日本人は抜けているので、国際的な詐欺にはまんまと騙されてしまうのです。日本人相手に詐欺は出来ても、国際的な場面では彼らはカモなのです。

 

日本人の多くは欲深いのに表面だけを見て深く考えようとせず、楽な金儲けを夢見て人の言う事を簡単に信じてしまう、また明るい話だけを受け入れリスクを冷静に分析することができない人々です。日本はこのような人々が多く居て、さらにそれを食い物にする人達でなりたっている国なのです。

 

責任の所在を曖昧にして弱者どうしを争わせる日本

日本は行政がやってしかるべきことを、個人の善意やボランティア意識にすり替えるという事をよく行います。例えば優先席です。非人間的なほど乗車率の高い電車の問題、一極集中、公共交通機関における障害者や妊婦の庇護を、企業や行政、自治体は解決をせず、その代わりに「優先席」なるものを用意して、「お前たちで何とかしろ」と言うわけです。

 

以前、電車で持病のあるサラリーマンが優先席に腰かけていたところ、目の前の女性に無言で嫌がらせをされたという書き込みをSNSで見かけました。具合の悪い人は座りたいのだったら優先席に限らず「どなたか席を譲っていただけないでしょうか」と口に出して言っていいのだし、また汚いオッサンや若い男性は病気でも立っているべきだという訳でもありません。この場合、どちらが悪いという問題ではなく、戦う相手を間違えているのです。

  

優先席だとか、実際に送検される違反速度とか、人々の間でなんとなく決まっている、あるいは有名無実になっていて誰かの恣意で決まってしまう、そういう曖昧で絶対的基準がないものを使って下々に問題を押し付けるのです。しかもそれは絶対に解決できないようなものです。何しろ行政が解決できていないのですから。精神論だったらどんな無理なことだって言えるのです。

 

高速道路や駅で進行方向を示す矢印をペイントしただけで、企業や行政は逆走を防ぐ措置をしたことになります。逆走をした者は「このペイントが目に入らなかったのか!」と怒られるのでしょうか。

 

一方、下々の世界においては、ある人は「ルールを守れ」と言い、ある人は「法律で定められたものではない」、あるいは「現実を見ろ」などと言って弱者同士で争っているのです。

 

なんのことは無い、これらは為政者が責任を逃れ、愚民どもを統制するひとつの方法となっています。

 

何か問題があれば、「国民一人一人が解決すべきもので、できないのは日本人として恥ずかしい」とし、さらに不満が高まれば「皆が困っているではないか」と言わせ、その矛先を鈍らせるのです。

 

例えば、疑惑の学園において「善意の学生達に罪は無い」と言ったり、汚染問題では「風評被害で地元の人が迷惑している」、「復興の妨げになる」と言うわけです。さらに彼らは自己弁護のためにも、こういった詭弁を使います。「悪意は無いのに、何で自分達が悪く言われなくちゃいけないんだ」というわけです。

 

自分に価値基準がなく、お上が決めたルールや、周りの人々の言う事で右往左往しているだけだから、自分で論理的に言葉を使って解決することもできず、弱い日本人はお互いに、こういった陰湿な嫌がらせを行い続けるのです。